第182期 #7

よく晴れた日曜の午後一時五十八分、彼女は藍色のコートを着て現れた。笑顔を浮かべて、小さく手を振りながら歩み寄ってくる。
「その藍色、いいね」
「紺色だよ」
彼女は苦笑いで答えた。俺は、藍が好きなのに。
「吉祥寺は、よく来るの?」
サンロードの看板を見上げながら訊いてきた。いつもと変わらない、年齢よりも大人びた笑顔だ。
「時々かな。二十年前に住んでたらしいから」
「都会の少年め」
「都会の乳幼児だよ」
あはは、と声を出して楽しそうに笑った。
来るのは初めてだと言っていたが、彼女はこの街が似合う。俺よりもずっと。

彼女のことを初めて見たのは、一年前。第一希望の会社の集団面接の日、控え室で隣に座っていた。
俺はよく、人を色で例える。あの先生はオレンジ、バイトの先輩は灰色。
そしてあのとき、彼女が視界に入った瞬間、この人は藍色だと思った。
真っ黒のリクルートスーツを着ていたのに。
彼女の内側からあふれる穏やかな神秘性は、黒を塗りつぶした。
長くすだれのようなまつげ、かすかに憂いをたたえた瞳。まじまじ見たわけでもないのに、その一瞬が写真家の一枚のように刻みこまれた。
声をかけるなんて考えも浮かばないまま、面接が始まった。
「××市立短期大学教養学科の水上藍です。学生時代に打ち込んだことは……」
水上藍。みなかみあい。ミナカミアイ。
今まで出会ったどんな名前よりも美しく、その人に寄り添うように魅力を引き立てるフルネームだと思った。
彼女は、藍。

友達のおすすめだと言う小さなカフェで、彼女はキャラメルマキアートを頼んだ。隣でアイスティーを頼むのが恥ずかしくなり、ブレンドコーヒーに変える。シュガーなしを覚悟して。
「職場で声かけてくれたとき、びっくりしたんだよ。面接のときは緊張してたから、周り見れてなかったけど、隣にいたんだね」
ストローでマキアートを軽く混ぜながら、彼女が言う。深い海のような優しい声で。
あの企業からお祈りメールが届いたとき、人生でまた彼女に会える可能性は限りなくゼロになった。と、思ったのだ。
「内定式のとき、どこかで見たことある人がいると思って。確信持てなかったから、なかなか話しかけられなかったけど……」
どうして。見栄ばかりが口から出て来る。彼女以外に、美しい藍色の人はいないのに。
「でも、おかげで友達になれたよ」
藍は笑う。深い海のような優しい笑顔で。



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