第181期 #4

スイート・マリー

マリーが木の枝で眠りたいの、といい始めたのは彼女が30歳の誕生日をむかえた晩のことで、その日はきっとモームがひそかにダイヤモンドの指輪をプレゼントしてくれるにちがいないと思っていた。

ところがモームがかってきたのは、赤と青の縞模様のパジャマだった。

「誕生日にパジャマなんかほしくないわ!」

マリーはそういって、そのときは、もらったばかりのパジャマをくしゃくしゃにまるめて犬小屋に放り込んだ。犬小屋に放り込まれたパジャマを、犬がくんくんと嗅いでいて「これはぼくのおもちゃじゃないな、わんわん」と犬なりに困った顔をしていた。

マリーは唐突に、「そうだ、わたしは木の枝で眠りたい、眠ろう」と決めた。それからマリーは庭に植えている先祖代々の大きな木によじのぼり、その晩から枝で眠ることにしたのだ。

それからしばらく時がすぎた。

今ではマリーはいつもモームからもらったパジャマを着ている。時代おくれのラジカセを背負って木に登って、ボブディランのBlonde on Blondeをよく流していた。

「パジャマは眠るときに着るもので、普段は服をきるのが社会人による文化生活というものだよ」

とモームが言ったけれど、マリーにその声は届かなくて、マリーはその日も木の枝で、パジャマを着ていたのだった。しかたなくモームが仕事から帰ってごはんをつくり、リュックを背負って木にしがみつき、マリーに料理をとどける。マリーは木の上でずっと本を読んでいるのだった。地上にいる頃、モームはマリーが本を読んでいる姿をみることはなかった。

「マリー、いったい何の本を読んでるの?」
「カミュ」
「カム?」

『この長期にわたる小刻みにゆれ動いた絶望的な生活のあとで、新しく生活を建て直すこと。太陽がやっと顔をのぞかせ、ぼくの身体は息をはずませている。沈黙すること、自分を信頼すること』

マリーが朗読していると、いつのまにかモームは木の枝で眠っていた。それからモームも木の枝でマリーの朗読を聴くことが好きになった。ただ、モームはいつもすぐに眠っていた。

「まさかぼくたちが木の枝で暮らすようになれるなんて、想像もつかなかったよ……」

ある日モームは木の枝にぶらさがりながら、独り言のようにつぶやいた。マリーは返事をしないかわりに、かるく微笑んでいる。けれどマリーの微笑みは、枝にぶらさがったままのモームには見えない。緑色の風が吹いている。犬が二人をみあげて鳴いている。



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編