第180期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 魔女の空 ハギワラシンジ 869
2 おれのおじさん もとさべん 852
3 第二幕 岩西 健治 952
4 ルーティン人生 はんどたおる 998
5 ある夜 井戸水 1000
6 羊飼い さばかん。 925
7 闇と光と わがまま娘 1000
8 遠い西洋 宇加谷 研一郎 1000
9 いつか私を殺しにくる euReka 1000
10 坩堝 塩むすび 1000
11 川向の喫茶店 テックスロー 975

#1

魔女の空

 僕は轟音の後ろに座っている。そこは屋根の上、僕の家。

 すぐ横にはショットガン。あと500mlの缶ビールが6個。その脇をまだ熱い薬莢が転がっていく。

 遠くの空に黒い転々が見える。魔女たちだ。僕は目を細め、次弾を装填する。

 ぬるくなった缶ビールを開ける。プルトップから炭酸が弾ける音。口を付けるとひどい味がした。まるで蛙の小便だ。そもそも僕はビールが好きじゃない。ぬるいビールは終末の味がする。でもおかげで頭が冴えてきた。

 ここ数日ろくに寝ていない。最後に寝たのはいつだったか。それも覚えていない。でもようやく魔女が現れたんだ。ここで仕留めなきゃ意味がない。
 黒い点はゆっくりとこちらに近づいてくる。魔女があまりにゆっくりだから僕が近づいているのではないかと思った程だ。しかし僕は正気である。自分を見失っていない。頭は冴えてるよ。プリン体による不健康な細胞の活性化によって。

 魔女は翼を広げ好き勝手に飛び始めた。落ち葉が風に揺れるようにひらひらと自然に。何事にも逆らわずに。その夜を編みこんだ黒い羽を無邪気に見せびらかす。でも僕はそうは行かない。羽がないから、逆らわなければ生きていけない。不自然にでも生きる覚悟を持たなきゃいけない。

 魔女に照準を合わせる。
 先の読めない動きをしているが、銃口を向けてもよける気配はない。ひらひらゆっくり飛んでいる。僕は魔女の動きを先読みし、ゆっくりと銃身を動かす。狙いが定まる。魔女と目が合う。赤い誘惑。笑顔。引き金を引く。衝撃が僕を襲う。

 魔女は僕の眼前から消えていた。彼女の気配は後ろに凄まじいスピードで移動していた。そして僕は血を吐く。そのほかにもビールや胃液も一緒に吐き出す。僕のわき腹は背骨が見えるくらい抉られていた。彼女が抉ったものだ。そして二度目の衝撃。それは背後から。背中を突き破り内臓を訪れ胸から彼女の鋭利な爪が飛び出した。僕は一部始終をゆっくりと見ていた。一番近いところで。いつものように。

 そのほっそりとした手を握る。手には指輪がはめられていた。それは僕が妻にプレゼントしたものだ。


#2

おれのおじさん

おれのおじさんは模型をつくるのが趣味だ。
小さいころに、たくさん見せてもらった。
ずらりとならんだ戦闘機、日本のは漢字で二文字の綺麗ななまえをしていて、外国のはなめらかなかたちをして動物のなまえをもらったかっこいいやつだった。戦艦もあって、おじさんはほんとはもっと大きいのがほしいんだけどといって笑った。そのほかにもジオラマやらなにやら。
畳の部屋にたくさん並べてあるのだった。
そのおじさんがこのまえ死んだ、心臓の発作だということだった、おれはもうずいぶん会っていなかったから、驚いたけれど悲しむことはなかった。
おじさんは会うたびにクイズをおれに出した。模型に関係するクイズもあれば、まったく関係のないものもあった。おじさんが出すクイズは幼いおれにとってそこそこに難しく、わからない問題が続くことも珍しくなかった。おれは考えるふりをしたけど、もうそのときはクイズを楽しんではいないのだった。おじさんの出題はうまいものではなかった。だけど、おれをかまってやろうというあたたかさはあった。
ついに結婚しなかったおじさん。おれの父を兄に持ってしまったおじさん。父はかなしんでいるのだろうか。おれが語れることはあまりない。
少なくともいえることは、おれに甥っ子ができたとしてもクイズを出してかまうことはしないだろう、ということ、そして模型を見るたびにおれは、あの畳の部屋の枯れ草のようなにおいを思い出している、ということ。
喪服をクロゼットの奥にしまう。コレクションは、父によって売るか捨てるかされた。そのなかで一つだけ、小さな戦闘機をおれは持ち帰ってきた。なつかしさではなかった。ただなんとなく、すべてを処分することに抵抗があった。それはおじさんのものだったから。
夕日が窓から射し込んでいる。おれは模型もクロゼットにぶちこんで戸を閉めた。自分で持ち帰ったというのに、それをできるだけ視界に入れたくなかった。
夕日が窓から射し込んでいる。おれは晩飯をつくらなくてはならなかった。


#3

第二幕

 名前を呼ばれた小太りの老婆。受付の前で看護師とすれ違う。スローモーションのような展開。調子を合わせたように入口の扉が開く。ここまでが一連の流れ。
 マスクをした学童前の女の子と、同じくマスクをした母親。二人が同時に靴を脱ぎ出し、先に脱ぎ終わったのは女の子のほう。そのまま走って絵本の前にかけ寄って、勢い良くしゃがみ込んだ本棚の前。これは一瞬の流れ。この空間の中で女の子だけが動いているように見える。老婆の一歩一歩や、看護師の薄いピンクの皺、わたしの瞬き。全てが停止している時間である。
 停止からスローモーションになり、映像は通常に戻って、女の子は静かに絵本を開く。とても長い時間でもあり、とても短い時間でもある。無言で女の子の靴のかかとを揃える母親。母親から差し出された診察券。二つのバッグを提げた母親のうっ血した腕。老爺が咳払いをする。それにつられた学童前の女の子のくしゃみ。立て続けのかわいいくしゃみは小さく三回。あらあら、まぁまぁ。母親の嘆き。小さい方のバッグからティッシュを取り出し、女の子の鼻に当てる母親。カット。オッケー。午前の撮影終了。

 前から自転車が歩道を走ってきて、女性とぶつかった。撮影現場のクリニックを出てからすぐのことであった。ほんの数メートルの距離なのにわたしはその場に張りつき助けることができなかった。女性はうまくよけたようであったが、自転車の男性は派手に倒れた。男性のまわりには荷台にあった空き缶がばらまかれている。男性はろれつのまわらない怒鳴り声をあげる。わたしと自転車の男性と女性とをさえぎるものはない。ほんとにどうしようもないな、最低だよな、ケータイで弁当屋を探すふりなんかして、助ける一歩さえ出ずに。わたしの後ろを歩いていた人がかけより、女性と二人で倒れた自転車の男性を助け起こそうとしている。男性は酒に酔っているようである。自転車の男性はぶつくさ言いながら走り去っていく。男性がわたしの横をすり抜ける際、この傍観者が、と叫んだような気がした。
 それから全ての事象が入れ替わるまで、自転車が見えなくなるまで、女性と助けた人とが歩き見えなくなるまで、スライドパズルのように今まであったマスが別のマスにすり替わり、空気全てが入れ替わるまで、わたしは動けないままであった。


#4

ルーティン人生

四六時中イライラする。
動く時も座る時も、食う時も喋る時も、朝起きてから夜寝るまでとにかくずっとである。イライラしていない時間が無い。

筋トレをしようと思って早めに起きた。だが、気付いたらトレーニングベンチの上で2度寝していた。眠気がコントロール出来ていない。
足下にまとわりつく猫が、「ギブアップですか?」と、まるで俺を煽っている様で不愉快だ。

歩いて会社に向かう。
後ろからママチャリに乗ったババアがベルを鳴らして俺を避けていく。
ベルもババアも不愉快だ。

出社した直後に女の上司が「お早う。ねぇお願いがあるんだけど」と俺の肩と腹を触ってきた。この女はいつも距離が近い。二三回ならいいが毎日の様にこんな接し方をされると辟易する。妙な若作りも痛い。どうせ10分で済む雑用なのだから紙に書いてデスクにでも貼っといてもらった方が早い。

雑用を済ませ、自分の書類作成を始める。終わったら収支報告書と会議の資料だ。
ふと、エンターキーを押しても改行出来ない事に気付く。
よりによって何故エンターキーなんだ。Xとかcapslockとか普段使わないキーがいくらでもあるじゃないの。

腹立ち紛れに1600円の安物キーボードを破壊する。膝を入れたら一発だった。汚ねえし買い替えようと思っていた。取り敢えず誰かのキーボードを借りよう。次長のキーボードを勝手に借りて使う事にする。あの人午後から出勤だしばれねぇよ。
皆見てるけど気にしない。

キーボード外したところで「ちょっとちょっと、俺のキーボード持ってかないでよ」と声がかかる。次長が予定よりもだいぶ早く出勤していた。事情を説明して今日休んでる人のを借りなさいと言われる。
「午後からはどうするつもりだったの」
「昼休憩で買いに行くつもりでした」
「飯食う暇ないじゃん。何でもいいけどさ、お前、とても外回りの営業には出せないなぁ」
はあ、そりゃどういう意味だと思ってトイレで鏡を見た。般若の様な形相の男がそこに居た。
感情のコントロールが出来ない。次長に言われた言葉が怒られるより恥ずかしい。
イライラが募る。
何一つ上手くいかない。
劣等感が止まらない。

携帯のアラームで目を覚ます。
なんだ夢か。嫌に現実的な夢だったな。

夢の二の舞にならない様に、筋トレはちゃんとしよう。
自宅のPCのキーボードを予備で持って行こう。
女上司には近寄らない様にしよう。

鏡の前で身嗜みを整える。

般若の様な形相の男がそこに居た。


#5

ある夜

時計の針は午前3時を指している。私は寝付けないまま、ベッドから窓の外をぼうっと眺めていた。何となく目線を移した先、真っ黒なベランダの手すりの一部が、白く反射していた。
月だ。今夜は月が出ている。
どうせ寝付けないのだからと、私はベッドから抜け出して、窓辺に寄った。窓を開けると、9月も始まったばかりとは思えないような冷えた空気が流れ込んできた。下駄を履いて、そのままベランダに出る。軽く湿り気を帯びた夜気が体を包んだ。
右手の空を見上げると、見事な朧月だった。満月だろうか。膜のような薄雲を通して、ぼんやりと丸い形が見て取れる。鈍く白い光が辺りを照らしていた。
私は暫くの間、手すりに寄りかかり、ぼうっとしていた。虫の鳴く声だけが辺りに響いている。鈴を震わせるような音。金属が、ガラスが震えるような、高く澄んだ音。
こうして秋は夜、忍ぶように近づいてくる。たまに聞こえるカエルの低い濁声だけが、場違いなように夏の名残だった。
私は身を乗り出し、階下の庭をのぞき込んだ。猫の額にも及ばない、細長く狭い庭。底は闇が溜まったように暗い。生えているはずの草や植木の類は、闇に埋れて影すら見せない。
首を上げ、真上の空を仰ぎ見た。月が明るい夜に、星はあまり見られない。白い粒が両手で数えられるほどだけ、こぼれた砂のように濃紺の空に点在している。そこから発せられるごく僅かな輝きだけがその在処を示していた。

私はある古典話の一場面を思い出していた。月のない夜、鬼から逃げるため女を背負って走る男に、女が訊ねる。
「あれは何?」
「あれ」とは、露玉のことである。夜露が降りると、その産物としてガラスのように透き通った露の玉が、草の葉の上に落される。それが星明かりを反射して、光の粒をばら撒いたように、どこまでも、どこまでも広がっている。
屋敷に籠りきりの高貴な女には、それが何か分からなかったのだ。生まれて初めて見る、正体不明の無数の輝き。女にとってはさぞ不思議な光景だったことだろう。

車のランプも、店の明かりも、街灯も存在しない中世の夜。人がまだ、星明かりを感じていた遠い時代。

勝手なノスタルジーを感じたところで、我に返った。体は既に冷え切っていた。慌てて下駄を脱ぎ、部屋に戻る。
空を振り返ると、薄雲は既に流れ、丸い月が姿を現していた。
今夜は満月だ。白い光は明るさを増して、向かいの屋根瓦をつやつやと照らしていた。


#6

羊飼い

また、嘘を吐いた。息をするように。
前の自分は、嘘なんてつけなくて。それでも今はこんなにも簡単に嘘なんてつける。
だまし続けたのだ。大切だったあの人にも、家族にも、友人にも。ずっと嘘を吐いた。
最初は、罪悪感の塊が喉を通って苦しくなった。今まで真面目に生きてきた自分だ。嘘をつく事なんて無かったしそんなことをする理由も無かった。だから、喉が、大切だと思っていた人達の良心を嘲る様な嘘を吐く喉が、痛くて痛くてたまらなかった。だけれど、それを繰り返しているうちに、そんな正しい自分の感覚はどんどん麻痺していった。だんだんと重い重いその罪悪感が軽くなった。そして、最後にはそんなものあったっけ?と、感覚さえ忘れてしまった。
嘘を、吐きました。
そう、誰にも言えなかった。どんどんどんどん、それは溜まりに溜まって遂にはなんにも言えなくなってしまった。
嘘しか、つけなくなってしまった。 
笑顔で、吐く言葉が『嘘』をかたどっていく。最初は歪だったのに、段々と丸みを帯びて綺麗な形を作ることが出来るようになる。
そんな自分に嫌気がさして、溜まるストレス。でも、つき続けるしかなくなっていく。嘘を吐くことが、もう無いとどうにも出来ない。
ただ、独りで悩んで、どうにも出来なくて、堕ちていく。奈落の底。深い、真っ暗で何も見えない所に。
今更「助けて」なんて言えるわけなかった。何故なら、誰ももう自分が吐いた嘘を『嘘』とは思わないし、勘づくことができない。それほどに、私は嘘を上手くつくことが出来るようになった。
自分が憎くなる。
結局のところ、それをどうすることも出来ないほど小心者であった自分が。
嫌になる。
追い込まれすぎた状態になってまでまだにこにこと嘘を軽々しく吐ける自分が。
どうしようもなかった。
ただ、どうにも出来なくて涙がこぼれた。でも、それさえも隠れてでしか流せない私は、もうきっと。
嘘しかつけない。嘘でしか自分を表現するしかなくなっていった。
あぁ、と肩を落として力なく嗤った。
そうなのか。
私は『嘘』そのものになったのか。
いつの間にか、涙も消えていった。誰も、もう私の嘘にも、SOSにも気付かないだろう。誰も助けてはくれないのだろう。
それでも、まだ嘘をつき続ける私なんて。    


#7

闇と光と

アパートの2階、通路の手すりにもたれ、腕の上に頬を乗せ住人達が出て行くのを見る。
隣の部屋のドアが開いて住人が「おはよ。いってきます」とこちらに言って、タンタンとテンポよく階段を下りて行く。地面に足が付いたところでこちらを見て手を振った。何となく手を振り返す。
手を振る隣の住人の横を男性が、他の人とは逆に違って帰って来たのが見えた。2つ隣のドアが開いて、女性が一瞬こちらに嫌そうな顔を向けて足早に階段を下りて行く。
暫くして人の往来が無くなった。
ゆったりと体を動かして、ドアを開けて部屋に入る。カギを閉めて振り返る。振り返った先は真っ暗闇だった。一度目を閉じ、暫くしてからゆっくりと目を開けた。
人工的に作った真っ暗闇の空間はやはり人工的で、明るい日は陽の光が闇の隙間から漏れ入ってくる。
わずかな光で見える部屋の中をゆっくりと進み、ベッドに横たわった。暫くすると瞼が重たくなり、そのまま眠りにつく。

目を覚ますと、暗闇の中にまだ光が零れていた。
だるい体をゆっくりと起こして、ボーっとする頭のままベッドを降りて玄関に向かう。
ドアを開けて外に出ると、眩しくて思わず目を固く瞑ってしまった。たっぷりと時間をかけて目を開いて、徐々に光の強さに慣らす。
朝のように通路の手すりにもたれかかり、腕の上に頬を乗せる。
人の往来のないアパートの出入り口を眺める。そのうち視界がぼやけてきて、そのまま意識がなくなった。
遠くでバタンとドアの閉まる音が聞こえて、閉じてしまっていた瞼を開く。多分2つ隣に住む女性が帰って来たのだろう。いつもの迷惑そうな顔を思い浮かべた。
陽はもう落ちていて薄暗かった。凝り固まった体をゆっくり動かして、部屋に戻る。ぼんやり見える部屋の中をゆっくり進んでベッドに横たわると、自分の意思で目を閉じた。

急に明るくなって、ゆっくりと目を開けた。
「玄関、鍵かけろって言ったろ?」
視界に入ってきたのは白く刺す人工的な光。体を起こして声の主の方を見る。そこにいたのは隣の部屋の住人だった。隣の部屋の住人は、部屋の隅に追いやったローテーブルを部屋の中央まで持ってきて、コンビニの袋を置いた。
「もういい加減わかってんだろ? 死にたいと思って死ねるもんじゃねーんだよ」
言いながら、ガサガサと袋から弁当を取り出して蓋を開ける。
「だから、足掻いて、もがいて、生きて、死ね」
隣の部屋の住人はそう言って、目の前に箸を突き付けてきた。


#8

遠い西洋

 女はにっこりと微笑んで私に包装紙にくるまれた品をプレゼントだといってさしだす。こまったな。私は何も女にプレゼントを用意していなかった。今日は女の誕生日だというのに。

「あけてもいいかね」
「どうぞ」

 私は丁寧に振舞うことが苦手である。包装紙をびりびりとひきちぎった。そこには赤と緑の縞々模様のパンツが丁寧におりたたまれてあった。
「あなたが白一色だということは十分すぎるほど知っております。そこをあえて踏みこんでみた次第でございます」
「ふうううむ。私は白一色と決めている。だが、今日この習慣をあらためてみたいと思う」
「似合うと思いますわ」

最初は少し抵抗があったことを私は告白したい。白以外をみにつけるなぞ、西洋以外のなにものでもないと思われたからである。だが今日は女の誕生日なのである。

「では、ここで服をぬいでもよいかね?」
「そうしていただけますか?」

私は一度全裸となり、赤と緑のパンツをはいてみた。

「なんだか元気がでてきたよ」
「それはよかったですわ」

 女はそう言ってからまくしたてるように言った。「男の人の白の下着には興ざめですわ」
「そうだったのか」
「ええ」
「赤と緑の縞々は白一色とはちがうというのかね」
「ええ。西洋的で」

明治からどれほど過ぎたことだろう。それでも我が国の西洋讃美は消え入ることがない。

「あなた、ポーズをとってくださいまし」
「どのような」
「岩をもってほしいのです」
「岩?」

 女は襖をあけた。そこには見事な大きさの岩がおいてあるのだった。女は岩の前までいった。その岩はみるからに重量のありそうな岩である。だが女は軽々とその岩をもちあげて、私のところにもってくるのであった。

「重くないのかい」
「この岩は実はつくりものの岩でございます。重量は生まれたての子犬ほどしかありません」
「子犬か……」
「ささ。どうぞ」

 私は女から巨大な岩をうけとった。女が言うとおりその岩はとても軽い。まさに生まれたての子犬のようであった。

「あなた、その岩をもちあげてくださいませ」
「よし!わかった」

 私はその岩をもちあげた。

「あなた、とっても西洋的ですわ」
「そうか、西洋的か」
「あなた、とってもステキ」
「そうか」

 私は岩を軽々ともちあげている。女はとても嬉しそうに微笑んで手と手を叩いてはしゃいでいる。西洋、東洋。その差がもたらす事実というものがたしかにあるのだ。

「なんだか元気がでてきたよ」
「それはよかったですわ」


#9

いつか私を殺しにくる

 その日は歯がとても痛かった。どれぐらい痛かったかということは説明しても伝わらないと思うので、おのおの今までに自分が一番痛かった歯の痛みや何かの痛みを思い出して欲しい。もし上手く思い出せなくても、話は勝手に進んでいくだけなので文字を追ってもらえればそれでいい。
 本当のところ、もう一週間も前から痛みが続いていたのだが、その日は痛み止めも全く効かなくなっていた。なので、私はとうとうその“痛み”と向き合うしかなくなったというわけだ。
 一時間だけでいいから休ませてくれないかと懇願すると、黒マントに身を包んだ“痛み”は、困った顔をしながら私の頬をなでた。
「あなたが辛いのは分かるけど、これも仕事だから仕方ないのよ」
「へえ、仕事なら何でもするのかい? 人殺しもするのかい?」
「今回は殺すところまではいかないわ。ただ痛いだけよ」

 私は天井を見て溜息をつくと、痛みを誤魔化すために部屋を出て、暗い夜道を歩き回った。しかし、小さな川に差し掛かったところで橋を渡ろうとすると、やつが橋の欄干に腰かけているのが見えた。
「今回は殺さないとお前は言ったが、いつか私を殺しにくるのかい?」
「そうね、そのときは優しく殺してあげるわ」
 夜の小川は星に照らされキラキラと輝いていた。この痛みさえなければ、もっと気の利いた言葉でその美しさを表現できるのかもしれないと思ったが、そこに美しいものがあるだけで今は十分な気がした。
「まだ仕事は残っているけど、今夜はこれで帰るわ」

 翌日、私は歯医者へ行った。治療用の椅子に腰かけると白衣姿の女が現れて私に挨拶をした。
「じゃあ、仕事の続きを始めるわね」と女は言うと私の頬をなでた。
 そして麻酔が注射され、虫歯を削られて、歯の神経が抜かれた。
 私から切り取られた神経の糸はヒクヒク動きながら成長し、やがて人間の赤ん坊の姿になった。
 当然、その赤ん坊は私から生まれたのだから、私が育てることになった。そして、女もよく私の部屋に来ては赤ん坊の面倒をみてくれるので、とても助かっている。女はこれも仕事のうちだと言っているが、私にはやつの目的なんてもうどうでもいいことだった。いつかこの女に自分が殺されたとしても、赤ん坊が幸せに生きていければそれでいいではないか。
「でも、あなたにはあなたの人生があるのだから、すべてを赤ん坊に託してはダメよ」
 じゃあ、私と結婚してくれ。
「やっと、その言葉が聞けたわ」


#10

坩堝

 無辜の兄妹がいた。彼らには親も身よりもなかったが親友がいた。太陽の燦々と降り注ぐ中、親友は無辜の妹と婚約し無辜の兄はそれを祝福した。そののち妹は殺された。膣と尻の穴が裂けるほど犯され死ぬまで殴られた、変わり果てた姿で発見された。親友は暗い憎しみに明け暮れ復讐を誓ったが、先に殺人者を見つけたのは無辜の兄だった。殺人者は心臓が抉られた姿で遺棄されていた。親友は裁かれぬ殺人者を探して彷徨う復讐鬼となった。けれども兄はまだ無辜だった。
 不幸な母子がいた。子には手足がなく心臓は腐りかけていた。我が子の瞳の中にある太陽を蝕むように映る母親の黒い影に潜んでいる淀んだ何者かが決して逃さぬという呪いをかけたかのような我が子の哀れな姿は罪深い自らの魂の生き写しであるのだと母は苦悩した。母は密かに身ごもり、赤子の心臓を抉ってその血を子に飲ませた、せめて痛みの和らぐようにと。すると心臓の腐敗はたちまち止まった。赤子の声で次の犠牲者の名を囁く我が子の声を母は聞き、そうあるだけだと縋るように受け入れ殺人者となった。殺人者は声に従って犠牲者を捕え、身体の一部を奪って殺した。奪った一部は息子の失われた身体に適合した。殺人者は奪い続けた。
 苦悩する男がいた。苦悩する男は自らの衝動と存在意義について悩み、迷い、拒んだ。あるとき意識と現実の境が決壊し、女を襲った。苦悩する男はそうあるだけだという境地に至り、男は殺人者となった。
 殺人者は殺人者を見つけた。殺人者は殺人者を殺してその心臓を奪った。その心臓は子にぴったりと適合した。子はついに目覚めた。
 心臓を奪われた男の母が復讐鬼の前に現れ、ほのめかすように殺人者の名を告げた。
 復讐鬼は殺人者を探し出して殺し、ついに殺人者となった。殺人者はその場で自殺した。手足の生えた空っぽの肉体だけが残され、子は復讐鬼にも殺人者にも、何者にもなれなかった。
 無辜の兄がいた。無辜の兄は復讐鬼となり、親友を奪った空っぽの者を殺し、殺人者となった。殺人者は跪き、復讐鬼の断罪を待ったが、誰も現れなかった。殺人者は自らの存在に苦悩し、そうあるだけだという境地に至った者達の存在を知った。
 かつて無辜の兄だった復讐鬼であり殺人者でもある義兄にも伯父にもなり損ねた苦悩する不幸な男は自らの手足を切り落とし心臓を腐らせた。瞳に映る焼け爛れた太陽を月はゆっくりと蝕んで、やがて黒い朝が訪れた。


#11

川向の喫茶店

 脱サラして川辺に喫茶店を構えて半年が経った。静かな午後、誰も客がいない時に川を眺めている。午後二時十二分。川を隔てて高くそびえる高層ビル群を見やる。少し前までは自分もあの部屋のどこかで、パソコンのディスプレイに向かっていたのだ。
 人間らしい働き方が推奨され、休みを増やしたり、違法残業を取り締まったりが行われた。効率化は仕事からノイズを奪っていき、標準化はAIへの引継書として機能した。パソコンを立ち上げ、いくつかのデータをまとめ上げてレポートする。だんだんとフォーマットが確かになっていき、労働者は判断だけを求められる。判断に迷うときは過去の事例を検索する。過去の事例はすべてAIによってすぐに最適なものが検索できるようになっているが、中にはAIが意図的に間違って混入したものも含まれており、時折人間の判断力を試す。まだまだ、人間がいないとだめだな、とささやかな優越感を覚えさせる。
 それはおかしいのでは、と気づいた者は弾かれた。おかしいな、昨日と同じだけの賢さ、もしくは愚鈍さなのに、今日は仕事が終わってる。それを自身の成長と感じられなければ、弾かれた。ビルの外、川向うに追いやられ、国の保護下で暮らすことになった。

 俺の店は喫茶店だ。大体の客はコーヒーを頼む。ただし俺にはコーヒーを淹れるスキルが備わっていない。インスタントコーヒーにお湯を注ぐことくらいならできる。ただそれを客の前でやると客は顔をしかめるということが分かったので、物陰で作っている。最近は豆を挽くとコーヒーの香りが高くなることに気付いたので、それを試すこともある。注文を受けてまごつく俺を客は見つめる。カップの淵ぎりぎりまで入ったコーヒーを半笑いで俺が運ぶのをじっと待っている。

 「これはなんと原始的な労働の行為だろうね」
 ずっ、と一口コーヒーをすすって老人は呟く。

 「この労働の対価をぜひ目に見える形で提供したいのだが」
 これは禁止事項である。川向の住人は一切の経済活動から身を引かねばならない。が、客の中には一定数こういうオファーをするものがある。その昔、労働がより感情的だったころの世代に多い。そのあしらい方はすでにマニュアル化されており、俺はぎこちない笑顔でこういった。
 「いえ、お代は結構です。お客様の笑顔だけで満足です」

 老人は目をしばたかせると、やがて笑った。


編集: 短編