第179期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 私の存在 あくつ敬 538
2 蝉の声 なつ 392
3 世界人類に平和が訪れるなら。 さばかん。 814
4 パパ kadotomo 1000
5 夢? 生甲斐 幸星 886
6 四郎 岩西 健治 985
7 訪問 かんざしトイレ 1000
8 誰も話さなくなった日の終わり ハギワラシンジ 361
9 虫のこと テックスロー 995
10 家族 わがまま娘 998
11 リリーはキツネのリュックになる 宇加谷 研一郎 1000
12 冷蔵庫の物語 euReka 1000
13 アニマ 塩むすび 1000

#1

私の存在

死に行く生命の前で、なんて無力なんだ。
最期の命を見守る事も出来なかった。

幸せな一生だったのだろうか。
帰っていく私の姿を、どんな気持ちで観ていたのだろうか。

最期の彼の視線が、頭の中に入ってくる。私が帰って行く姿を見つめる彼の感情が入って来る。
涙が止まらなくなった。

一ヶ月間
彼は最期まで、私に元気な姿を見せようとしていた。

彼は、私が会いに行くといつも、円をえがいて元気に走り回った。そうすれば、私が遊んでくれるから。
ところが、ある日、走る姿に力がなかった。

その次に会った時は、疲れてしまったのだろうか。一周だけ。
私に元気に走る姿を見せた。

次に会いに行った時は、もう走る事は出来なかった。でも私が近づくと、必死に立とうとした。
人で言うと座った姿勢になっていたが、まだ走れると言っている気がした。

そして、今日
彼は、ついに立たなかった。
必死に前足をばたつかせたが、立つ事が出来ない。起きられる姿勢にささえても、力なく倒れてしまう。
寝そべったままの彼に水を与えると、
ひとくちだけだが、私の手の上の水を飲んだ。
彼の呼吸はつらそうだった。しゃっくりもしている。恐らく、もう心臓がもたないのだろう。しかし、私にはこれ以上何も出来なかった。
そして、彼を残し帰っていく私の姿を、彼は観ていただろう。


#2

蝉の声

二人に子供が無理だと分かった時、それは夏の一番熱い日で蝉の声が空に響いていた。普通の出会いをして、成り行きで結婚をした。世間の人も、そんなものだと思う。私は男なので、自分の子供を持てないのは少し嫌だった。けれどそれ以上に妻は子供を持てないことに、悲しみを感じていた。だから養子をとることにとした。何の問題もなく、ごくごく平凡に時間は過ぎ去り、それなりの反抗期も過ぎて高校へ。高校から都会の大学へと進んだ。子供は結婚をして、孫の顔を見せに来る。妻はどうかは知らないが、私は少し嫌な気持ちにとなる。自分の子供でない子供を育て、なぜ自分の孫でない孫の成長を喜ばねばならぬのか。私たちは、いや私は時間の流れを計算していなかったのだ。子供は、やがて大人になるということを。今年も蝉の声が聞こえ出すと思う。子供を持たない道もあっただろうにと。わたしは今、少し不幸を感じている。確かに、感じている。


#3

世界人類に平和が訪れるなら。

『拝啓 世界人類が平和でありますように。』
歩いていた道の一角にそんな貼り紙。思わずせわしなく進ませていた足をとめてしまった。
何を急に・・・。そう思った。だって、通学途中に、こんな何変わらぬ平凡な毎日の真っ只中に。そんな貼り紙を見たら変な気持ちにもなる。
誰の願い事だったんだろうか。そんなことを考えてから、「馬鹿馬鹿しい」そう、鼻でふん、と皮肉めいた溜め息をする。そんなことを願うほど、僕は今の生活に、『僕』という僕に不満はない。それが、自分の家が裕福だとか、成績がどうとか、ルックスがいいとか悪いとか、そんな単純なものではなくて。生活は人並みだし、むしろ成績もルックスも散々だけれど。僕基準では、何喰わない日々だ。
世界人類の平和。そんな大それたことは、この大きい地球の中で、自分で作った小さな小さな世界に閉じこもっているだけの僕に言えるはずもなく。スクールカーストなんて、馬鹿馬鹿しいものもできた世の中だ。そうそう他人の心配なんてしてもいられない。
自分のアイデンティティーの確立に忙しい僕たちは、毎日戦争のように自分を守りあって互いを傷つけあう。なんて平和なんだろうか。小さな世界の、小さな王様になりたくて。
そんな僕も、その一員ではないか。そのために、カースト制に日々翻弄されている・・・、まったく。くだらなくって、反吐がでる。
あぁ、まぁでも、そんな平和こそが天国なのだ。何事もなくただ毎日を水の中で泳ぐように漂う。それこそが気が楽なはずなのに。人類なんて、殆どが僕と同じようなものだ。『人種』なんて、関係がないし、今の時代は如何に自己が確率出来ているか、それだけなのかもしれない。
ふと、腕時計を俯き加減に確認する。急がないと流石に学校に遅刻してしまう時間帯だった。まだ、気になる貼り紙に、後ろ髪を引かれながら、足を動かし始めた。
あわよくば、世界人類に幸あれ。
出会ったそれを思い出しながら、僕は今日も静かに、密やかに生きていく。


#4

パパ

 「パパ凄くいいよ」
 外は激しい雨。
 耳障りなベッドが軋む部屋の中、貴方は私の中で激しく指を動かし囁く。
「リナ凄いよ」と。

 ベッドの軋む音が激しくなり、二人が接合すると、喘ぎ声が部屋中に響き渡る。貴方が私の中で、絶頂に達したその瞬時に、私は枕元の刃物を貴方の背中に刺し込んだ。

 現実を受け入れられない表情の貴方を見て、
「どうしたの?」と言葉をかけると、苦痛に耐えられない表情へと、変化していく。

 紅い色の刃先が空気に触れると、引き締まった貴方の裸体は、紅い液体を噴き出し、私の上へと崩れ落ちた。

 コマ送り画像を見ている様に、ゆっくりと。

「息、まだあるね」

 接合部を外した後、仰向けになった貴方の上に跨り、再度、紅く染まった刃先を胸元へと刺し込む。裸体は一瞬ピクリと反応した後に、動きを止めた。

 紅い液体が私の身体に降り注いだ。
「花びらみたいに綺麗」高揚感が増した。

 刃物を引き抜くと、開ききった瞳を閉ざし、緩りと貴方から降りる。
「ごめんね。痛かったね。二度も刺したから」頬を撫でながら呟いた。

 紅く染まった裸体を目にすると、思い出が蘇った。

 一年前。十八歳の誕生日に、
「僕が、リナを愛してあげる」って紅い花をくれたね。
「私のパパになってくれるの?」
 七歳上の貴方は、その言葉の後に優しく頷いてくれたね。嬉しかった。親から貰えなかった、無償の愛が漸く手に入ると思ったから。

「なぜ、急にさよならって言ったの? 電話が繋がらないから、部屋へ行ったのよ。中から知らない女の人が出て来たの。誰だったの?」疑問を投げかけるが、返答は無い。『さいごに愛してほしい』そうメールしたら、逢ってくれた。

「あれ?」異変に気づき、動かない裸体に触れてみた。

「冷たい。私の身体で温めてあげるね」裸体を抱きしめ、擦るが温まらない。紅い液体は個体化し、黒ずんだ紅へと変化していた。

「温まらない」

「大好きだよ」

 貴方の愛しい下腹部から、顔へと目掛けて舌を這わしていく。
 ヒヤリとした舌触りを感じ、蒼白な唇まで到達すると、舌を中へ押し込んでみた。貴方の舌は激しく動く事はなかった。ほんの少し前の様に。

 肉の塊と化した貴方に言葉を贈る。

「前に誰かが言ってたの。親より子供が先に死ぬのは、親不孝者なんだって。だから、ちゃんと最期を看取ってあげたのよ。褒めてね。パパ」

 微笑んだ後に、窓に目をやる。いつしか雨が止み、光の線が射し込んでいた。


#5

夢?

その日は別にいつもと変わりなかった。朝起きて、親と朝食を食べて、身支度をして、学校で授業を受けて。しかしいつもと違ったのはその先だ。私が家に帰っったとき、そこに、私の家のあるはず場所に家が無かったのである。
母は専業主婦だ。家にいるはずだ。そう考えた私は母に電話をかけた。
『もしもしお母さん?今どこにいる?』
『え?家だけど。それにしても雨が凄いわね』
雨。雨は降っていない。少なくとも私のいるここには。この女は何を言っているのだ、と思った。電話を切って、スマホの天気予報アプリを開いた。現在の天気は“雨”。雨?降っていない。頭が混乱してきた。今度は友達に電話をした。一番信用出来る幼馴染だ。
『もしもし?今、雨降ってる?』
『何言ってんの、見れば分かるでしょ。土砂降りだよ』
『……そっか、ありがと。切るね』
私がおかしいのだろうか。ますます頭が混乱してきた。自分の家が無くて、自分の周りには雨が降ってない。でも実際は家はあって、雨が降っている。考えていると頭が痛くなってくる。そこで気付く。今日は何月何日の何曜日だ。今は何時何分何秒だ。今私はどこにいるのか。昨日は6月の21日の水曜日だった。スマホを開いて確認する。
「今日は6月の……21日、水曜日……」
日付が変わっていない。しかし昨日とは違う朝ごはんと昨日と違う時間割だった。私は混乱と恐怖で思わず走りだした。そこで小石に躓いて転んだ。と同時に目の前が真っ暗になった。
「はっ!」
私は、どうやら寝て夢を見ていたらしい。ベッドから落ちて床に寝そべっていた。学校から帰ってきて、とても疲れていたのでそのままベッドに横になったんだ。
時刻は午後6時。リビングにいったが、そこには誰もいなかった。夢のせいで不安になったがテーブルには置手紙が置いてあった。
“買い物に行ってきます 6時半くらいには帰ります”
ほっとしてソファに座る。母が帰ってきて、夕飯を食べ、風呂に入って、そのまま寝る。随分と疲れていたのか、すぐに瞼が重くなっていく。
その時の感覚はまるで夢の中で夢を見ているぐらい曖昧だった。
そういえば初めて自分を後ろから見ていたな。後ろから?


#6

四郎

 身長が低く、頭頂部がはげ、肥満のため腹は出ていた。胸からへその下にかけ直線を描くように剛毛がはえ、ところどころで渦をまいた。つぎはぎの擦れた衣服。親の顔知らず。

 四郎は吉岡の畑で野菜を作る仕事をしていた。四郎は仕事の帰りに川で光る石を見つけた。その石を宝石商は一千万で買い取りたいと言った。そのことを吉岡にはなすと、俺の畑で仕事をしたからその石を見つけられたのだろう、だったら石は俺のものだ、と言った。そう言われた四郎は吉岡に石を渡してしまう。その後、その川には、にわか翡翠ハンターが群れた。

 ある日、吉岡の命令で薪をひろうため冬の山へ入った。薪をひろった帰り、四郎は足を滑らせ崖下へと落ちてしまった。幸い命は助かったが、腕が一本折れていた。四郎は折れた腕を簡易の添え木で補強して、ふたたび薪を背負い、ゆっくりと山をおりることとした。四郎が途中のわき水で喉を潤していると、そこでも光る石を見つけた。吉岡にそのことをはなすと、俺が薪をひろわせたのだから、その石は俺のものだ、と言った。そう言われた四郎はその石を吉岡に渡してしまった。その後、わき水に小さな金鉱脈が見つかった。
 私腹を肥やす吉岡。ろくな治療もできなかった四郎。四郎の腕は曲がったままである。

 半年後、四郎は仕事をうしなう。住む場所もうしなう。しかたがないので、四郎は村はずれの朽ちた寺で雨露をしのいだ。寺には地蔵が一体あったが、だれも手入れをしなかったので、苔むし、一見地蔵だとはわからなかった。
(ひとりじゃなくてだれかと暮らしたい)
 四郎は曲がった腕で地蔵を毎日磨いた。そんな四郎を見て村のものたちは笑った。

 川で魚を獲った。
「私が昨日見つけた魚です」
「すまなかった」
 四郎はナツに魚をすべて渡してしまった。
 四郎はカエルを食べて空腹をしのいだ。

 山で栗をひろった。
「俺が目をつけていた栗だぞ」
「すまなかった」
 山でとった栗をアキにすべて渡してしまった。
 四郎はカエルを食べて空腹をしのいだ。

 冬の前、寺に野良猫が迷い込んだ。四郎はその猫をハルと名付けた。しかし、ハルは数日で死んでしまった。
 ハルとも暮らせないほどだめな人間なのか。
 自分を恥じた四郎。ハルを地蔵の脇へ埋める。四郎は曲がった腕で地蔵を無心で磨いた。
 ハルが死んで、冬がきた。
 空腹をしのぐカエルはもういない。四郎はひとり。ハルは死んだ。


#7

訪問

 おじさんの家を訪ねたのは、ほんの気まぐれだった。ときどき出張で近くに来てはいたのだが、もう十年は会っていない親戚の家にわざわざ行こうと思うだろうか。前に会ったときおじさんはすでに高齢であった。今日行かなかったらもう会う機会はないと無意識に思っていたのかもしれない。
 おばさんを数年前に亡くしたおじさんは、寂しさを胸の奥に見え隠れさせながらも、以前のように威勢よく、よくしゃべった。根っからの江戸っ子であった。軽く微笑んで相づちを打つ僕は、いろいろなことに思いを巡らせてどこか油断していたのだろう。
 「ガラガラ」と表につながるガラス戸が開き、学生服の線の細い少年が顔を出した。おじさんはおかえりと言った。孫だと言い、会ったことがあるだろうと言った。ひざの上にのせてとった写真があるはずだと。
「大きくなったねえ」
思わずそう口にしていた。

 いったいおっさんというものはなぜ大きくなったねえと言うのだろう。こっちはお前のことなんか覚えていないし、そりゃ何年もあってなければ大きくなって当たり前ではないか。なぜおっさんは当たり前のことをさも驚いたように叫ぶのか。おっさんという奴らは。そろいもそろって。だがそんなこと言うわけないし、リアクションに困ることこの上ない。愛想笑いでも浮かべてフェードアウトするしかない。毎度毎度の面倒くさい展開だ。おれが大人になったときには少年に決して大きくなったねなどと言わない人間になろう。そうしたら世の中が少しはまともになるはずだ。

 少年の顔を見たときに「しまった」と思った。きまりの悪そうな顔。苦笑い。少年の気持ちがよく分かる気がした。そうだ。大きくなったねえなどと言う大人にはなるものかと思っていたはずなのに。
 でも言ってしまうのだ。理解しがたい言動のように思っても、その立場になればそれなりの合理性な事情を伴った振舞いなのだ。大人になれば分かるなんて偉そうに言うわけもないが、立ち位置が違うと視点が違ってしまうのだ。
 ひざの上に抱いた幼子は記憶の中にくっきりと、昨日のことのようなリアリティを備えて浮かびあがってくる。それと目の前に現れた中学生の少年のあまりにも大きなギャップ。条件反射のように口をついてしまう。この時間の不思議。あまりにも理不尽な時の流れ。少年にはまだ分かるまい。だがおじさんに言ったら「にいちゃんだって分かってないよ」と笑うだろうから黙っておいた。


#8

誰も話さなくなった日の終わり

 誰も話さなくなった日の終わり、私はそれが夜だということに気付いた。
 どこかに落としてしまったマフラーについて考えていると、ぽつんと街灯に照らされた自販機を見つけた。誰も話さない夜は寒く、気を抜いたら凍ってしまいそうだった。温かい缶コーヒーがある。手を伸ばす。でも止めた。なぜなら温かい缶コーヒーは温かくなくなる。今の私は冷えが、例えスチールにでも染みていくという事実を受け入れることが出来なかった。隠れたマフラーもそう。
 私は用済みだった。寒さを感じる。帰る。家に。
 玄関を開けると部屋が翳っている。静かだ。誰もいない。気を抜いたら誰かがわっと押し入ってきて、全てをひっくり返してしまいそうだった。靴がひとつ、無造作に置かれている。向きをきちんと揃えると、踵の辺りが少し湿っている。私は笑う。「君の言いたいことって何?」


#9

虫のこと

 元気がいいで済まされていた新入社員のころからだいぶ月日が経ち、元気という言葉が威勢のよさに代わり、さらに年を重ねて誰にでもかみつく奴というレッテルのみが残り、南米原産の害虫が港で発見されてニュースになったその日から彼のあだ名はヒアリになった。飲み会の席などでは彼は女性経験がないことを揶揄われることも多く、茶化されて真っ赤になり持論をまくしたてる様子がますますそのあだ名を広めることとなった。

斉田さんはお盆休みは彼女と海ですか
いいなー
私も海行きたいなー
MUさんは実家ですか
「ハイ」
あー お土産期待しときますね

「それ僕の仕事なんですか」
そうじゃないけど、今彼女手が回ってないっていうし、手伝ってやりなよ
「職制通しての依頼ですか」
いや、通してないけど、彼女かわいそうじゃない、
お願いします…
「それやっぱり僕の仕事じゃないと思います、すいません、上通してもらえますか」

今月も残業とても多いよ
すみません、でも私は何とかしなきゃって思うんです。だって自分がやらなければ仕事が回らない…っていうのはおこがましいんですけど、頼りにされているのを感じて。あと、MUさんにこの仕事、できるのかなって
うん、でも彼ももう十年目だよ
はぁ……(溜息
「お先に失礼します」
お疲れ様…いい気なもんだな
わたし、もう少し頑張ってみます。…お菓子食べます?

「おはようございます」
ああ、MU、おはよう。この前の件だが、やっぱり手伝ってくれ。上には話を通しておく
「わかりました」
彼女、今日から会社に来ないよ
「」
昨日の夜彼女の母親から連絡があって

 MUは帰宅するとテレビを点ける。甕棺墓に埋葬される骨のような形で、もしくは胎児のレントゲンのような形で連日登場するヒアリ。画面が変わり過労で自殺した美人をめぐっての様々なやり取りを見るうち、MUは眠ってしまった。
 巣を刺激されて溢れ出すヒアリの夢から震えて覚めると、下半身がひどく汚れていた。目が覚めたら虫になっていたとしても、自分ならあまり驚かない自信があった。

 出勤すると給茶室が騒がしかった。以前帰省した時に買った土産の饅頭は、封を切られて放置されており、彼女の文字で「MUさんからのお土産です」と書いた付箋が張り付いていたが、誰も手を付けた形跡はなかった。給茶室の奥から聞こえる小声と視線を背中に浴び、少し腐臭のする土産物を嚥下し、MUは自分にまた毒がたまっていくのを感じた。


#10

家族

「ごめん、もう一回言って……」
続き間の居間側でリョウスケは、聞こえてたよね、と思いながら、仏間側でそう言った兄・シンスケをちらりと見る。シンスケは額を抑えていた。そんなシンスケの前には大量のカタログを挟んで妻のカナコが座っている。週末にカナコが家にいるのは珍しい。普段は、とにかく仕事が忙しいからと家にはほとんど寄り付かない。
それでも一生の買い物である家を建てようと思ったら、そんなことは言っていられないのだろう。毎週末きちんと帰ってくる。
「だ〜か〜ら〜、私、アイランドキッチンがいいの」
「アイランドキッチンって……」
リョウスケの耳に、隣に座ってお茶を飲む母の疑問の声と兄の感嘆の声が同時に入って来た。
たまたまテレビに映っていたCMの映像がそれだったので、母に「あんな感じのやつ」と伝える。「あぁ」と母は言ってお茶を啜った。
「俺はセパレートでいいけど」
「えぇ〜、なによそれ。せめて対面キッチンにしてよ」
「対面って……」
「私と話したくない?」
「いや、お前ほとんど家にいないじゃん」
「じゃ、テレビ見ながら料理できるじゃん」
「いや、料理中って結局テレビなんて見てらんねーし。俺は壁に向かってひとりでもくもく作ってる方が性に合ってんだって」
と最後の方はブツブツ言ってシンスケはカナコを見る。
「でも、子供ができたら絶対対面にしておけば良かったって思うわよ」
とカナコが言った瞬間、「子供?!」とリョウスケの耳にシンスケの驚きの声と母の喜びの声が同時に入って来た。
「えっ、子供できたの?」
シンスケがカナコにたずねると、カナコは「だから、できたらって言ったじゃない」と答えた。リョウスケの隣で母は残念そうに溜め息をついた。
「できたらって。もしかして、お前、子供欲しかったの?」
初耳ですけど? って感じでシンスケが言う。
「え、シンスケ、子供欲しくなかったの?」
こちらも初耳ですけど? って感じでカナコが言う。
「そういう問題? だったら、お前もっと家に帰って来いよ。一緒の時間なんて全然ないのに、実は子供が欲しいとかおかしいだろ」
「そう? じゃ、今から励む?」
「そうじゃないだろ。そもそも俺等今年でいくつだと思ってんだよ……」
シンスケが疲れた感じで言う。
「何言ってんの、生涯現役でしょ?」
「ちげーだろ……」

話が逸れていくふたりの会話を聞きながら、リョウスケの隣で母が「もうすぐ寂しくなるわね」と呟いて、お茶を啜った。


#11

リリーはキツネのリュックになる

全身が目玉なのに手足がついている。それはもはや目ではないと言ってもいいのかもしれない。ある人は彼を指して目玉のオヤジと呼ぶであろうし、ある人はルドンの目玉!というかもしれなかったが、その目玉は右手を黒い小箱のなかに突き入れてなにやらごにゃごにゃしているのだった。

「こんなんきました、リリーさん」

リリーさんと呼ばれたその人も普通ではなかった。まず口が額についていて、目がなかった。目がないことも口が額にあることも本人は気にしていたのかサングラスをかけ前髪を眉の上でそろえていた。鼻は西洋人のように高かったし、サングラスがよく似合っていた。目玉によばれるまでリリーさんは一枚の絵をみていた。リリーさんには目がなかったが、目がなくても心で物をみることは可能だった。

皿の上には花が盛られ、ブサイクなキリストがそれを眺めている。リリーさんはこの絵が好きだった。

目玉が両手に耳飾りと腕輪をもってきたので、リリーさんはまず耳飾りを手にとった。キラキラとダイヤモンドが眩しかった。もちろん光の乱反射をみているのもリリーさんの心である。耳飾りをそっと自分の耳につけてみたとき、リリーさんは耳飾りの気持ちをうけとった。どうやら耳飾りの持主の内面を崩壊させる事件が直前までせまってきていたらしい。

「理由のない悪意」

目玉がいった。リリーさんはうなづいた。リリーさんの片耳は真っ赤にふくれあがり、まるで林檎のようにふくらんでしまった。リリーさんは耳飾りが状況をかえるためにつかいはたした力についておもった。

「それで耳飾りはこっちにきたのか」

リリーさんは続いて腕輪をつけてみた。その直後、リリーさんの全身が疱瘡だらけとなった。穏やかだった彼らの住む家は真っ暗になり、屋根が吹き飛ばされ突風がリリーさんのサングラスをふっとばした。

「こいつは強烈だな…」

リリーさんは左手首の腕輪を右手でそっとにぎりしめた。腕輪もまた持主の多くの災難を感知し防衛すべく己のすべてを犠牲にしてここまでやってきたのだ。リリーさんはひさしぶりに前髪をかきあげて目玉に話しかけた。

「耳飾りも腕輪も同じ持主よね? こんなに備品に尽くされる持主も珍しい。どれ、あたしもあってみたくなった。よろしくおねがいね」

リリーさんは宙にうかんだ。そしてキツネのリュックになった。目玉は目でにっこり笑って人間の着ぐるみを着ると、1人の青年となってリリーさんを背負って家をでた。


#12

冷蔵庫の物語

 そいつは冷蔵庫から出てくると、ハローと言った。私は冷えたビールを飲みたいだけだったので、誰かに挨拶されるなんて考えもしなかった。
「冷気が逃げるから、早くドア閉めたほうがいいわよ」とそいつは、ソファにくつろいだように腰かけながら言った。「それに、まずは冷蔵庫のドアを閉めないと落ち着いて話ができないでしょ」
 そいつが言っていることはその通りなのだが、このままドアを閉めたら、今置かれている状況を受け入れてしまうことになる気がしたので、私は一旦目を閉じて深呼吸をした。
 すると次の瞬間、バタンという音が聞こえたので目を開けると、そいつが冷蔵庫のドアを足で蹴っているのが見えた。
「目の前のことから逃げても何も解決しないし、物語はもう始まっているのよ」

 私は、自分の置かれた状況を一週間ほど静観していたのだが、そいつはいつもソファでゴロゴロしたり、お菓子を食べたりしているだけの存在でしかなく、物語が始まったようにはとても思えなかった。あるいは、何も起こらない物語もあるのかもしれないが、そもそも現実というのは物語のように何かが起こる必要はないのだ。
 しかし、一ヵ月ほど過ぎたあるとき、そいつは私のことを「兄さん」と呼び始めた。
「実はあたし、兄さんの妹なの。だから兄さんのことを兄さんと呼ぶことにしたの」
 本当の妹なら兄さんと呼ぶのは当然だろう。しかし、嘘の妹であるお前にはそんな資格はないと言って突き放すと、そいつは無言で冷蔵庫のドアを開け、再び冷蔵庫の中へ戻ってしまった。
 私は、ソファに座ってしばらくテレビを眺めたあと、何事もなかったように冷蔵庫を開けた。そこには、ビールや食材が入っているだけで、変わったものは何も見当たらなかった。

 そいつがいなくなってから、私はたまに手紙を書いて冷蔵庫の中へ置くようになった。返事が返ってくることもあれば、返ってこないこともあった。お前は嘘の妹であるが私の妹であることに変わりはないと手紙に書くと、そいつは、「はじめから兄さんの気持ちは知っていたわ」と返してきた。
 そして今、そいつは家電売場で冷蔵庫の販売を担当しているのだという……結局、冷蔵庫で話が終わるというのは月並みな展開かもしれないが、そいつはそういう物語で満足しているようだし、私も別に不満はない。それと、はじめから私の気持ちを知っていたなんて嘘だ。でも、そんなことも全部含めて、私はそいつが好きだ。


#13

アニマ

 夏。線香。男は猫に導かれるようにして静まり返った家を後にした。
 黄昏時の路地裏には黒い影が差し、行き交う人々の貌は逆光に翳っている。立ち並ぶ屋台の店先には皮を剥がれ腸を抜かれたネコがイタチやハクビシンと共に逆さに吊られている。猫は見向きもせず進み、男はそれに倣う。
 刺すような西日が男を貫く。まばゆい黄橙色を目に焼き付かせ、激しい頭痛とともに男は視力を失った。猫はノドを鳴らして男を導く。男はおそるおそる手探りでそれに従う。
 男の肌に夜の空気が触れるころ、男はある家の前にいた。手触りと雰囲気で自宅だと察した。
 闇の中でなら会えるのだろうか、それなら目が潰れたことにも意味がある。男は寝床でそのようなことを考えたのだろう。だが目を潰せば会えると妄想しながら潰せもせず、じめじめと悩みながら布団に頭を突っ込んでいるうちに終えてしまうのが人生だ。
「大丈夫ですよ」
 闇の中で急に響いたその声に男は驚き、潰れた目を凝らして辺りを見回した。
 男は声に向かって這い寄っていく。闇の中で声のあるじは膨らんだり縮んだりしながら伸び上がって男の手に首筋を擦りつけた。
 やがて夜明けを迎え、闇の中に橙が差し、それが滲むようにして男の視力は回復した。

 夏。線香。椅子には掛けられたままの袢纏。
 男はダンボールとダクトテープと暗幕で窓を目張りした。
 その晩、LEDの光すらない闇の中でその声は現れた。まるで理解不能なそれは言葉だった。大丈夫ですよ、とも、愛してますよ、とも聞こえる響きをもっていた。それは妻のものであり、妹のものであり、かつて傷つけてきた女たちのものだった。
 その晩を境に男の世界は変化した。椅子に掛けられたままの袢纏から、仕舞ったままの揃いの江戸切子から、置かれたままの冬物のブーツから、低い抽斗に畳まれたままの普段使いのタオルから、男を気遣う声が現れるようになった。
 男は外に出る。日なたと日かげ、鳥のさえずりやどぶの中にさえも声は満たされている。行き交う人々の貌は靄がかかったように崩れゆらめき、店先には魚の干物が吊るされている。男は太陽に向かって歩く。
 私が男の名を呼ぶ。男は自分に名があり、かつてそう呼ばれていたことを思い出す。だが振り返らずに彼は顔の崩れた住人とかつてネコだった魚に見送られ傾き始めた白く灼ける太陽に向かって歩き続け、やがて光に溶けて消えた。
 こうして私と彼は永遠に分かたれた。


編集: 短編