# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | リストカッターの少年 | 砂猫 | 926 |
2 | W.W. | 三浦 | 1000 |
3 | 緊急事態と私 | テックスロー | 991 |
4 | 性癖 | 世論以明日文句 | 888 |
5 | ニンゲンという暮らし方 | たなかなつみ | 881 |
6 | 本音誘発剤 | 夏川龍治 | 966 |
7 | ガレのある料理店 | 岩西 健治 | 997 |
8 | 宴のアト | わがまま娘 | 999 |
9 | 1992年の伊勢丹ロックウェル | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
10 | 幽霊と映画と手帳 | euReka | 1000 |
天国によじ登ろうと手首を切った少年がいた。
厚くたれこめた雲の隙間から、柱のように光が降り注いでいた。少年には、それが天国に続く階段のように見えた。
手首を氷水につけ、感覚が無くなるまで冷やした。父がひげ剃りに使うカミソリは、ずしりと重かった。それを手首にあてがい、少年は力をこめた。血を見るのが嫌だったので、目を閉じた。肉が弾ける気配とともに、膝に温かいものがしたたり落ちた。少年は目を閉じたまま意識が薄れていくのを待った。
自分が死ねば誰が泣くか考えてみた。母は泣かないだろう。なぜなら、食事の仕度や洗濯をしながら、「あなたがいなければもっと楽なのに」と口ぐせのように言っているからだ。
父も泣かないだろう。なぜなら、数学のテストで15点をとったとき「お前、一回死ね」と罵倒されたからだ。
クラスメイトたちのことも考えてみたが、少年が死んで涙を流しそうな人間は一人もいなかった。少年は安心して勉強机に顔を埋めた。
気づいた時、少年は窓の外にいた。机に突っ伏して、左腕をだらりと垂らした自分の姿が見えた。手首からはねっとりとしたものがしたたり、床に赤黒く溜まっていた。
少年は宙を泳いで、天国へと続く光の階段を探した。光の階段はすぐ近くに見えた。それを目指して、少年は四肢をばたつかせたが、いくら泳いでも光の階段は近づいてこなかった。というよりも、少年が近づく分だけ光の階段はさらに遠ざかり、その距離はいっこうに縮まらないのだ。
途方にくれた少年は、仕方なく空中を泳いで家に戻ることにした。二階の部屋の窓辺にたどり着くと、部屋では、少年がさっきと同じ姿勢で机に突っ伏していた。母が少年の肩を揺さぶっていた。そしてドアの方に向かって何かを叫んだ。父が飛びこんできた。父も少年を見るなり、何かを叫んだ。
少年は、その光景をぼんやり眺めていた。少年が驚いたのは、父も母も頬を涙で濡らしていたことだ。父も母も狂ったように泣き叫んでいた。
そんなはずはない。そう思った瞬間、少年はバランスを失って墜落した。
目覚めた少年が、ゆっくり机から頭をあげると、そこには涙に濡れた父と母の顔があった。割れていた雲がいつの間にか空を覆い、光の階段は夢のように消えていた。
落としましたよとその人は言った。ありがとうございますと私は答えた。私たちは同じ方角へ向かいながら互いのことを話した。私たちは同じ名前を持ち同じ目的を持っていた。私とその人は同じ一人の人間かもしれなかったが私たちはそれを認めることができなかった。私たちは同じ目的にそれぞれ違う条件をつけることにした。私は伴侶を得ること。その人は復讐を遂げること。そして私は同じ名前の頭の一字を、その人は末尾の一字を消して私たちの名前ではない名前で生きていくことにした。
私たちは町で別れた。私はマッチ売りに出会った。私がマッチ売りが持っているマッチをすべて買うとマッチ売りは私を家に招いた。やがて私たちは結婚の約束を交わした。しかしマッチ売りは強盗に襲われて死んでしまった。私はかつて私と同じ名前を持っていた人を探した。私と同じ名前を持っていた人は伴侶を得ていた。条件を交換したいと私は言った。いいですよとその人は言った。マッチ売りを殺した強盗には伴侶がいた。私が強盗を殺すのを目の前で見ていたその人は、やがて私の伴侶になった。
かつて私と同じ名前を持っていた人が私を訪ねてきて条件を交換したいと言った。私は断った。するとその人は私とあなたは同じ一人の人間ではないかと言った。そんなわけはないと私は言った。その人は言葉を継がず黙って私の前から去っていった。
私の伴侶が人を殺して追われる身になり私は目的を思い出して二人で逃げることにした。追手の中にはかつて私と同じ名前を持っていた人がいた。私の伴侶が殺した中にその人の伴侶が含まれていたのだ。かつて私の名前だった名前と同じ名前の町で私の伴侶はかつて私と同じ名前を持っていた人に殺された。私はその人を殺そうとしたがうまくいかなかった。私はかつて私の名前だった名前に名前を戻した。そして私の伴侶を殺したあの罪人も私と同じ名前に戻したことを知った。
私と同じ名前の町で私はマッチ売りに出会った。私はマッチを買わなかったが私と同じ名前のあの罪人はマッチを買い、やがてマッチ売りを伴侶にしたことを知った。私が私と同じ名前のあの罪人を殺すのを目の前で見ていたマッチ売りは、やがて私の伴侶になった。
町と私は同じ名前を持ち同じ目的を持っていた。私たちは同じひとつの存在かもしれなかったがマッチ売りはそれを認めることができなかった。私たちはマッチ売りを殺し、私たちの目的を果たした。
やはりというか、その日も青空で夏休み、ひざ上5センチスカート丈の私は、高校にいた。誰もいないので廊下にルの字で座って手を伸ばしたその先には赤いボタンがあって、ボタンを取り囲む赤鉄の物体には火災報知器と書いてあった。じりじりと暑くて、でも内またはひんやりとしていて、頭は妙にさえていて、今ならな、ツインテールなんてばかげた髪型もできるかもなんて思っていた。
女子高校生がなぜ補習でもないのに高校の廊下に座っているのか、恋する乙女か自殺願望か、たぶんそんなところだと思うけれど、私はもうなんか、暑いなー、暑いなーってそれだけで、わざわざ制服にまで着替えて、高校の廊下にぺたんと座っている。当然というか、セミが鳴いているが、私の高校は校庭がとても広く、その周り木、木、木、なので、普通に友達と高校で話しているときでも、耳をかすめる遠くで鳴くセミの声が、私を一人にすることがある。
「何してんだお前」
私は振り向かない。なぜって誰にも呼ばれてないから。何してんだお前、なんて呼ぶ人はもうここにはいないから。とっても悲しいことが起きたから。それは人が死ぬとかそういうたぐいのことだから。でもやっぱり暑さのせいにして、私はかぶりを振って右手を冷やす。火災報知器と書かれた、鉄製の箱にぴったり肘から先をつけて冷やして、理想の彼氏を勝手に頭の中で作って殺してもなんも悲しくないなーと思った。
だから勢いよくボタンを押した。プラスチックを割って中の丸いばねをぐりぐりと押し込んだ。じりりりり、じゃないんだな、空気の濃度が濃いからなんだ、かんかんかんかん、くゎんくゎんくゎんくゎん、音が鳴った。一瞬ドキッとしたけど、そのくゎんくゎんは妙に私を落ち着かせた。
「何してんだよ」
げげー、これは本当に呼ばれたのだっ。振り返ると心底迷惑そうな顔して35歳の担任が近づいてくる。うっわやっばい逃げなきゃ。ルの字で座ってたとこから見られてたならやばすぎる。そこまで見てて声かけないこいつが変態すぎる。スーッと汗が引いて、あ、涼しい。
逃げる私の右手をつかまれた。「つめたっ」手を放してくれた隙に全力で逃げた。なんだろう、もぞっとした手の感触だった。そして妙にねっとりしていた。気持ち悪かった。こういったもぞもぞから逃げ出すために明日から、いや今日から、私は、女子高生ちゃんとしよう。コンビニでハロハロ食べよう。
以下、男Aのメモ書きである。
アイレベルで構える一眼レフに対して、ウエストレベルで構える二眼レフカメラは、直接、被写体に目を向けず、上から覗く形をとる
白黒ブローニーフィルムの例:
◇現像の手順
1、ダークバッグに撮り終えたフィルム、リール、タンクと蓋を入れ、口を閉める
2、バッグ内でフィルムをほどき、リールに巻いていく フィルムに爪痕をつけないよう注意
3、リールをタンクに入れ、大蓋を確実に閉める バッグを開けて取り出す
4、現像液・停止液・定着液、それぞれビーカーを準備する(液の温度は20℃、TMX100:撮影感度100 現像時間9分45秒)
5、タンクの給水蓋を開け、タイマーをスタートさせてから現像液を流し込む
6、タンクをテーブル叩きつけてフィルムに着いた泡を攪拌する
7、30秒まえから給水蓋を開けて現像液をビーカーに出し、時間丁度に切れるようにする
8、給水蓋から停止液を流し込む 攪拌させたら停止液をビーカーに出す その際、タンクを傾けて液体をよく切る
9、給水蓋から定着液を流し込む 5分毎に攪拌 時間は25分程、ビーカーに出す
10、タンクの大蓋を開けて流水で30分程水洗い 最後にドライウェルで処理
◇プリントの手順
11、引伸機の高さを印画紙の大きさに合わせる 現像液・停止液・定着液はバットに準備しておく
12、フィルムからコマを選んでネガキャリアにはさみ、引伸機に装填する(マウントされた見本のフィルムと見比べて露光時間を決めておく)
13、タイマーの電源を入れ、セーフライトをフォーカスに切り替えたら部屋の電灯を消す
14、印画紙の乳剤面を上にしてイーゼルマスクにセットし、タイマーの露光ボダンを押す
15、露光が終了したら印画紙の余白をピンセットで挟み、バットの現像液で最初20秒攪拌を続ける
16、1分50秒で引き上げ、薬品をよく切ったら停止液につけ、またすぐ薬品を切る
17、定着液につけて数回攪拌させ、2分程で取り出す(部屋の電気をセーフライトから電灯に切り替えてもよい)
18、印画紙に撮影した女の裸体が写っているのを確認する
19、10分程流水につけ、最後にスポンジで拭う
後ろから名前が聞こえてきて呼びとめられる。その名前に心当たりはなく、振り返って確認したそのニンゲンは知らないヒトだったが、対応の仕方は知っている。型どおりの挨拶をして、久しぶりだねと言って互いの手を合わせて、元気? いま何してるの? そう言えばあのヒトとはその後どうなってる?
少しだけ立ち話をして、笑顔で手を振って踵を返す。そしてすぐにその笑顔を消し、歩行を再開する。
道を進んでいくあいだに、何人かのニンゲンから名前を呼ばれる。呼びかけられる名前はそれぞれ異なっていて、やはり知らない名前だったが、対応の仕方は知っている。店先で買い物をする。会釈をしてから仕事の話を始める。挨拶だけして通り過ぎる。知らない顔で走って逃げる。
外出先での所用を済ませ、暗くなってから家に辿り着く。表札にはやはり見たことも聞いたこともない知らない名前が書かれているが、問題はない。
玄関先で靴を脱ぎ、部屋に入ってから帽子と鞄を取り、外出着に手をかける。上着を取り、シャツを脱ぎ、下着を取って、皮を脱ぐ。何枚か薄い皮を脱いだあと、厚手の皮の胸にぽかりと空いた穴から小さな珠を取り出す。黒光りのするその珠を指先で摘まみ、棚の上に置いてある瓶のなかに慎重に落とす。瓶のなかには培養液が入っており、珠はそのなかでころころと回りながら沈んでいき、底部でその動きを止める。
珠には名前がない。けれども、それはとても大事なものだ。珠がなければ皮の役割はなくなってしまう。皮を存続させるために、何よりも大切にすべきものなのだ。
そうして皮だけになった私は、コーヒーを入れてソファの上でくつろぐ。何ものにも代えがたい満ち足りた時間。何ものにも擬態せずにくつろげる空間。幸せ。
玄関のチャイムが鳴る。インタフォンから私を呼ぶ知らない名前が聞こえてくる。私はため息をついて立ち上がり、瓶のなかから濡れた珠を取り出す。そうしてそれを飲み込み、脱ぎ散らかした薄皮と服を手早く身に着け、はあい、と応えながら玄関先へ出て行く。
当然のごとく、皮には名前がない。生き延びるために捨てた。そうして、生きている。
ある日の夕方、エフ医師のもとをひとりの少女が訪れた。
「本音誘発剤を一錠、処方していただきたいのですが」
ひかえめな口調で、少女は言った。
「どのような事情で、ご入り用になったのですか」
本音誘発剤は、本来カウンセリング目的で開発された薬で、これを服用すると一定時間、心の奥底に溜まった本音を何の抵抗もなく打ち明けることができる。
「実は私、父とまともに話したことがないんです」
「ほう、お父さんと」
「嫌いなわけではないんです。ただ、いざ面と向かって話そうとすると何だか緊張してしまって、うまく言葉が出てこないのです」
「お父さんは、厳しい方なのですか」
「いえ、そういうわけではありません。むしろ、優しい父だと思います。家ではいつも無口で、めったに冗談も言いませんが、母との仲も良く、声を荒げるところを見たこともありません」
「円満な家庭でお育ちになったのですね」
「毎日不満も言わずに働いてくれる父に、一度きちんとお礼を言いたいのです」
「けれど、いつものように緊張すると困るから薬の力を借りたい、と」
「そういうことです」
安心したように、少女はうなずいた。
「わかりました。では、余裕をもって三錠ほど処方しておきましょう」
と、エフ医師は言った。
「お父さんと会話をする直前に、この錠剤を服用してください。一錠あたりおよそ三十分程度の効果があります」
「ありがとうございます」
薬を受け取り、少女は部屋を出ていった。
家に帰る途中、少女の胸は高揚感で満たされていた。
この薬のおかげで、父親に本音を伝えられる。この薬があれば、これまでの親子関係を変えられるかもしれない。そして、いつかは薬に頼らずに父と話せるようになって……。
しかし、少女の期待はあっけなく裏切られた。
家のリビングに、腹部から血を流した父親が倒れていたのである。そのすぐ横には、血のついた包丁を握りしめた母親が立っている。
「お父さん!」
少女は悲鳴とともに駆け寄ったが、父はすでに絶命していた。
どす黒い血の海には、ところどころに、カプセル状の白い錠剤が浮かんでいた。
「どうしてこうなっちゃったのよ」
厳しく問い詰める少女に、母親は動顛した様子でこたえた。
「この人がいけないのよ。ヘンな薬を飲んだと思ったら、いきなり(お前は世界一ブスで無能な女だ!)なんて怒鳴りちらすから……」
「二流は一流の下ではなくて、三流の上ってのはどうでしょう」
なるほど、そう言われると少しは楽になる。
松本は年下のシェフを尊敬したい衝動にかられた。
店内はオレンジ色の薄暗い照明で、アンティークの濃い木目のテーブルに椅子が向かい合って二脚、テーブルの中央には赤黒いバラが一輪、ガレの花瓶が妖艶である。
「十七歳六ヶ月の女子高生のモモの肉になります」
適度な脂肪に包まれたモモは筋繊維が細く、口の中でふっくらとはじけるような食感になります。加工の一週間前からは果物のみ与え、腸内洗浄をおこないます。月経周期に沿った血抜き処理、徹底したもみ洗いで臭みもほとんどありません。過度のダイエットは肉質に悪影響を与えます。最近は良質の食材を集めるのにも苦労しますからね。
一呼吸おいて、シェフはさらに続けた。
昔から絵が好きだったようです。しかし、デッサンに悩んでいて、どうしても上手く描けなかった。
「下であろうが上であろうが、二番目は二番目よ」
わたしの説得にそう言ってましたよ。美大へ進めば絵が上手くなるなんて保証はありません。だから、彼女が悩んでいたことも理解はできます。でも、やはり、十代の悩みっていうのは、みっともないですよ。ちっぽけで、みっともなくて、それだけに縛られてしまう。人は経緯がどうであれ、死んだ時点で肯定されます。特に学生はその傾向が強い。それでも、楽になってはいけない。悩んで生きていかなければならないはずです。
「最後に顔をご覧ください」
食べ終えた松本の前に出された、銀の皿の上の少女の顔。皿を持つシェフの指。蜘蛛の脚。血の抜けた顔は粘土で作られた仏像のようである。造形として美しい両性の整った顔立ち。おでこから鼻筋にかけての端麗なライン。欲情を奪う顔にも見える。
「今、観音を見ました」
無垢な言葉を発した松本は、宗教のような信仰心を抱いた。悟りをひらいた仏、悟りを求めつづけている菩薩。菩薩を食した俺は悟ったことになるのか。松本はその矛盾を心の中でひとり笑った。
日本では毎年、千人以上が行方不明のままにある。交番前の捜索願いのビラ。しかし、他人の失踪事件などすぐに忘れ去られる。
時計のない部屋。二重ロック。防音壁。首輪。手錠。猿ぐつわ。監視カメラ。狂気と静寂は交互にやってくる。今は宿主を失った静寂の時間である。新しい狂気を拾うまで闇に閉ざされた部屋の空気は凍りついている。
鍵を開けて中に入る。彼らのいないこの家は随分静かだ。
リビングの扉を開けた瞬間、変なにおいが鼻を掠めて行った。なんの臭いだろう?
ソファにバッグと上着を置いて、キッチンにある冷蔵庫に向かう。冷蔵庫には、洗濯するものと掃除する場所が貼られている。
洗濯の欄に「カーテン」と書かれていて、カーテン? と思い、リビングのカーテンを見る。洗うのはあのカーテンだ。確か先月も洗ったはずだけど? そう思い冷蔵庫に視線を戻して、再びカーテンの文字を見ると、奇麗な文字の近くに、それを書いた人とは違う文字で小さく「絶対!!」と書かれている。何かやらかしたな、と顔がにやける。
とにかく、カーテンを洗ってくれという指示なのだ。カーテンを外すべく踏み台を持ち出し、カーテンに近づいた。なんか臭う。リビングに入った時の異臭はこのせいか。踏み台を置いて、カーテンを眺める。黄色のカーテンだからだろうか、よく見ないとわからないが何かをぶちまけたような跡がある。カーテンのシミに鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。腐敗臭? アルコールだろうか?
騒いで酒でもかけたのだろう。自分とさして歳の違わない年下の彼らの騒ぐ姿を想像して、苦笑いが浮かぶ。臭いが残っていることを考えると、やらかしてからそんなに時間は経っていないのだろ。でも、アルコールであれば、カズキさんが今日までそのままにしているとは思えない。
「絶対!!」の文字を思い出し、まさかヤツはカズキさんが洗濯を拒むほど怒らせたのではないかと不安になる。あながち間違ってないような気がして、ため息が出た。そうであればきっと今日も、彼らは重く冷たい車内の空気を堪能しているに違いない。洗濯が終わればそのまま彼らに会わずに帰ろうかと思ってしまう。
とにかく、いろいろ詮索しても仕方がない。カーテンを外して、そのまま洗濯機に投入し、洗濯後のシミの残り具合を確認することにする。
洗濯機の洗濯終了を知らせる音がして、洗濯機からカーテンを取り出す。
濡れたままのカーテンをカーテンレールに取り付ける。床には水滴が落ちてきた時のために新聞を広げておく。天気が良いから、窓を開けておけば早く乾くだろう。
今は、臭いもしないし、シミも殆ど見えない。乾いてこの程度ならカズキさんも許してくれるだろう。
本当に怒っているのであれば、彼の怒りも消えはせずとも限りなく和らいで帰宅してくれることを祈って、夕飯の支度をすることにした。
さきほど僕のなかに棲むカエルが久しぶりに左手からヌラっと現れて、僕をみて話そうとした。僕は急いでカエルにならなければいけない。ビタミン剤をとりに棚へ走った。
錠剤を水で流しこみながら、カエルになるのも久しぶりのことだし、自分のなかにまだカエルがいたことをずっと忘れていた自分の変化を寂しく思った。
「カエルだからゲロゲロってしゃべるわけではないまんぞう」
カエルになった僕はソファに沈みこみ、カエルとして自分に話しはじめたのだったが、僕の中に棲むカエルはこんなダジャレを言う奴だったろうか。
「カエルはかえらない、とはかぎらないまんぞう」
カエルだって、オレはこんなヤワではない、ハードボイルドなカエルだったはずだ! と思っているにちがいない。それでもカエルの口からでてくるのは「オレはカフェオレ、オーレにはサトウ、アイツはアイス、アーネストサトウ。君の心にロックウェル」といった支離滅裂な言葉だった。しかしこれは僕自身の現実でもある。僕は下を向いた。
気がつくとカエルは帰ってしまっていて、あと1時間もすれば僕はカエルとの再会も忘れてしまうだろう。メモ帳にアーネストサトウ、ノーマンロックウェル、それにナイマン象について調べること、と書いておいた。
カエルがもっとハードボイルドで、僕が今より闘っていた頃、カエルは度々現れては識るべきこと、向かうべき道を示してくれたものである。カエルが裏切ったのか? いや、カエルを捨てたのは僕だ。
それから1時間、半日と過ぎたがカエルの言葉は(といっても僕の声だが)生々しく残っている。以前「カエルがいったこと」とメモしたものは、覚醒したときに「なんだこれ」と捨ててしまったのだが、今は昔のように!当時のようにカエルがまだいることを感じている。それで僕は嬉しくて着替えてスターバックスへ行った。前にいるハーフっぽい女性がカフェミストをたのんでいた。女性はノーマンロックウェルの画集をもっていた!
「お姉さん、あのう持っている画集にノーマンロックウェルって書いてあるんですが、えーと、話をききたいっ」
女性は少し戸惑ったようであった。「アノー、砂糖、どうぞ」と言うとさらに困惑した。だが僕たちは同じテーブルに座ることになり、いざロックウェルについてきくと、彼女は遠い目をした。大きな瞳がさっきよりさらに大きくなった。そのときピアスに気がついた。ゾウだった。
こんにちは。
わたしはだぶん幽霊です。
なぜそう思うのかというと、誰かに話しかけても反応がありませんし、すぐ目の前にわたしがいても全く気づかれないからです。もともと人とあまり話すほうではなかったので、最初はそれほど気になりませんでした。しかし、何をしても相手の反応がないので、その理由をあれこれ考えているうちに、自分は幽霊になったのではないかと思ったわけです。だとすると、わたしはすでに死んでいることになりますが、自由に移動できるのは今いる公園の中だけなので、自分の死を確認することもできません。ただ、服装はコートとマフラーのままなので、もし死んでしまったのなら、そのときの季節はたぶん冬だったのでしょう。
わたしは普段、公園のブランコに腰かけたり、桜の木に登って辺りを眺めたりしているのですが、何の目的も与えられず過ごしているせいか、時間が流れているのか止まっているのか、よく分からなくなることがあります。もちろん、昼と夜が変わったり、人が公園を歩いたりするという変化はありますが、わたしには、それがまるで映画のように見えてしまって、目の前で本当の時間が流れているのかどうか分からなくなるのです。二時間の映画なら、それを観た人にとっては二時間という時間が過ぎたことになりますが、映画の中では何年も、何十年も過ぎていることだってあります。当然、それは映画なので、その中で何十年過ぎようと何の不思議もないのですが、そう思えるのは、「これは現実ではなくただの映画なのだ」という安心があるからでしょう。
そんなことを考えながらいつものように過ごしていると、わたしは公園のベンチに手帳が置いてあるのを見つけました。きっとこれは、昨日このベンチに座っていた高校生が忘れていったものでしょう。わたしは手帳を開き、付属のペンで「こんにちは」と試しに書いてみました。すると、紙の上にちゃんと文字が書けているのです。幽霊のようなわたしの書いた文字なんて普通の人には見えないかもしれませんが、もし手帳を開いたあなたにこの文章が読めたとしたら、わたしの存在を知ってもらえるかもしれません。あるいは、ただの悪戯だと思われるのがオチかもしれませんが、もし何かを伝えることができれば、あなたとわたしは、その瞬間だけでも同じ時間を過ごしたことになるのです。それはきっと、一方的に流れるだけの、映画の中の時間とは違うはずですから。