第180期 #5
時計の針は午前3時を指している。私は寝付けないまま、ベッドから窓の外をぼうっと眺めていた。何となく目線を移した先、真っ黒なベランダの手すりの一部が、白く反射していた。
月だ。今夜は月が出ている。
どうせ寝付けないのだからと、私はベッドから抜け出して、窓辺に寄った。窓を開けると、9月も始まったばかりとは思えないような冷えた空気が流れ込んできた。下駄を履いて、そのままベランダに出る。軽く湿り気を帯びた夜気が体を包んだ。
右手の空を見上げると、見事な朧月だった。満月だろうか。膜のような薄雲を通して、ぼんやりと丸い形が見て取れる。鈍く白い光が辺りを照らしていた。
私は暫くの間、手すりに寄りかかり、ぼうっとしていた。虫の鳴く声だけが辺りに響いている。鈴を震わせるような音。金属が、ガラスが震えるような、高く澄んだ音。
こうして秋は夜、忍ぶように近づいてくる。たまに聞こえるカエルの低い濁声だけが、場違いなように夏の名残だった。
私は身を乗り出し、階下の庭をのぞき込んだ。猫の額にも及ばない、細長く狭い庭。底は闇が溜まったように暗い。生えているはずの草や植木の類は、闇に埋れて影すら見せない。
首を上げ、真上の空を仰ぎ見た。月が明るい夜に、星はあまり見られない。白い粒が両手で数えられるほどだけ、こぼれた砂のように濃紺の空に点在している。そこから発せられるごく僅かな輝きだけがその在処を示していた。
私はある古典話の一場面を思い出していた。月のない夜、鬼から逃げるため女を背負って走る男に、女が訊ねる。
「あれは何?」
「あれ」とは、露玉のことである。夜露が降りると、その産物としてガラスのように透き通った露の玉が、草の葉の上に落される。それが星明かりを反射して、光の粒をばら撒いたように、どこまでも、どこまでも広がっている。
屋敷に籠りきりの高貴な女には、それが何か分からなかったのだ。生まれて初めて見る、正体不明の無数の輝き。女にとってはさぞ不思議な光景だったことだろう。
車のランプも、店の明かりも、街灯も存在しない中世の夜。人がまだ、星明かりを感じていた遠い時代。
勝手なノスタルジーを感じたところで、我に返った。体は既に冷え切っていた。慌てて下駄を脱ぎ、部屋に戻る。
空を振り返ると、薄雲は既に流れ、丸い月が姿を現していた。
今夜は満月だ。白い光は明るさを増して、向かいの屋根瓦をつやつやと照らしていた。