第18期 #7

春の日

暗闇の空に一番星が光っている。年が明けたというのに、夕暮れはまだ早い。仕事が始まって一週間もするとなまった体も動きだし、去年と変わらない暮らしぶりに戻る。冷え込んでくる空気をヒーターで温(ぬく)め取る。もうすぐ電話がかかってくる頃だなと思う。

「もしもし、可乃(かの)?」
親友の美世は、必ず始めに私の名前を呼んだ。
「もうどれくらい会ってないんだろう」
入院した彼女からの、最後の電話と同じだ。
「気が遠くなりそうだよ、生きていくのも」
「だから、会いに行くって言ってるでしょ」
「いいよ」
美世はここで息を継ぐ。そして繰り返す。
「いいよ、来なくて」
「わかってる、行かないから。きちんと治すんだよ」
今年で37回目になるセリフを、一字一句違えずに答える。
「退院したら、遊びに行こうね」
「はいはい。早く帰って来てよ」

それで電話は切れるはずだった。いつもなら。

「ごめん」
台本にはない美世の声が、受話器を通り抜けてきた。
「こんなに長くつき合わせてしまって。あたしってよくよく業が深いのね」
彼女は笑っていた。だから思いきって口にした。
「欲張りなんだから美世ってば」
電話の向こうで美世の表情がこわばるのが見えるような気がした。
「独り占めしなきゃ気が済まないんでしょ」
言ってしまった、と思った。でも、これでいいのだ。すかさず美世からの声が届く。
「可乃なんて、言いたい事隠して優しいふりばかり」
ふるえていた。美世のこんな声は、生きているときにも聞いた事がなかった。
「嫌いよ、可乃なんて大嫌い」
わぁぁーーん。壊れそうな振動に、受話を持つ手がしびれた。
「来ないでって言ったのは、来て欲しいってことだったのに」
やはりそうだったのかと思う。
「ごめん」
「謝らないでよっ」
泣いているとばかり思っていた美世が、今度は猛烈に怒り出す。
「そうやってかっこばかりつけるの、可乃の悪い癖だね。あたしがそのたび傷ついていたのなんて、考えた事もないんでしょう?」
「だったらどうだっていうの」
言い返した。とたんに静まった。
「だってあたし死んじゃったんだもん」
「待って」
立ち上がって美世を探した。
「待ちなさいよ、美世。話はおわってないんだからね」
どこにいるの、今すぐ行くから答えてよ。返事の代わりに私の体は、穏やかな空気で包み込まれた。春の日のように暖かだった。
「ばいばい、可乃」
舞い上がった声が、空へと吸い込まれていった。

それから二度と電話は鳴らない。



Copyright © 2004 真央りりこ / 編集: 短編