第18期 #3

湯気の先

猫が開いた窓の向こうで一声鳴いた。声は遠ざかっていった。ここは二階である。僕は今風呂に浸っている。窓を閉め、窓の代わりに湯気を逃がす為、手を伸ばして室内に繋がる引き扉を開ける。壁の方からかすかに泣く声が聞こえてきた。隣りに住む女の声だ。このアパートは作りが古く、壁が薄いのか、普通の声でも隣りの部屋に音が漏れる。ただ、よく聞こえるのは風呂場だけで、居間にいる時は大きな物音しか聞こえない。僕はいけないと思いつつも、風呂に入る時は外の窓を閉め、隣りの音に耳を傾けてしまう。そしてそのまま、のぼせるまでそこにいる。しかし、さすがに泣く声が聞こえたのは初めてだったので、少し心配になった。

半年ほど前は、隣りでよく男女の声が聞こえていた。数箇月前から会話が聞こえなくなった。男の声も女の声もしなくなったので最初は引越しでもしたのかと思ったが、物音はたまに聞こえ、単に男が消えただけのようだった。

隣りに住んでいるのに、僕はその女の顔を見たことがない。一度だけ中に入っていく後ろ姿を見たことはある。あまり若い感じではなかった。

会話が聞こえなくなって以来、しばらく静かな風呂が続いたが、最近変化が訪れた。猫である。いつからか、時々猫の鳴声がするようになった。ここは他にある大抵のアパート同様、ペット禁止なのだが、隣りはどうやら部屋に猫を入れているらしい。まったく、他の住人はアパート管理会社に文句を言わないのだろうか。呑気なものだ。

のぼせてきた。僕は湯船から立ち上がり、窓を開けて下にある裏庭を覗いた。暗がりの中、猫がそこにいて、覗いたこちらを光る目で一瞬見ると、すぐに建物の隙間にある溝に消えた。あの猫は、隣りの部屋に通う猫だろうか。窓を開けた遠い先から、車の走る音が聞こえる。立ちくらみがする。



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