第18期 #20

内と外の活き

その春、彼の隣の席には頭痛持ちの男の子が座っていた。
彼はその眉間に刻まれた苦悶の痕を不憫に思い、その子の弧闘に障るまいと決めた。
そうして机の両端にそっと手をかけ持ち上げた瞬間、彼はバランスを崩して机上の物を落とした。
鉛筆や消しごむに混じって、鉄製の鉛筆削りが鋭い音と共に床に角を突き立て転がった。
刹那、男の子は犬のような咆哮を短く上げ、頭を抱えて机に突っ伏した。
担任教師が足音を響かせて駆け寄り、彼の頬を打った。
「お前には同輩を労わる心がないのかっ」

    マ イ  ド

その夏、彼はその日初めて受けた給金で指輪を買った。
小さいけれど、彼は背広の内ポケットにその確かな重みを感じていた。
ケースから零れ出てくる煌びやかな光の結晶を撒き散らせながら、彼は女の家へと急いだ。
扉を開けると、女は台所で水仕事をしていた。
彼は足音を忍ばせて、女の背後から指輪ケースを流し台に置いた。
笑みを湛える彼を振り返ることもなく、女はそれを開けた。
内から放たれた光彩の花弁は、彼女の嘆息によって一瞬にして曇った。
「貴方の心の中は真っ暗闇だというのにね」

   タマ イ ヤド 

その秋、身重の妻に精のつく物をと、彼は台所に立っていた。
野菜を煮、魚を捌きながら、生まれてくる子を想い、想って緩む自分に苦笑した。
老いの蝕む体と体が結んだ一粒種であった。
食卓へ料理を運ぶと、妻は縁側で夕陽に照らされながら声を殺して泣いていた。
戸惑う彼に、妻は詫びた。何度も何度も詫びて、妊娠は嘘だと告げた。
すぐに間違いだと気づいたが、打ち明ける機会を逸したのだと言った。
「貴方の懐かしい情にもう少し縋っていたかった」

シ テタマシイ ヤドス

白亜の部屋の中で、彼は馴染みの声が次第に鮮明になるのを聞いて、ゆるりと目覚めた。
掠れ切った声で、老妻が名を呼んでいた。その眼から零れ落ちた滴が彼の鼻をくすぐった。
「私を置いて行かないで下さい」

シシテタマシイヲヤドス

彼の内にこびりついていた泥のような血の塊が腹を膨らませ、泡一つを吐いて霧散した。
彼は漸く、己の体躯の内に何ものも抱かないということの無垢に浸った。
彼は漸く、己の厚みが限りなく零に近づき、その内と外とを狂い無く同じうすることの快楽に埋もれた。
空の体内から湧出する悦びで弛んだ彼の唇から抜けた最期の泡を、妻の耳殻が懸命になって掴まえた。
妻はその安らかな面貌を見送ってから、彼の墓石に泡の言葉を刻んだ。



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