第18期 #13

係長と私

「しょうがないよ。」
 と、係長は儚く微笑んだ。私はこのやさしい係長が好きだ。

 日々続く深夜までの残業が少しずつ私の心と身体を蝕んでゆくのがわかる。私はパソコンの画面をぼんやりと眺めつつも、指だけは常に忙しなく、まるで私とは別の生き物の様にキーを叩いていた。
 そして5分ほど前、係長が編集した重要なデータの一部を誤って消去してしまったのだ。ハッとしたが遅く、私は震える声でこの事を係長に告げるしかなかった。
 係長はううと低く唸ってから、私にこう言った。
「15分だけあげるから、下のコンビニでサンドイッチ買って来てくれないか。ハムとチーズの奴。タマゴの奴は僕アレルギーがあるからダメなんだ。はい、お金。」
 意外にいつものさわやかな声だった。
 しかし私は半ベソをかきながらオフィスを出た。やりきれない気持ちが込み上げる。
 階段を下りてビルの一階にあるコンビニに入り、お目当てのサンドイッチを探していると、係長が店に入ってきた。
「あ、これこれ、これが美味しいぞ。君にはわからん美味しさだけど。」
「あの……。本当にごめんなさい。」
 私は係長の優しい話題を敢えて無視した。
 すると、係長は私の謝罪を軽く流して妙な事を訊ねた。
「あれね、君も内容知ってると思うけど、何のデータだったか思い出せる?」
「え、内容ですか……?」
 私は唖然とした。確かに私がついさっきまで見ていたデータだったのに、眉間に皺を寄せて思い出そうとしても、内容が思い出せない。よほど疲れているのだろう。
「すいません、最近、ちょっと疲れてて、頭が働かないんです。」
 係長は少し困った顔をして、納得したように頷いた。
「いや、そうじゃないんだ。君、会社の名前は憶えてる?」
 一瞬、係長が何を言ってるのか解らなかったけれども、言われるがままに社名を答えた。
「高橋脳研工業株式会社……です……けど。」
 困惑する私に係長は、ふうと一呼吸ついてからこう言った。
「君が消しちゃったのはね、君の記憶の一時保存ファイル。でも消えたのがそれだけで助かったよ。後でメモリー足しておくから。今日は自分のデスクに戻って、明日また起動しなさい。」
 係長はまた、儚く微笑んだ。
 私は係長の事が好きだなぁと思いながら、はいと返事をしてオフィスに戻り、人間なら敏感な場所にあるボタンを押して主電源を切った。キューンという微かな音を聴きながら、明日も私は係長を好きでいたいと思った。



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