第176期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 遠い過去に存在したはずの街について たなかなつみ 942
2 夫から妻へ テックスロー 951
3 この見えないはヒルサガリ 赤湖都 318
4 授業 かんざしトイレ 1000
5 観光客らしき青年 岩西 健治 994
6 後ろ姿の女と桜 Masahiro kase 990
7 違う世界 弥生 灯火 632
8 鈍色のナイフ 塩むすび 1000
9 つながり わがまま娘 944
10 すてきな三毛猫 euReka 1000
11 フォーレ「エレジー」 宇加谷 研一郎 1000

#1

遠い過去に存在したはずの街について

 わたしの前に物書きがいて、書いても書いても消えてしまうのだと言って泣いている。かれが使っている筆記具は数秒しか保存に耐えないもので、それを過ぎると書かれたものは跡形もなく消えてしまう。わたしはかれに他の筆記具を与えようとするが、かれは新しい筆記具を手に取ることはない。そうして泣き続ける。自分の書くものは残るに値しないものなのだと言って泣き続ける。
 物書きの隣には削除屋がいて、消しても消しても戻ってきてしまうのだと言って泣いている。かれが使っている道具は完全に削除することのできない欠陥品で、削除したはずのものを再現するのは簡単だ。わたしはかれに他の道具を選ぶように説くが、かれは新しい道具を探すことはない。そうして泣き続ける。自分のなす作業はまったく意味のないことなのだと言って泣き続ける。
 部屋には泣き声が充満している。面倒なのでわたしは自分の筆記具を使って書き物をし、不要な部分は削除する。できあがったそれは途端に喝采を受ける。空前の傑作だと言って部屋の外に持ち出され、街の真ん中に飾られ、道行く人たちがその前で立ち止まる。
 その傑作の作成者は件の物書きで、協力者は削除屋だ。わたしがそうサインをしたからだ。物書きと削除屋は驚くほどの称賛を浴びて戸惑うが、それが自作であることを否定することはない。やがて物書きと削除屋はその街の権威となり、街を牛耳ることになる。
 わたしは閉ざされた部屋で書き物を続けている。それぞれの作品にはすべて別のサインを付す。それらはほんの少しの称賛を浴びることもなく、誰かの目に触れることもない。
 時が経ち、わたしは老い、物書きと削除屋は没した。わたしは部屋のなかにあふれかえった書き物のすべてを削除した。それと同時に物書きと削除屋の傑作とされていたものも消した。物書きと削除屋はあっという間に忘れ去られた。わたしは誰の記憶にも入り込むことのないまま、すべてが消えた部屋のなかで朽ち果て、やがて街自体も没した。
 遠い未来に潰えた街を掘り起こし、この街の繁栄について調査する者が現れる。けれどもすべてが削除されてしまったあとの未来では、物書きも削除屋もわたしも発見されることはない。短い論文ができあがり、街の痕跡が伝えられるが、それだけのことである。


#2

夫から妻へ

 昨日セックスをしたからというのは当然あるが、下半身に何となくだるさを覚えて階下に降りると妻と子供らが食卓を囲んでいた。
 まだ早い時間なので新聞だけつかんで自室に引き下がろうとすると今日は家族でドライブに行く日だという。ああそうだったと食卓に引き返し、新聞を広げて妻の作ったハムトーストを食べているといいことを思いついた。

 はやる子供たちをなだめながら車に入れ、発車。音楽でもかけようとカーステレオに手を伸ばす妻を制して行先は区民ホールに設定した。西も東も関係ないような明るい午前、それでもナビに忠実に東の区民ホールへ四駆は走った。妖怪や幽霊など、出てきそうもない、ピーカンの青空だった。開けた窓から風が入り込み、子供たちは眠ってしまった。妻も二言三言話しをすると眠ってしまったようだ。緑豊かな雑木林に入ると、そこで初めてカーステレオのスイッチを入れた。ヴォリュームを最小限に絞るとそこから昨日のセックスの時に録音した声が聞こえてきた。これは妻以外の女と性交したときに録音したものだった。五分程度たつと、車は林を抜け、急に大きな通りに出た。ステレオはまた別の声を再生し始めていた。今度はどうも妻との性交の時に録音したものらしかった。

 助手席の妻を見ると、まだ目を閉じていた。こんな陽気な日には妖怪も幽霊も出てこないのではないかと思った。
「区民ホール」閉じた妻の口が開いて私に到着を告げた。ナビも嬌声をかき消して間もなく目的地周辺です、と私に伝えた。私は区民ホールについたことを子供たちに伝えた。子供たちは目をこすると大きく伸びをした。区民ホールには誰もいなかった。今日は日曜日で、しかし何の催しもやっていなかった。そしてそのことを私は知っていた。しかし催し物がないホールに鍵がかかっていないことは知らなかった。妻は驚いた顔をしていたのでたぶん知らなかったのだろう。子供たちは誰もいない区民ホールで尿意を覚え、トイレにかけていった。

 緞帳が下りたままのステージを見下ろしながら、妻と私は一番後ろの席に座っていた。妻はホールを見渡すと横にいる私と目を合わせた。私は妻の目を見て、「百万円、もらったのかい」といった。妻は祈るような表情で首を振った。縦に振ったのか横に振ったのかはもう私の知る問題ではなかった。


#3

この見えないはヒルサガリ

ヒルサガリ。私は町に出た。静まり返った町に出た。いらっしゃい世界、そしてさようなら孤独を約束して。寂しい人形達が目を光らせて私を見つめる。見つめ返すこの目は怖い?人形は怯えたようにただ草臥れている。気付くと家畜小屋のような臭いが次第に迫ってきていた。トナカイよろしく鼻のあたりを赤く染めた陽気な牧神達が歌いながらフラフラと踊っている。
「...う...あ...う」
もういちど気付くと、別の発見。ヒルサガリは私の脳が忙しい。次から次へと倒錯するアカルサ。けれどそれは明るさではない。私の脳を騙すようなアカルサ。
「もう一度昼下がりの明るさを見たい...」
儚い少女の夢はいつまでも残酷に、ヒルサガリと呼ばれた見えない昼の明るさの中を歩き続ける。


#4

授業

 いつの頃からか人間は電気椅子に座るようになりました。身体的な成長が止まる十八歳くらいになると皆、背広を仕立てるように、自分の体格に合わせた電気椅子をオーダーメイドするのです。電気椅子という名前を聞くとぎくりとするかもしれませんが、もちろんご想像のものとは違います。死刑制度はとっくに廃止されており、歴史の授業で少しは出てきたはずなのですが、ほとんど誰も覚えていません。電気椅子と言えば電動の車椅子のことなのです。しかも加速性、停止性、バランス、方向転換、いずれも申し分なく進歩しており、機種によっては浮き上がって空中移動も可能なのですから、モビリティとしてはこれ以上のものはありません。今や眼鏡のように身近で身体の一部と言ってもよいくらいの道具なのです。大人になると使わないものは何か、と問われるとまず思い浮かぶのが自分の足というくらいです。プロスポーツ選手にでもならない限り、足腰を鍛えることなどないのです。
 しかしこの状況が一変する出来事が起こりました。巨大な太陽フレアが発生したとき、電磁波は基準内であったにもかかわらず、電気椅子が軒並み故障してしまったのです。市民生活は大混乱に陥りました。自力では動けない人が大多数だったからです。世界中の人々に電気椅子を行き渡らせるにはすぐに増産するしかありません。それでもよほどのお金持ち以外の人は数か月待ちになるでしょう。なのに政府は原因の解明が先決だとして製造を停止してしまいました。政府の一部に他の星からの侵略を疑う人々がいたのです。天球の隅々に耳を澄ませ、二次攻撃に備えます。悪意を持って行わなければこんなことは起こり得ないと信じているのです。太陽フレアが原因とはどうにも考えられないのでした。一方で、政府は密かに一部のメーカーにだけ電気椅子の製造を許可していました。密造ではありません。電気椅子がなければ困るのですから、安全性が確認できたところから製造を始めさせておくのは利権でもなんでもないのです。でも実際のところ、多くの人々にとって目の前の生活が最優先でした。すぐに自分の足で立ち上がった子どもたちを頼もしく見上げたものです。

「確率論に依拠して過剰な最適化を進めた結果、破局的な事態に至るという重要なサンプル事例ですね。セオリーを鵜呑みにせず、フォールトトレランスを如何に確保すべきか」
「そうね。だから体育もサボらずにちゃんと受けるのよ」


#5

観光客らしき青年

 サンダル履きである。
 観光客であろう、明らかにわたしとは違う人種であるのは違いない。こんな場所に、とりたてたものなどない、ごく普通の町に似合わぬ観光客らしき青年は、一種異様にも映るのであるが、それはさておき、つまづいた拍子に足の指を怪我したらしく、右足の親指に血が滲んでいるのが見えた。

 この町にも稀に観光客が訪れることもあった。
 アスファルトが所々めくれた駅前は、あまり広くないだけのロータリーで、その周りには地元住民の車に混ざってタクシーがたまに混在して通る程度、車両がすれ違うのがやっとの道幅、中央の噴水は節水のため昨年から水を出さなくなっているありさま。この町を通る鉄道の駅名が有名な観光地のそれと似た綴りであって、ここへ来るほとんどの観光客は、その有名な観光地と間違えてこの町へ迷い込むのである。

 専業で神社仏閣に奉納する特殊な紙を製造していた。
「幸いわたしの家はすぐ近くですからね」
 ジェスチャーも交え、それでも上手く伝わったかどうか、わたしは青年の手をつかんで、敵意がないことを表す笑顔を作る。
 青年を丸木で作った簡素な椅子へ座らせると、キッチンから水の入ったタライを運んできて、ソデをめくり、スカートの裾をたくし上げ、動きやすい格好を整え、一目散にしゃがんで、青年の足をタライへと引っぱり込む。胸元の開いた衣服から随分と垂れ下がった乳房が見え隠れしているのはなんとなく分かってはいた。別に青年の顔を見た訳ではないが、そういった気配をわたしは敏感に感じ取るほうだ。けれども、そんなことには頓着せず、せっせと青年の足を洗う。必ず煮沸消毒した水しか使用しないのは、近年は上水道の整備も進んで以前のように神経質にならなくとも良くはなったが、一度あたったことのある三十数年前の体験は、今も体から消えることはない。しゃがんだ姿勢のまま、外へ向けた視線の先の空は青である。
 
 青年の言語の発声はわたしの知っている範疇にはなかった。
 少し巻き舌のこもるように空気の抜ける音。感謝の言葉であろうことは何となく想像はついた。わたしは「トンデモゴザイマセン」と、かたことな言葉で返した。
 ただ、おかしなことに、青年は椅子から立ち上がろうとして、膝からがくんと崩れ落ちてしまうのである。怪我はない。単なる立ちくらみであろう。わたしも良く立ちくらみをする。立ち上がるときには少し意識を集中させる。


#6

後ろ姿の女と桜

土曜の朝はとても静かだった。
草木が夜露に濡れて雫がしたたり落ちようとしている。
朝早く起きた子供達は連れ立って何かを喋りながら通り過ぎてゆく。
空気は澄んでいるが、空は曇っていて日差しは差してこず、少し肌寒い。
僕はいつもの道を、いつもどおりに歩きはじめた。
時折、犬の散歩や、ジョギングしている人達とすれ違い会釈を交わしたりした。

少し行くと広々とした公園があり、僕は日課で、その硬いあまり座りごごちがいいとは言えない二人掛けのベンチに腰をおろした。
そこには広場があり、そこを中心として、桜並木が植わっている。
桜はもう花びらを散らしてしまっていて、新緑の清新とした葉にすっかり様変わりしてしまっていた。

その時、黒いカーディガンとベージュのチノパンツを履いた一人の黒髪の女が斜向かいからやって来て僕の座っているベンチに無造作に座った。
僕は少し面食らったけれど、思いきって挨拶をしてみた。
その女性は何も聴こえなかったように、ただ
新緑になった桜の葉を見続けていた。
僕はもう一度同じ言葉を繰り返した。
女はおもむろにに「ねぇ、いつ桜の花は散ってしまったの」と低い声音で言った。

それは僕に質問しているようでもあり、まるで独り言のようでもあった。
僕はこの謎の女性に何故か惹きつけられるのを感じながら「一週間前ですよ、ちょうど桜が散ったのは。今ではもうすっかり新緑なってしまったけれど」

女は少し首を傾げて、そのことについて考えている様子だったが、しばらくして首を左右に振った。信じられないというように。
「一週間前には桜は咲いていた。でも今はすっかり新緑になっている」

「そうです。一週間前までは桜は咲いていたけれど、今はもうすっかり新緑になっています」と僕はなぞるように女と同じ言葉を繰り返した。

女は「ねえ、桜はどうだったの?とても美しかった?」

「ええ、とても綺麗で美しかったです。本当に」

「そう、それならいいの、桜は綺麗で美しかった、本当に」今度は女が僕の言葉をなぞって言った

女は安心したのか、そこでひと息つくように息を吐き、来た時と同じように無造作に立ち上がり、同じように広場を斜向かいに横切って歩き出そうとした。
僕はその後ろ姿に何か声を掛けようとしたが、それは言葉にならず、空中で霧みたいになって消えてしまった。

そうして僕は女性が桜の新緑が青々と茂る木立の中を消えて行く様を、ぼんやりと見つめ続けた。


#7

違う世界

「君を嫌いになったんじゃない。価値観の違いってやつさ。僕と君では合わないんだよ。だから、さよならだ」

 そう言って昨日、男は女に別れを告げた。告げられた女のつぶらな瞳には涙が浮かび、その視界はぼやけた。どこをどうやって帰ってきたのか、ショックで女は覚えていない。気がつくと自宅のベッドで、女は今日という日を迎えていた。
 女の瞳から、また一筋の涙がこぼれた。新しい日を迎えても、遠ざかっていった男の背中を思い出してしまうのだ。
 いったい何度目だろう。別れを告げられたのは。女は隠すように両手で顔を覆った。自分の何がいけないのだろう。自分のどこが彼に気に入らなかったのだろう。考えるけれど、答えは出てこない。

「キミとは住む世界が違うんだ」
 ある男は淡々と悟りきった表情で、女に別れを告げた。

「ごめん、他に好きな子がいるんだ」
 ある男は目をそむけて、はっきりと女に断った。

「…………萌が足りない」
 ある男は呟くように絞り出して、問うた女と離れた。

 今まで好きになった男性から投げられた数々の言葉。思い出して女は唇を噛み締めた。負けるものか。たかが男の一人や十人や百人にフラレたぐらい。また新しい恋をすればいい。きっと私を愛してくれる人はいる。そう気を取り直して女は涙をぬぐう。

「今度こそ、私を認めてくれる相手と巡り会えますように」
 女は祈るように呟くと、身支度を整え始めた。向かう場所はいつもの場所。今までの彼氏と出会ったあの街だ。

 その呪われた街の名は、秋葉原といった。


#8

鈍色のナイフ

 僕が九つだった頃の話をしよう。
 あのころ僕の右手には、安物だがよく研がれたナイフが握られていた。

 地元の神社の裏山には不法投棄された様々なゴミが人の業のおびただしさを物語るような形で溢れていて、辺り一帯にひりついた臭いをまき散らしていた。ナイフはそこに棄てられていたものだ。付着していた血痕は研磨を繰り返すうちに消えていた。 
 僕は父を殺そうと考えていた。筋肉と暴力の権化のような男を討つには一撃で仕留めるしかない。僕はタイヤに古着を巻いた木偶を相手に技の研鑽を積んだ。そこで体重の軽さや成長期前の手首の脆さを痛感した。
 ある日僕は一連の動作に回転を加えることを思いついた。ナイフを逆手に柄を抑え、腰を入れて振り抜くんだ。ナイフは深々と突き刺さり、今までにない手ごたえを残した。父を殺すという目的が現実味を帯び、ある種の自信に繋がった瞬間だった。これで殺せる、僕は父のことをいつでも殺せるのだ。
 父を殺す動機は今でもよくわからない。日々のフラストレーションや成長期特有の瑕疵、または遺伝的なものだろう。とにかく自分の中の父を殺せなければあの頃の僕に未来はなかった。
 
 そして目の前に君がいるというわけ。うん。高校生を自称しているが見た目はせいぜい中学生。高校生だよ。

 少女は僕にまたがってスカートをまくり上げ、瞳にかつての僕と同じ色を滲ませながら内腿の創傷パッドを剥がすよう促した。パッドを剥がすと、じくじくとした体液をはらんだ傷口が露わになる。指を押し当てて癒着しはじめた皮膚を掻き分けると、ぴんと張った白い肌がいびつに膨らんで蠢いた。

 大丈夫? すっごい痛い。好きな人とできればいいのにね。絶対に嫌。ですよね。

 親指が根元まですっかり納まると、抱き合う格好のまま少女は僕の肩に歯を立てる。このとき首筋を撫でてやると少女は喜ぶ。このまましばらく抱き合って、少女が軽く達したら終了。
 少女は必然的に僕を見つけた。迷いは既に過去の遺物となり、初心にはにかんでみせるその裏で何かを代償に何かを殺すのだ。僕はその正体を知っている。不意にひりついた臭いがよぎった。

 くさくない? ひどい。僕だよ。……柔軟剤? じゃあいいや。

 その後、毎回痛いのはさすがにしんどいという申し出アリ。「お前の指をちょん切って骨だけ入れておこう」という提案は却下。清潔なシリコン的な何かをゲットすべく百均に参るということで合意。


#9

つながり

ヤスシから引越しを手伝って欲しいと電話があったのは、つい数時間前の話だ。こっちの予定も関係なく呼び出してくるのは今に始まったことではない。
「2ヵ月ぶり」頭にタオルを巻いているヤスシに向かってそう言うと、「おっせーよ」と怒られた。
「だったら、事前に連絡寄越せよ」俺は首にタオルを巻きながらそう返す。
中から運び出される家具類を見ながら、あれ俺が買ったやつ、なんて思ってしまう。

俺も3年ほど前までこの部屋に住んでいた。ヤスシとは大学からのルームメイトで就職しても一緒に住んでいた。
結構長く一緒にいたはずなのに、その酒癖に気が付いたのは社会人になってからだった。大学時代は概ね一緒に飲みに出ていたからその酒癖は発動されなかったのかもしれないと今なら思う。
気が付いたのは、玄関に並んだ小石だった。その時は既に5つぐらいあったと思う。サッと蹴り飛ばしたら簡単に玄関の外に出て行くようなそんなものだった。
そのうちヤスシは石ではなくて、工事現場のコーンや看板を持って帰ってくるようになった。意外と近場から持ってきていことに気が付いて、ヤスシが飲みに行った翌日は早起きして返却するのが俺の役割になった。
今日は珍しく何も持って帰ってこなかったのか、と思った日があった。その日は外にバス停が置いてあって、ヤスシを侮ってはいけないことを悟った。
大きさも気が付けばバス停よりも大きくなることはなく、なんとか自力で対応できていたのだが、ある日ヤスシの持って帰ってきたものは、返却する、という代物ではなかった。
大声で帰ってきたヤスシが連れて帰ってきたものは、人間だった。しかし、何を言っても何語かわからない返事しかふたりからは帰ってこず、俺はそのまま諦めて寝てしまった。しかし、そこで手を打たなかった俺が間違っていたと今なら言える。
ヤスシの連れ帰ってきた人、つまり、のちにヤスシの妻になる人だが、俺は彼らにこの部屋から家具以外の荷物と一緒に追い出された。「気が利かない人」と言われて……。

あれから3年。
2ヵ月前に結婚式を挙げて、婚姻届を出したふたりはここから出て行くのだという。
荷物も積み込み終わり、扉が閉まった部屋を見る。「じゃ、また連絡するわ」と手を振って新居に向かうヤスシに、俺は「あぁ」とその背中に返事をした。


#10

すてきな三毛猫

 すてきな三毛猫が、死んだ鼠を僕にくれます。
 しかし僕は鼠を食べませんので、それを庭に埋めます。そして盛り上がった土の上に鼠ぐらいの大きさの石を置き、手を合わせながら鼠の冥福を祈ります。

 このすてきな三毛猫は、よく死んだものを僕にくれるのです。
 死んだバッタや死んだトカゲ、そして死んだ携帯電話など、僕が喜びそうにないものばかりです。携帯電話のときもやはり庭へ埋める儀式をしたのですが、しばらくすると土の中から音が聞こえてきたので、ふたたび庭を掘り返す羽目になりました。出てきた携帯電話を耳にあてると、グリーンスリーブスの曲が電子音で流れてきました。僕は時間が止まったようにじっとその曲を聴いていたのですが、ちょうどそのとき、すてきな三毛猫が一万円札をくわえてきたので、止まった時間が急に動きだしたせいで転んでしまう人みたいに僕も転びそうになりました。でもよく見ると、お札の裏側は真っ白になっており、ただ「ごめんなさい」と一言書いてあります。そのお札は三日ほど取っておいたのですが、なぜそんなお札が存在するのか理解できなかったので、結局、庭へ埋めるしかありませんでした。

 でもすてきな三毛猫は、まだ死んでいないものを持ってきたこともあるのです。
 ある日、家の外からビービーと音がするので表へ出てみると、ヘルメットを被った女性が棒のようなもので庭の地面をなぞっていました。事情を聞くと、彼女は探知機で地雷を探しているのだといいます。
「といっても爆発する地雷じゃなくて、わたしが勝手にそう呼んでる地雷のことなんだけどね」
 ではなぜヘルメットを被っているのだろうと思いましたが、きっと話の肝はそこではないと感じたので聞かないことにしました。
「なんだか、この庭っていろんなものが埋まってるみたい。だけど埋めるという手段は、それ以外に方法がないときの最終手段でしょ?」
 すてきな三毛猫は、塀の上から僕がその人をどう処理するのかを眺めていました。でも彼女はまだ死んでいないので、鼠のときみたいに庭へ埋めることはできません。

 その後、地雷の彼女は僕の家に住みはじめました。
 そして、すてきな三毛猫が何かをくわえてきたときは、それを庭へ埋めるべきかどうか二人で考えることにしました。そうすれば、庭が地雷原にならずに済みますし、彼女も地雷を探す必要がなくなります。
 彼女の言う地雷が、いったい何なのかも知りたいですし。


#11

フォーレ「エレジー」

カウンターの内側で働く河村さんは所作が美しかった。洗い物をふくためのタオルを毎回きちんとピンとのばし、ステンレスのキッチンには滴ひとつなかった。注文がたてこんで、たくさんのドリンクをつくっているときも、少しも慌てたそぶりを感じさせなかった。プロである。

投資スクールの事務員としての一日を終えた私は、河村さんに会いにこのワインバーへ日参している。年をとってきてわかることのひとつに、男が男に会いたくなるということがあって、それはセクシャルなことではなくて、ようは女が女にしかわからない話をしたくなるように、男は男にしか話せない空気というものがある。それで私は河村さんに会いにくるのかもしれなかった。もちろん、ときどきはキャバクラに足が向かってそこで求めることはまた別の領域になってくる。

河村さんとは毎日のように会うことになるわけで、話すといっても、ほんの一言か二言、私も日替わりのワインをグラスで一杯か二杯のんですぐに帰ってしまうので、そんなに話すことはないのだが、今日も河村さんがグラスを拭くタオルをきっちりピンとそろえ、複雑なオーダーをサクサクこなす仕事ぶりをぼんやりみていると、それが会話をしているような気分になって私はどういうわけか自分もがんばろう、一生懸命生きていこうと思うのだった。

その日はたまたま隣に若い女の子が座っていて、一昔前の私ならば、ぎゅぃいんと丹田が熱くなってくるようないい女なのだが、私はこの店には河村さんに会いに来ているわけで、だまって飲んでいる。

「本とか音楽とか好きですか。わたし、そういうの全然だめで。この年になって知りたいって思うんですけど、なにから読んだり聞いたりしたらいいかわかんなくて。同年代のはやりじゃなくて、なんか古いのがいいんです」

河村さん一押しのピノ・ノワールを飲んでいた私と彼女はワインの微酔もあって、いつのまにかこんな話をする展開になっていた。応えるのは私である。私はまたひと昔前なら丹田が熱くなったろうと思った。それはひと昔前、私も同じことを思っていたからだ。知りたい。いい本やいい音楽を知りたい。でも情報が多すぎるし、何が本物なのかわからなかった。

河村さんがフォーレの「エレジー」をかけた。私がこの曲を聴いたのはいつだったろう? 私は彼女の問いにこたえた。「古いの教えられるけど、新しいやつをおしえてよ」やや、キャバクラ的なノリになってしまった。


編集: 短編