第175期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 殺すつもりは、 秋澤 992
2 バーダー/ビッター テックスロー 1000
3 ごう 弥生 灯火 960
4 阿倍朋学園と南芝 Gene Yosh(吉田仁) 1000
5 送別会 岩西 健治 998
6 神の在る国の物語 たなかなつみ 801
7 そうじゃくなて わがまま娘 983
8 リンク切れ Y.田中 崖 1000
9 部屋 euReka 1000
10 夜桜 宇加谷 研一郎 1000

#1

殺すつもりは、

喉がカラカラに渇いていた。
彼女を抱きかかえると未だ身体は暖かい。けれどその身体は軟体動物のように力なく弛緩していた。誰もいないことを確認してから車へと運び込んだ。
こんなつもりはなかった。僕はただ彼女が好きだった。だから恋人ができたと笑う彼女にせめてもの思い出作りに夜桜見物に誘ったのだ。これで終わりにしようと決めていた。葉桜に変わるころにはただの知人としての立場に甘んじようと。名所は騒がしいから嫌だと、彼女が言った。だから彼女の家の近くの公園に来たのだ。大きくはない池がありその周りを桜が植わっている。煌々と天に昇る月のせいで、夜の割に明るい闇だった。桜はほの白さを纏い、心のなしか発光しているようにさえ見えた。穏やかな夜だった。ふと彼女が空を仰いで呟いた。
「月が綺麗だね。」
他意なんてなかっただろう。それなのに僕は深読みしてしまった。彼女がそんなつもりで呟いたわけではないことくらいわかっていた。なのに馬鹿馬鹿しくも僕は聞いてしまった。
「死んでもいいって?」
ここで間違えたのだ。僕はそう訊くべきでなく彼女はこれに「何の話?」と怪訝な顔をすればよかった。そうすればなにも失敗など起こらず、ささやかな恋が一つ終わるだけで済んだのだ。それなのに、彼女あろうこと微笑んだのだ。
間違えてしまったのだ。気が付けば僕は君の首に手を伸ばしてしまった。ペンキの剥げかけたベンチにその身体を押し倒し、力の限り白い首を締め上げた。しばらくして、彼女は動かなくなった。
不幸が重なったのだ。月が綺麗だった。公園には桜以外なにもいなかった。僕が間違った問いかけをした。彼女があまりにも美しかった。
公園の側につけていた車のトランクに彼女の身体を横たわらせる。丁度よく大きなシャベルが一つ入っていた。近くの山へ埋めてしまおう。ああそうだ、桜が咲いている山がいい。月が見えて桜が咲くところ。彼女が一人でも寂しくないように。そこに咲く桜はきっと来年からより綺麗な花を咲かせるだろう。
山道の途中で車を止める。これ以上は歩いていくしかない。彼女を抱えて、彼女が永遠を過ごすに相応しい場所を探そう。桜が咲いて月が見える場所。
トランクを開けると彼女がいた。息を止める。彼女の黒い両目と、視線が合った。一瞬だった。何もできなあった。鈍色のシャベルが目の前に迫って、
「失敗したなあ。私が殺されそうになるなんて。」
そう言ったのは、


#2

バーダー/ビッター

 見た。見たことある、見たことある影、見たことある髪の色? 変わった? 誰、バイト先? 歩いてくるあの歩き方、携帯電話で話しているあの口の端、昔見たことある形、尖らせた唇見たことある、見たことあるな、スイーツバイキング? 焼肉食べ放題? 合コンだった? 何? 何つながり? あと二十歩、すれ違う、思い出していい話? なんて言ってる口の端? ウケるんですけど、ウケるんですけど、ウケるんですけど、って言っている。なんだっけ、あの口の端、あと十歩、見たことある、人を馬鹿にしたような口の端、見たことある、だから、
「ウケるんですけど、ってかマジありえなくない? ナニ人の彼氏に色目使ってんの、はぁ、マジありえないし、マジ最悪、バイトでいっつも一人でニヤニヤしてるから友達もいないんだろうと思って引き合わせたのが馬鹿だったわ。そもそも何、その恰好、人の彼氏と会うときの服装じゃなくない? 何? グラビアアイドルでも気取ってん
「バーダー!!!」

 ウケるんですけど、と言いながら私は到底面白い気持ちではなかった。電話口で頭の悪い彼氏と話をしながら、頭では別のことを考えていた。ずっと前バイト先にいた、いつも一人でニヤニヤしている女性のことだった。勤務態度はとても良好だったのだが、友達がいる様子でもないのに、いつも一人で笑っているのがとても気になった。それである日、善意か自慢か、私の頭の悪い彼氏と、確かマクドナルドに行ったのだ。私はそこで目のやり場に困る、少し前衛的過ぎるファッションに身を包んだ彼女に眉をひそめることになった。頭の悪い私の彼氏はそこに前衛性以上のものを見出し、前傾性をも示し始めていた。私はできたばかりの彼氏を盗られるとでも思ったのだろう、相当彼女のことを口汚くののしってしまったと思う。その後しばらくして彼女はバイトに現れなくなったが、機会があれば一度ちゃんと謝りたいと思っていた。最近はそのことがまた気になりだして、三日に一度くらいそんなことを考えていたら、十歩前ほどに見覚えのあるニヤニヤ顔があって、声をかけようとしたところ奇声をあげられた。彼女もたぶん別なことを言おうとしていたんだと思う。びっくりするもの、そりゃ。私だって頭の悪い彼氏が「今度どんなパンツ買うの」とか言ってるのを聞き流しながらだから、びっくりした、ってことを伝えようとしたけど、うまく言えなかったよ
「ビッター!!!」


#3

ごう

 ごう、と叩きつけるような風が鼓膜を貫いてきた。
 漢字で表記するならば轟であろうか、剛であろうか、豪であろうか。
 見つけた洞穴は狭く、浅かった。ほんの数歩も外へ足を伸ばしたなら、強たる風に吹き飛ばされてしまうだろう。

 死んだように眠る傍らの大神に目をやり、まぶたを閉じる。
 自分はどうしてこんなところにいるのか? いつまでここにいるべきなのか? どうしてこんなに馴染むのか? 生きて帰れるのだろうか? 生きて帰りたいのだろうか? とりとめのない考えがぐるぐる回る。

 深く沈んだ精神の奈落の底。ここはまるで檻だと捉えた。とすれば、先ほどから襲いかかる拷問の如き風音は、拷の字を当てはめるのが正しいか。
 洞穴に逃れ幾日が過ぎただろう。食糧は尽き、体力は削られ、大神のように動けなくなる時も近い気がした。

 気晴らし。そんなつもりだったように思う。同期入社である大神を誘ったのは。
 冬山の登山ということに最初は難色を示した大神だったが、出世で遅れをとる自分を勇気づけようとでも考えたのか、今となっては同行した理由は分からない。もしかしたら涼子を、自分の想い人である涼子を掠め取ったという意識からの、贖罪であったかもしれない。
笑える話だ。それほど恨んではいないのに。涼子が大神の方を選んだだけなのだから。
 頭脳明晰で上司の覚えも良い大神と、元気の無い子羊のようだと揶揄される自分では、最初から勝負になんてなりはしない。そんなことは考えるまでもない自明の理というもの。ただ、胸の内に何やら黒いモノは残った。それが何であるのか、それだけは知りたいと思った。

 風は止んでいた。いつの間にか流れを感じなくなった。おかしなことに音だけは耳に届いていた。ごう、ごう、と。
 身も心も枯れているはずの自分の中で、大きく、重く、じっくりと腰をすえて居座るように、ごうが広がっていく。
 唐突に、死にたくないと体が悲鳴を上げた気がした。朽ちてもいいという意思に反するように手が動く。腕が伸びた。荷物の中から取り出したのはサバイバル用の登山ナイフ。大神に目を向けた。

 生きるためには、とか。生きてどうする、とか。何も考えなかった。ああ、何も考えなかったさ。
 ごう、というモノだけが体から溢れ出し、まとわりついて体を動かしていく。ただ、そんなふうに感じた。


#4

阿倍朋学園と南芝

2017年4月、開校した阿倍朋学園は今年50周年を迎える。第3次、第4次世界大戦と称する戦火がが世界中を陥れたが、日本列島は先制攻撃を加える防空システムが2030年に原発廃炉と交換に蘇った電機メーカー南芝が世界に先駆けた防空システムにより、一度もミサイル攻撃を受けずに、狂犬の北朝鮮のミサイル発射基地を壊滅させて東アジアの平和が保たれているといった皮肉が50周年を迎えた阿倍朋学園の思想教育に啓発された生徒が、防衛軍大将を歴任し時には間抜けな政治家と対峙し、都合の悪いことは隠ぺいし、凄まじい武器メーカーとの癒着を繰り返し、しかも国民も政治家も役人も、全く知らないところで暗躍し、自国で守るスーパー防衛網を完成させてしまったのである。そして、世界中に戦略拠点を設置し、このシステムで貿易黒字を2040年から武器輸出により増大させ、1990年代のバブルに匹敵する好景気をもたらした。この原発廃炉を使命とした南芝は原子力から武器開発の平和貢献を成し遂げたのである。日本にとって親分の存在のアメリカ合衆国は間抜けな大統領のおかげで、バブル時と同様にアメリカの富を分配し、日本の影響が都市部、地方に社会環境インフラに特化したありとあらゆる行政サービスに浸透し、欧州もEU中心にかなりのシェアーを日本企業が占めることになった。アジアでも国力の暴走、衰退を繰り返した中国も、アメリカ同様に日本企業に席巻され、日本の思想も美化され、羨望の国となって、君臨したのであった。また、中東諸国、中でもイランを中心とした、中央アジアは天然資源を独自に開発し世界中に供給し、かつての産油国とは違ったエネルギー供給システムを構築し、エネルギー消費国との関係をより良いものにした。つまり、2010年代、悪評だったイスラム国のような異端な考えを持った者がこの50年で無意味な思想集団として、自然消滅したのであった。つまり、50年の間に、世界中の不条理が正しい方向に導かれ、我々日本民族として紀元2700年を迎えてから、完全V字回復し、暗黒時代から抜け出したのも、大赤字企業の復活からといっても過言ではない。1メーカーとして、取り返しのつかない大失敗のあと、奇跡の復活の神話が生まれたと揶揄されてやはり神の国と50年前の幼稚園児の阿倍首相がんばれ!が聞こえて、南芝がんばれと耳鳴りのように思想教育に通じていたのだと証明されたのである。


#5

送別会

 参加してしまえば、行きたくなかったことも忘れてしまう。
 日置さんがわたしを好きだと言って身を乗り出しても、頭の中が渦を巻くのみで、随分と落ち着かなくなってしまうだけだ。好きだと言ったのは酔った勢いなのか。
「もう!」
「もう!」
 冷やかすように言葉を繰り返した近藤さんの口から溢れ出た煙草の煙が近藤さんの顔を包むように溶けていく。
 ケラケラ笑う二人。やめてくださいよ、とも言えず。二人から視線をはずすだけのわたし。

「女だから煙草やめろって言うの? ただでさえ吸う場所奪われてんのにさ」
 掘りごたつの向かいの日置さん。その右隣には近藤さん。男まさりの日置さんが近藤さんの前に瓶を差し出し、早く飲んじゃいなさいと瓶の口を上下に動かす。はいはい分かりました。無言の圧力に負けました。降参です。
「アルハラですよ」
 近藤さんは煙草をもみ消す。
「かわいがった後輩と飲みたいだけじゃない」
 互いのやりとりは良くあるいつもの光景だ。だから、他のメンバーは気にも留めない。ランチメニューの電光掲示板のよう。不思議な位置にある点滅を見過ごすように、おのおのがそれぞれ別々の話題で盛り上がっているだけなのだ。

 近藤さんにビールを注いだ日置さんは、わたしにもビールを促して、半端な量のビールを自身のグラスに自ら注ぐ。それから、吸い殻を積み上げた灰皿を交換する日置さん。煙草に火をつける近藤さん。空瓶と一緒に灰皿を片付ける日置さん。見習おうかな。灰皿に灰皿を重ねて交換するってことを知ったのはいつであったか。
 目に留まる場所に置いても見て見ぬふりをする店員。
 ここからそんなに時間の経たないうちに日置さんは声を上げるはず。すいませんって。ビール二本追加でって。灰皿もお願いしますって。これ、片付けてくださいって。予言ではない。いつものタイミングで言うのだ。

「取り込まれんように気をつけんとあかんな」
 名言? 意味深なことを言う近藤さんに向かって、そんなに浮気者でもないんですが、と言ってみる。
「ほかいってもがんばれってことだよ」

 その後、日置さんはビールを追加注文する。灰皿を持っていかない店員に少し小言も言って。そのタイミングでわたしは足のニオイを気にしつつ、左手中指のささくれをかみちぎる。かみちぎったささくれからは小さく血がにじむ。日置さんと近藤さんのやり取りに聞き入ったふりをして、わたしはその指をおしぼりにあてた。


#6

神の在る国の物語

 日の昇る国があるという。日の沈む国があるという。ふたつの国は同じものとも思えるし、違う国だとも言われている。時間自体は流れているが、空の景色は一向に変わることがない。そういう国なのだ。
 日の昇る国に住んでいる人がいる。日の沈む国に住んでいる人がいる。ふたりの人は同時に存在するが、出会うことはない。同じ時間を過ごしているが、それぞれが変わらぬ姿勢をとり続けたまま、少したりとも動くことがない。そういう人たちなのだ。
 日の昇る国の神がいる。日の沈む国の神がいる。この神がひと柱なのか神々なのか、判じる術はない。人にはその姿を見ることがかなわず、ただ祈ることしか許されていないからだ。人は動かぬ姿勢のまま、一心に神へ祈りを捧げ、この国が永遠に続くことを願い続ける。
 神は人の願いを聞き届ける。国はそこに在り続ける。人もそこに居続ける。そして交わることはない。
 時間は進み続ける。
 あるとき、人は疲れ果てる。そして、祈ることをやめる。ふたりの人は小さな荷物を作り、ずっと暮らし続けていた小屋をあとにして旅に出る。日の沈む国があるという。日の昇る国があるという。永遠の眠りにつく前に、ひと目その国の姿を拝みたいと。
 老いたふたりは杖に縋って歩き続ける。空の景色は一向に変わることがない。日の昇る橙色の空が広がり、日の沈む蒼色の空が広がる。それぞれの空は天上に向かって少しずつその色を変え、天頂には水色の空が見える。あの空の下にまで辿り着くことができれば、おそらく今まで見たことのない国が見えるのだろう。ふたりはそう考え、痛む足を引きずりながら歩いていく。
 やがて、空の色が変わり始める。それまで現れたことのない暗雲が空を覆い始め、やがてすっかり空を閉ざしてしまう。そして、灰色の雨が降り始める。
 人が祈ることをやめたので、神が死んだのだ。潰えた神が欠片となって降り続く雨のなかを、人は楽園を求めて歩き続ける。


#7

そうじゃくなて

一見すると何もない部屋がこの家にはいくつかある。
まず、客間。だからもともとそんなに物は多くなかったと記憶している。
次にお義母さんの使っていた部屋。この部屋本当に何もない。押入れもいつも扉は開け放たれている。
他は1階にある収納スペース。ここはジャングルか? ってくらいものが入っていたのに、今は何もないガランとした空間になっている。
どの部屋も1階にある部屋ばかりだ。
この家の1階がやたら物が少ないのは、お義母さんが亡くなって、キミが全部処分しちゃったからだ。あれもこれもと捨ててしまった理由はボクにはわからないけど、思い出したくないのか、思い出として自分の中にだけしまっておきたいのか、見事なまでにお義母さんとの記憶を一掃してある。

ちなみに、ボクもキミもミニマリストってわけではない。その証拠と言うわけじゃないけど、2階は恐ろしく物が多い。
特にキミは仕事柄たくさんの本を読むから、キミの部屋は所狭しと本が詰まっているし、2階の収納スペースも本が詰まっている。
2階の収納スペースにはキミの本以外に、唯一お義母さんの形見である婚礼箪笥が3本しまってある。
これはボクがお願いして残してもらったものだ。
キミの着物をしまうためにはどうしても箪笥は必要だから、せめて半分の2本だけでも残しておいてよ、とお願いしたら、かなり悩んだ末に3本残った。

ある日掃除しているときに思った。この家、重量バランスが悪いんじゃないかって。
だって、キミの部屋は仏間のある部屋の上だし、ボクの部屋はお義母さんの部屋の上だ。
婚礼箪笥も2階に3本しまってある。なにより、紙の重量が半端ない。
「上の方が確実に重たいよね」
ボクは持っていた掃除機を止めて、天井を見上げた。傾いたりはしていないのだろうか?
実はちょっと捩れているとかだとどうしよう。もうこの家そのものがお義母さんとの思い出なのに。
この冬、雪はちゃんと両側に落ちていただろうか? どちらか一方にしか落ちていないとか?
う〜ん、と思い出しているところにキミがきた。
「どうしたの?」って聞くから、なんとなく2階が重たいから不安になって、って答えたら、「じゃあ、空部屋に天井までの壁を十字に作ってもらおうか?」って返ってきた。
え? と聞き返したボクに、そうしたら、重さも分散されてそんな心配なくない? ってまじめそうに言ったキミになんだかボクはどっと疲れた。


#8

リンク切れ

「夢を見ていた」
「違う」父が言う。「夢を見たという記憶を植えつけられた」
「どう違うの」
 坂の上の廃墟から街を見渡す。薄青い靄が地面を這い、黄金色の朝焼けが傾いた塔の先端を温める。大通りは少しずつ照らし出され、その上にビルの影が長く伸びている。
「箱を持っていた。とても綺麗な箱なんだ。青い石が渦巻き模様に埋めこまれていて」
 鳥たちが鳴いて、それで? と続きを促した。
「箱を開けると中には、赤い宝石とか、金の星形とか、緑の骨とか、誰かの横顔が表紙に描かれた小さな本、消えたり現れたりを繰り返す布なんかが入っていた」
 どこかで犬が吠えて、それから? と続きを促した。
「それから、穴みたいに黒い角砂糖がいくつか」
「それはリンク切れだよ」と父が言う。
「リンク?」
「オブジェクトを引用していたんだろう。ネットワークが切断されて置き換えられたんだ」
 鳥は黙り、犬も黙り、私も口を閉じた。風の吹きすさぶ音だけがフィルタ越しに聞こえる。
「かつて、ものを手元に集めて持っておく文化があった。美しいもの、貴重なもの、思い出深いものを」
「持っておいてどうするの」
「持っておくだけさ。たまに見返したりする。それらが自己を構成する要素だと信じていたのかもしれない」
「自分じゃないのに?」
 廃墟から出る。大昔に飛び散ったままの硝子の破片を、シェル・スーツの分厚い靴底でざりざりと踏みしめる。
「箱の持ち主はリンク切れになることを知っていたのかな」
「もちろん。遅かれ早かれ、皆いつかなくなる。だから集めるという考え方もある」
「そんな理由は嫌だな」
「集めたいものがあるのかい?」
 東から明けていく空は視界に収まりきらないくらい広い。浮かぶ雲を捕まえることはできない。風は遠くまで速く走っていける。石はたくさんのことを知っている。
 私はかぶりを振る。ほしいものはひとつだけだ。ずっと前から決まっている。
 それは違う、と奥底から声が囁く。植えつけられた記憶。私も切れたリンクなのでは? 黒い角砂糖が積み重なって殻の内側を蝕んでいく。
 そうだとしても、何がどう違うのだろう。
 メットに朝陽の指が射しこみ、目を細める間もなく光量が調節された。ほの暗い予感にふたをして訊ねる。
「父さんは何を集めていたの?」
 返事はない。あたりはすっかり明るく照らされ、見渡す限りのリンク切れが広がっている。私は見えない箱を抱え、黙って歩き始める。夢を見ている。


#9

部屋

 王様になって欲しい、とその男は私に言った。
 必要なときに王様の椅子に座っているだけでよく、あとは飲んだり食べたり、自宅に帰ったりしてもよいと。
「それから毎月、手取りで12万円の給料が支給されます。安いかもしれませんが、宮殿に寝泊まりすれば生活費もかかりません」
 宮殿で侍従長をしているというその男に、あなたは毎月いくら貰ってるんですかと質問すると、上手く話をそらされた。
「まあ、欲しいものがあれば宮殿の経費でも買えますし。土地や高級車みたいなものは無理ですが、ちょっとした洋服とか家電ならOKです」

 私は住んでいたアパートを引き払って宮殿に引っ越した。家賃や光熱費なんかを支払うと、給料の半分以上が飛んでいくからである。宮殿内で私に与えられた部屋は、8畳間にキッチンや風呂、トイレが付いた間取りであり、それまで住んでいたアパートよりは多少広かった。私は妹と二人で暮らしていたので、二部屋もらえるように希望したのだが、今は空いてる部屋はここしかないと言われた。
「高校までは少し遠くなったけど、いい部屋だと思うわ。前みたいに、部屋の真ん中をカーテンで仕切ればいいし」
 でも、妹は一応部外者扱いなので、妹の食費分として3万円が給料から天引きされることになった。

 妹は、昼間は学校へ通い、帰宅後は宮殿で小間使いのようなアルバイトをしていた。月に3万円ほどバイト代が出ていたようだが、それを食費として召し上げるのはさすがに気が引けた。それに妹は、アルバイトをすることで宮殿の人たちとも仲良くなったようだし、小間使いのかわいい衣装も気に入っているようだった。

 私が王様になってから数年後、妹は高校を卒業し、小間使いとして正式に宮殿で働いていた。8畳間の部屋は相変わらず二人で使っていたが、妹も仕事が忙しくなったせいか、二人で一緒に過ごす時間も少なくなっていた。いずれ妹にも部屋が与えられ、私一人でこの部屋を使えるようになる日も来るのだろうが、それはそれで少し寂しいと思った。

 妹が宮殿から消えたのは、そんなことを考えていた矢先である。
 一緒に消えたのは、あの侍従長の男だった。

 他の侍従たちに話を聞くと、侍従長には妻子がいるので、妹と二人で駆け落ちでもしたのだろうと。
 それで、私も王様としての、または兄としての責任を取らなければならないことになり、その妻子は今、私の8畳間の、カーテンの向こうで暮らしている。


#10

夜桜

私は、モルトバーでグレンロセスをロックで呑んでいた。べつにグレンロセスじゃなくたってよかったのかもしれない。はずれることがない定番マッカランでも、或いはバーボンのロックを飲んでいても、いいのかもしれなかった。私はそんなに酒の味がわかる人間ではないのだから。

でもそれでも、私はこの席でグレンロセスを注文していて、グレンロセスをおいているモルトバーというのはそれほど多いわけでもなく、バーテンは私にスペイサイドのモルトウイスキーはやっぱりうまいですよね、と語りはじめ、そのバーテンはロセス川のほとりを歩いたことがあるそうで、しばし彼の旅の話をぼんやりときいている時間もまた、グレンロセスの味なのだった。

隣にすわった初老の男性もグレンリベットを飲んでいて、「私もウイスキーの難しい話はよくわからないのですがうまいものはうまいですね」と話しかけてきて、私も「そうですね、うまいものはうまいです」と応答してウイスキーに、シングルモルトに、乾杯した。

初老の男性は喫茶店の店主らしい。

「ウイスキーは、うまいものはうまい。でも珈琲はちがうんですよ。品評会で一番になった豆を買ったとする。でもその豆をどの焼き加減で焙煎するか。そこでまず味がかわる。その焼いた豆をどの器具でどういうふうにいれるか。同じ農園の珈琲であっても、飲み手の元に届くまでにたくさんの人の手を介していく。珈琲における最高の一杯、それは瞬間にしか存在しないんです」

男性はそういって、グレンリベットをグイっと呑んだ。

「不思議ですなあ。美術、アート、小説、芸術。そういった美をテーマにしたものが作品として残っていくのに、美味しい珈琲、これは残ることがない。最高の一杯も、瞬間のものであって、のこっていかないのだから」

私はこの男性の語る珈琲哲学がきらいではなかった。そして我々は黙って互いに好む酒を飲み続けた。

グレンロセスを私に教えてくれたのは昔の恋人である。彼女は私のことをとにかく「あなたは最高」と褒めてくれたものだった。そして、誰もが羨むほどに美しい瞳とくびれた肢体の持ち主だった。

「ウイスキーの美味さはどこで呑んでも不変だけども、ウイスキーにまつわる美の記憶は、なんというか、はかないね。今日、私はいい気分だけど、これも瞬間なんじゃないかな」

私は生きる哀しみを思い、それはそのまま生きる喜びでもあって、なんとなしに夜桜をみたい気分となったのだった。


編集: 短編