第175期 #3

ごう

 ごう、と叩きつけるような風が鼓膜を貫いてきた。
 漢字で表記するならば轟であろうか、剛であろうか、豪であろうか。
 見つけた洞穴は狭く、浅かった。ほんの数歩も外へ足を伸ばしたなら、強たる風に吹き飛ばされてしまうだろう。

 死んだように眠る傍らの大神に目をやり、まぶたを閉じる。
 自分はどうしてこんなところにいるのか? いつまでここにいるべきなのか? どうしてこんなに馴染むのか? 生きて帰れるのだろうか? 生きて帰りたいのだろうか? とりとめのない考えがぐるぐる回る。

 深く沈んだ精神の奈落の底。ここはまるで檻だと捉えた。とすれば、先ほどから襲いかかる拷問の如き風音は、拷の字を当てはめるのが正しいか。
 洞穴に逃れ幾日が過ぎただろう。食糧は尽き、体力は削られ、大神のように動けなくなる時も近い気がした。

 気晴らし。そんなつもりだったように思う。同期入社である大神を誘ったのは。
 冬山の登山ということに最初は難色を示した大神だったが、出世で遅れをとる自分を勇気づけようとでも考えたのか、今となっては同行した理由は分からない。もしかしたら涼子を、自分の想い人である涼子を掠め取ったという意識からの、贖罪であったかもしれない。
笑える話だ。それほど恨んではいないのに。涼子が大神の方を選んだだけなのだから。
 頭脳明晰で上司の覚えも良い大神と、元気の無い子羊のようだと揶揄される自分では、最初から勝負になんてなりはしない。そんなことは考えるまでもない自明の理というもの。ただ、胸の内に何やら黒いモノは残った。それが何であるのか、それだけは知りたいと思った。

 風は止んでいた。いつの間にか流れを感じなくなった。おかしなことに音だけは耳に届いていた。ごう、ごう、と。
 身も心も枯れているはずの自分の中で、大きく、重く、じっくりと腰をすえて居座るように、ごうが広がっていく。
 唐突に、死にたくないと体が悲鳴を上げた気がした。朽ちてもいいという意思に反するように手が動く。腕が伸びた。荷物の中から取り出したのはサバイバル用の登山ナイフ。大神に目を向けた。

 生きるためには、とか。生きてどうする、とか。何も考えなかった。ああ、何も考えなかったさ。
 ごう、というモノだけが体から溢れ出し、まとわりついて体を動かしていく。ただ、そんなふうに感じた。



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