第174期 #10

雨が降っていたから

あなたを別人にします、とAさんが書いていた広告に何気なく惹かれたのはその時期が春のはじまりで外は大雨が降っていて私はコーヒーショップにいたからかもしれない。

労働基準法を無視した過酷な肉体労働の日々の、やっとの休日の朝、私は一杯のコーヒーをすすりながら電話の画面をのぞきこみ、『別の人生』とうちこんでぼんやりしていたのだった。

大雨の中、窓の外で、オレンジ色の傘をさした女が歩いていた。ブルーのカーディガンとグリーンのスカーフの色彩の明るさが眩しくて、彼女のまわりだけ柔らかい光が包まれているようにみえて、そのとき私が電話の画面に視線をもどしたとき『あなたを別人にします』の広告を無意識にさわっていたのだった。

毎月5000円。Aさんの性別も年齢も不明である。私が『こんなふうになりたい』と希望すれば、そうなれるようなトレーニング内容が電話におくられてくる。

『なりたい自分。暮らしたい生活。そういったことを具体的に記述しておくってください。それからあなたの収入、家賃、食費、一日に使える金額を教えてください』

私は最初の指令に対して忠実に返信をした。

『過酷な肉体労働生活から毎日を貴族のように海辺のレストランですごし、存在そのものが明るくて眩しい妖精みたいな女友達と戯れつつ、なにか世の中に大きな影響力をもっているような人間にかわりたい』

つづいて収入や家賃を書いた。正直恥ずかしさをおぼえた。こんな金額しか稼げない人間に変身願望をもつ権利があるのだろうか?

それに対して送られてきた返信が以下である。

『ちかいうちに家賃1万5000円の部屋に移りましょう。部屋というより小屋でかまいません。風呂は沸かした湯でタオルをつかえばいい。食事は基本ごはんと味噌汁とビタミン剤です。職場に古い新聞はありますか?それをもらってください。そして目覚めたら腹筋をする習慣、その回数を記録しておくってください』

さて、私とAさんの共同作業はこうして何ヶ月もすぎていった。依然私は過酷な肉体労働者であり、海辺で柔らかな光を放つ美女と戯れる余裕もない。だが、腹筋をつづけたせいで身体が強くなった。朝は5時には目覚める。家賃が安くなったのでコーヒーショップには毎日いける。職場で捨てる数日前の新聞を読む。世界が少し近くかんじる。世の中に大きな影響力は持っていない。だが、今の仕事の小さな影響力のことも悪くない、そう思えるようになってきた。



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編