第173期 #5

夢燐

 はき溜めの中にいた。気づけば。
 気づけば、だ。ここが重要。
 とにかく緊急を要するのは、火花をぼんやり見つめておくことだ。そして、薄ぎたなく着色されたアンモニアの臭いと、ラベンダーをつまんだ時に香る、特有の紫が、鼻の上の辺りに漂っているので、わざわざ知覚する必要はない。あと、S硫黄、いや、違う、二酸化マグナムの芳香。
 何だよ二酸化マグナムって。二酸化マンガンだろ、正しくは。
「ちょっと、深刻かもしれないですね」
「深刻って」
「思考を一発で言葉に熾せないというのは、人間の知能にとっては致命的なものなんです」
 特に作家にとってはね、と、禿げ頭の医師が続ける。
 へえ、そうなんですね。
 これに対して、男はきわめて無感情な返答を用意していたはずだった。はずだったのだが、それよりも上手い返しを思いついたのだ。『へえ、そうなんですね』よりもだ。男は、言葉が崩れないように、十分な思惟を用いて語彙を練りつつ、有機的に動く唇を演出する。
「あ、そういえば、質問があるんですけど」
「なんだその『あ』は。後に続く『そういえば』というのもひどく安直だ。私を誰だと思っている。そんな短絡な言葉を投げかけるな。やり直しだ、やり直し」
 いけない。不機嫌にさせてしまった。
「すみません、お父さん」
 頭まで下げて謝っているつもりなのだが、目の前のオジサンは、組んだ腕を解いてくれない。許そうという気がまったく無いらしい。
 仕方がないので、大理石の地味な戸を開け、あまり好きではないスーパーマーケットに出ることにした。
無用に白い空間。ニス、ゴム、クレマリン。違う、ビニル系の……リノリウムだよ、リノリウム。知らないぞ、クレマリンなんて。おい、逃げていったじゃないか、おばさんが、あの、買い物かごを押して。雰囲気で適当なこと言うからだ。
「大丈夫か!あんた……はやく逃げなさい」
 黄金鏡の社員ですね、あんたは。社内制服がダサいことで有名な化粧品メーカー。この前はごま油を買わせてもらったけど、まだ家で埃被ってるよ。
「そんなあ……」
 ちょっとあんた、露骨すぎやしないか、あまりにも。俺はこれからドライブなんだ。いつもの仲間と。夜空を見ながら、コンクリートの上を走るんだ。いかしてるだろ。
 しかし、まだそんな時間ではないな。太陽の光か、この眩しいのは。
 ポリゴン数が少なそうな芝生の上で、僕は河川敷を登る。
 己の思惟を、青空に溶かしながら。



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