第172期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 思垢 しょうろ 964
2 森吉郎は、かく語りき Gene Yosh(吉田仁) 1000
3 役目 かんざしトイレ 1000
4 モノを言うコトはあり得るのか 岩西 健治 869
5 朱花 ruin 685
6 あなたの愛するわたし たなかなつみ 678
7 あいの、アイノぅ テックスロー 890
8 euReka 1000
9 思い出とは わがまま娘 999
10 ウイウイウイスキー 宇加谷 研一郎 1000
11 ガンジー搦め なゆら 857
12 妹の手前 qbc 1000

#1

思垢

 青い服を着た少年が、家の前の細い路で凹んだサッカーボールを転がしている。
 その三軒隣の居酒屋は、まだ営業時間になっていないので色あせた廃墟のように見える。
 その3 km 向こうの運動公園では、セーラー服を着た女子中学生が年上の男に見守られながらキャッチボールをしている。
 そこから3駅分北に行くと、袖にくっついた長く細い髪の毛をつまんで捨てる、私の姿がある。多分これは女の髪の毛だ。いつ引っかかったのだろうか。考えても分かることはないが、思考とはそう簡単に止まったり進んだりするものではない。今はただ無意味に歩を進めるばかりである。

 コンビニで一番安いサンドイッチを買って、地下の駐輪場に出向いた。少し埃っぽくなる。
 空間が暗くなっていく。
 無数の自転車がぎっしりと並び送迎する花道は、中途半端な照明と相まって蠢いているように錯覚しかける。
 鞄の中の小銭入れを取り出しかけ、手を突っ込んだまま歩いていた。金銭を、外気に晒さないように。ひしめき合う鉄とアルミから守るように。
 しっかりと握る。

 自転車を押して受付へ歩いている時、大陸を3つ越えたところの出来事を想っていた。
 シカゴ大学にある終末時計は、あと3分のところで針を止めている。しかし、私たちは何をもって世界が終末を迎えるかを知らない。違う、知ることができない…いや、それはそれで。
 認められないのだ。
 たとえどんな答えが与えられたとしても、全て判るようにはできていない。
 種々の啓発本などを読んで、得体の知れない万能感を手に入れたフリーターも。
 経営が芳しくなくなってきた、居酒屋の店長も。
 介護センターで腰が弱くなった、壮年期の婦人も。
 彼等の前にこんな理不尽な時計を置いたら、一体どんな反応をするのか。
 きっと逆上し、その短針を掴んで引っ掻き回すだろう。そして時刻を弄くられた世界は、張りぼての平和を誇示し、各地の闇市は一層拡大を広げ、多くの投資家は家を無くし、北海ではクジラの鳴き声が響き渡り、そこから南南西に222km進んだ地点にいる私は、今日の夕飯をどうするか考えあぐねるのだ。豆腐、ひき肉はある。豆板醤が無かったから、帰りに買っておく。今夜は麻婆豆腐。今から帰路につく。

 日が落ちた。空間が暗くなる。
 時は蠢いている。


#2

森吉郎は、かく語りき

森吉郎と会ったのは2004年アテネオリンピックの関連イベントに来賓として出席されていた。世界の著名演出家が舞台のオリンピックを野外の円形劇場を舞台に競い合うという五輪関連行事で来賓として初日公演の後、懇親会を劇場近くのレストランで開き同席したのだった。文化芸術、スポーツに造詣の深い吉郎君はどこにでも顔を出す、頼まれると断らない。大して意味のないことを熱弁したり、大事な公務とプライベートの弁えが無く、何を優先するか判断ができない。この人何代か前の総理大臣であったことは、親友をブレーンにして公私混同を繰り返したどちらかの大統領のように、ハワイ沖で米国潜水艦が衝突事故を起こした件の対応のまずさから内閣支持率が10%以下になって辞職したことを思い出した。今回阿部マリオ君がパールハーバーを慰問に訪れたが、あの時も吉郎君は事故現場には行っていない。カウボーイハットをかぶりクラブを刀に見かけゴルフ場を歩く姿は当時の写真週刊誌に格好の被写体として撮られるも緊急事態にも高校生の事故だから軽く見ていたこともお隣の国の元首と同じであったことはやはり器が同じというか。
最近の五輪組織委員会での並外れたバランス感覚に驚愕するも、ご本人何が問題か理解せず、招致のお飾り座長の域を越えられず、組織委員会がのまま3年後、本番を迎えるまでに、誰かがご教示いただかないとこの救えようがない馬鹿が大会を大失敗に終わらせるのではないか。立場を理解しようとしない馬鹿は早く退陣戴いた方が良いのでは。失敗をしても認めない救いようのない態度は実務執行のための自己犠牲が実行できない、理解できていないために発生する大失態を犯し、世界に恥をさらす前に、お飾りで無能ぶりを発揮することで負のレガシーになることを理解しないといけません。組織委員会は資金集めから施設建設、運用から大会後の用途まですべてをチェックして、最終収支をはじき出す能力が持ち合わせている人物が組織委員長です。吉郎君は三流政治家の古典的に何もしないが、指示もできないパターンの人種ですが、話を聞いても皮肉、おちゃらけで部下も指導出来ず、利権がらみの業者におだてられて生きる利権モンスター役は得意中の得意ですが、モンスターを退治する地球防衛軍の司令官にはなれないタイプです。誰かこの人間に今の役目を教えてやってくれ、既にコントロール不能とIOCに乗り込まれているのだから。


#3

役目

 何かの映画で何かの小動物が次々と群がっていく場面。あれを思い出した。ほとんどさびれた郊外の遊園地だ。普段は全然お客もいないだろうに、なんでまた今日に限ってこんなに人が多いのだろう。
 もちろんそれには理由がある。CMを打っていたからだ。おれも無意識のうちにその情報をすりこまれていたのだろう。操られているとも知らずに、ふと、そうだ、遊園地にでも行ってみるのも面白いかもしれない、などと思って、のこのこと出掛けてきたのだ。
 一人で来る時代遅れな遊園地。わびしさの中にも情緒があると、分かったようなことを思うためにやってきたのに、この混み具合はどうだろう。渋谷のスクランブル交差点か、中国の流れるプールか。手すりという手すりにびっしりと腰掛ける奇妙な生き物たち。そして迷子にならないように手を引いているこの子はすでに迷子。
「名前は?」
「まいこ」
 七五三のようにしか見えないが、白塗りの首元は美しいと言えなくもない。こんな年端もいかない子が舞妓では何かの法律に引っかかるに違いない。いやそれどころではない。もうすでにして、こんな風体のおれが女の子の手を引いているこの状態がそれだけでよろしくない。トイレにだって行きたいが、尿を出したらおしまいだ。
 どこに行けばいいだろう。とにかく人の少ない方に行きたかったのだが、ぶつかり、ひねられ、ねじまげられ、人ごみに流されて、やがて海に流れ着くよりなさそうだった。
 すり鉢の底にベトリとたまった山芋みたいな人の群れ。コロシアムみたいな施設の真ん中あたりは人よけがしてあって、ステージなのか、リングなのか、土俵ではあるまいが、主役の登場を待つ舞台になって皆の注目を集めていた。
「わたしは行かねばなりません」
 子供らしくない声色に驚いて振り向くと、その拍子に手を振りほどいて、まいこはワイヤーアクションみたいに宙へ飛び上がった。そしてそのまま前方のステージへ、スポットライトの中央へドローンみたいに飛んでいった。
 大歓声が上がった。おれもつられて興奮してわけのわからない大声を出していた。いつかどこかで見たものが、いくつも寄せ集められて今のこの状況を作り出している。もしかしたらあの子は女子レスリングの金メダリストだったかもしれない。おれは立派に役目を果たした。
 観覧車に布団を持ち込んで寝酒。見上げれば夜空の星。見下ろせば街の灯り。天をめぐる月の運行のように密やかに。


#4

モノを言うコトはあり得るのか

19230901(関東大震災)
(中略)
19950117(阪神・淡路大震災)
(中略)
20110309
20110310
20110311(東日本大震災)
20110312
20110313
20110314
20110315
20110316
20110319
20110322
20110323
20110324
20110325
20110328
20110329
20110331
20110407
20110411
20110412
20110414
20110421
20110423
20110623
20110710
20110723
20110725
20110731
20110801
20110812
20110819
20111021
20111108
20111124
20120101
20120214
20120314
20120327
20120520
20120524
20120606
20120618
20120814
20121002
20121207
20130202
20130225
20130402
20130413
20130417
20130419
20130421
20130518
20130804
20130904
20131026
20131209
20140303
20140314
20140505
20140629
20140701
20140712
20140721
20140810
20140829
20141011
20141122
20141211
20150217
20150220
20150420
20150513
20150530
20150531
20150603
20150623
20150707
20151114
20151120
20160106
20160112
20160114
20160215
20160222
20160401
20160414
20160415
20160416(熊本地震)
20160531
20160624
20160805
20160820
20160826
20160921
20160923
20161020
20161021
20161122
20161228

20170420(東海地震)
20170421


#5

朱花

少女が泣いていました。
小さな丘の上で膝を抱えて泣いていました。
彼女の後ろには一人の少年が立っています。彼は身の置き場がない様に小さく揺れながら、その頬に困ったような笑みを浮かべています。
「…本当に、行くの?」
少女が尋ねます。
少年は何も言いません。
「行くのね?」
再び少女が尋ねます。やがて少年も小さく答えました。
「…うん、いくよ。」
春風が吹いてきて、彼女の髪を柔らかく揺らしました。少年が近づいてきて、少女の肩を後ろから抱きました。
びくっ、と少女の肩が揺れます。
「僕だって行きたくない。」
少年はそれだけ呟くと、彼女の長い髪に、顔を埋めました。
丘から見渡せる飛行場からは、次々と物々しい機体が飛び立っていきます。
その様を見つめながら、少女は「一体いつ帰って来るの?」呟きました。
少年は黙って首を振りました。
「もうお別れなの?」
少女が顔を上げました。
「行っちゃヤダ…」
またもう一機、飛び立ちました。
昼の太陽は少しづつ傾き、機体は青い空に吸い込まれていきます。
少年が少女から離れました。少女は動きません。
ただ別れの辛さに唇を噛んで俯きながら、小さく震えていました。
少年は乱暴に目元を拭いました。
「僕はもう行かなくちゃ。…じゃあね、僕のリコ。」
少年は丘を降りました。手を振る少女に手を振り返して、歩き始めました。飛行場に向かって。必ず戻ってくると、口に出せなかった決意を胸に秘めて。
そんな小さな彼を見送る少女は、いつまでも、いつまでも手を振っていました。

やがて少女は知りました。
彼がもう二度と戻ってこない事。「お国のため」に散った事。
そして少女は、一輪の朱い小さな花になりました。


#6

あなたの愛するわたし

 あなたはわたしの部屋のなかに入ってきて、涙ぐみながらぐるりとその内部を見回す。そして、わたしのベッドの隅に置いてあるぬいぐるみの頭を撫でて抱え上げ、愛しそうに抱きしめる。
 いいえ、それはわたしではないの。そのぬいぐるみは昔の男に買ってもらったもの。気に入っていたから別れたあともずっと可愛がっていたの。それはあなたがくれたものではないの。
 あなたはぬいぐるみを抱えたまま歩を進め、棚の上に置いてある写真立てを取り上げ、懐かしそうに眺めて優しく触れる。
 いいえ、それはわたしではないの。その海の写真は昔の男と一緒に行った先で撮影したもの。気に入っていたから別れたあともずっと飾っていたの。それはあなたと一緒に行った海ではないの。
 あなたはぬいぐるみと写真立てを大事そうに棚の上に置いて歩を進め、テーブルの上に置きっぱなしにしているマグカップを手に取り、泣きそうな笑みを浮かべてくちづけをする。
 いいえ、それはわたしではないの。そのマグカップは昔の男と一緒にセットで買ったもの。気に入っていたから別れたあともずっと使っていたの。片方のカップは男と別れたときに叩き割って捨てた。そのカップは男が使っていたものかもしれないの。
 そら、階段を上ってくる足音が聞こえる。部屋の扉が開いて、かれがわたしの部屋のなかへと入ってくる。あなたとかれとは涙を流しながらキスを交わして抱きしめあう。お互いがわたしの不在を慰め合うために存在していることを確かめあう。
 この日をずっと待っていたの。わたしがこの世から消えてしまう日を。ねえ、あなた。
 あなたが愛していたわたしは、誰。


#7

あいの、アイノぅ

 私は天使。ねえ、あなたが好き。だから牛乳をください。コップ一杯の、のどが渇いたので、ありがとう、唇を拭くタオルをください、ありがとう。羽根は後で見せます。だから少し待ってください。天使はめったに人前に姿を現さないので。羽衣? 天女のことでしょうか。勘違いしています。あれらは空に浮かびます。私たちは空を飛びます。天女は羽衣を脱いだら地に沈みます。天使は裸でも羽ばたくことができます。ロマンチックな話を聞かせてください。ありがとう。羽根は後で見せます。今はまだ湿っているのです。あなたにしてもらったそのお話ですが、どこかで同じような話を私も聞いたことがあります。待ち焦がれる話です。あなたのお話と、私の知っているお話では、ひとつ違う点がありました。何を待っているのか、あなたのお話ではそれは明日でした。私の場合は天国です。冗談だと思っていますか。私たち天使の間ではそれはとても果てしない匂いがするものです。天女は浮いたり沈んだりします。天使は飛んだり落ちたりするのです。私たちにとっても天国は日常ではないですし、ラッパを吹いたりもしないのです。
 お待ちかねのの羽根です。おかげですっかり乾きました、ありがとう。思ったより獣臭くないでしょう。当然です。鳥とは違います。あ。そういうの、全然くすぐったくありません。大丈夫です。帰りたそうにソワソワしません、お気遣いなく、ありがとう。私の名前をどこかで聞いたことがありますか。天使という以外に、私のことを何か知っていますか。名前はラブに似ている、そういわれることもあります。当ててみてみませんか。「あいの」そう、もう少し「アイノぅ」あ、全然違いました。ごめんなさい。

 私は天使。ねえ。あなたが好き。だからお金をください。もう雨は止んだので。ありがとう。羽根がまた汚れてしまったので、今日はもう飛べません。今日はもう歩いて帰るので。どこに帰るかですって? 冗談だと思っていますか。家にです。家に帰って、身体を洗うのです。羽根も洗うので、明日は晴れていても、飛ぶことはできません。太陽に背を向け、羽根を乾かし、自分の影を見ながら過ごします。


#8

 この街には巨大な塔が立っている。直径が一キロメートル、高さが十キロメートルもあるため近づくと壁にしか見えない。そして普通の塔と違って真っすぐに立っているわけではなく、地面に向かって弓なりにカーブしているため、遠くから眺めると今にも倒れそうに見える。ちょうど糸を垂らした釣り竿のように見えることから『巨人の釣り竿』と呼ばれることもあるが、もともとは空に向かって真っすぐに伸びていたものであり、それが数千年ほど前から傾きはじめて現在の状態に至ったのだという。専門家が構造を調べた結果、毎年ほんの少しずつ地面に向かって傾き続けてはいるものの、あと千年は何の問題もないという結論が出されている。
 とはいえ、塔がいつ倒れるか分からないという不安は街に暮らしている者なら誰でも抱く心理である。そのため、塔が倒れようとしている方向にある(つまり塔が倒れたときに潰されてしまうであろう)細長い形をしたエリアは、誰も好んで住みたいとは思わないため、昔は貧しい者が暮らす地域として知られていた。しかし、戦後の経済成長によって街全体が豊かになったことで問題のエリアに住む者が減ったため、現在ではその跡地に広大な公園が整備されている。
 その公園は、一番迫力のある方向から塔を眺められる場所ということで観光地になっており、私はその公園で観光客を相手にアイスクリーム売りをしている。公園には他にも玩具を売ったりビールを売ったりする者がいて、それぞれに自分の屋台を構えている。私が売っているアイスクリームはどこにでもあるような普通のものだが、特徴を出すために塔の形をまねた大き目のクッキーを突き刺している。そしてアイスクリームを手渡すとき「今日は暑いので、どうか塔が倒れないうちにお召し上がり下さい」という決め台詞を言うことにしているのだが、特に客から反応が返ってくることはない。隣でビール売りをしている女はそんな私の姿を見ながらよく笑っている。
「毎日笑わせてるんだから、たまにはビールでもおごってくれ」と私は言う。
「じゃあ、わたしはアイスクリームが欲しいわ」と女は言う。
 私たちはベンチに座って商品を交換する。
 私がビールを飲むと、女はアイスクリームに突き刺さったクッキーを地面に捨てる。
 クッキーに群がる鳩。
 空を昇る風船。
 私は女の顔にビールをぶちまけたあと、女に長いキスする。
 きっとそんな日に、塔は倒れる気がするのだ。


#9

思い出とは

業者が荷物を運び出したあとの文字通り何もない部屋を見ていっちゃんが言った。
「なんか、寂しいね」
「ま、なんだかんだ言ってここに3年も居たわけですから」
匂いというか、温もりというか、多分、そういうのをひっくるめて“思い出”って言うんだろう。
「ま、あっちでまた思い出を作ればいいじゃない」
オレは、クルッと回って玄関の扉に手をかける。
「これからも一緒なんだし、ここの荷物もあっちにあるわけだし」
扉を開けてオレは外に出た。「そうだね」ってなんだか泣きそうな顔をしていっちゃんがついて出てくる。
「なんかわかってんだけど」と言いながら、いっちゃんはガチャンと鍵を閉めた。

引っ越しの引き金は、いっちゃんのお父さんの訃報だった。
家族思いのいっちゃんが、実家に帰りたいと言い出すのは明白だった。だから、オレは先回りして引っ越し先を物色していた。
訃報から3ヵ月程経ったある日、いっちゃんは実家に帰ると言い出した。だから、オレは「一緒に行くよ」って。もう、いっちゃんのいない生活はオレにはないから。

新幹線で2時間半のいっちゃんの地元。
荷物は明日届くから、今夜は文字通り何もないマンションにいっちゃんとふたりで過ごす。
不動産屋で鍵を受け取って、新居に向かう。新居と言いつつ、中古マンションですがね。そう、賃貸じゃなくて購入したんだ。オレ、ここに骨を埋める覚悟だから。
いっちゃんが新居の鍵を開けて、扉を開いた。
「さむっ」
そんなに肌寒い季節でもないのに、扉を開けた瞬間にサッと冷たい風が流れ出てきたような気がした。
ヒトではない何か無機質な感じの匂いとひんやりとした空間。全然この空間がオレ達のこと歓迎してないような気がするのは何故?
中に入って適当にいっちゃんとふたり床に座ってコンビニで買ってきた食料を広げる。でも、全然温かくならなくて。
「いっちゃん……」
そっといっちゃんの体を引き寄せて、抱きしめる。
あぁ、いっちゃんがオレの匂い好きな気持ち、わかるかも。いっちゃんの匂い、安心する。
「零くん、どうしたの?」
オレを見上げるいっちゃんに「なんでもない」と言って、そのままふたりで倒れ込んだ。
「もう、寝よ」ってオレが言ったら、いっちゃんが「そうだね」って言った。
次の日、起こしてくれたのは引っ越し業者だった。

あれから半年。
この空間は、好きな匂いがするし、温かい。少しずつ思い出が詰まってきているってことなんだと思うある日の昼下がり。


#10

ウイウイウイスキー

ウイスキーと声をだしたときの、ウイで唇の動きを止めてみる。鏡でそのときの自分の顔をみてみよう。その表情こそ他人からみて一番好感度がもてるらしい。

洋介はそんなインターネットの情報にワラにすがる思いで飛びついて、そうして鏡にうつるウイの自分をみて、どこか過剰な笑顔だな、と思ったのだった。ところが、である。

翌朝、職場で洋介が過剰といわれることを承知で、ウイの顔をしてみたところ、「最近、ずっと不機嫌でしたよね。今日はようやく機嫌がなおったような顔しているのでー」と同僚の女性から声をかけられ、それまで目も合わせてくれなかった連中が、ごく普通な態度で洋介を迎え入れたのである。

それ以来、洋介はウイの仮面と自分の表情に名前をつけた。ウイの仮面を維持することは実はそれほど簡単なことではなくて、常にウイ、ウイ、ウイと心のなかで唱え続けていないと、すぐに表情がいつもの洋介に戻ってしまうのである。だから洋介は、仕事の時間になると、つねにウイウイ叫び続けているのであった。だから洋介はウイの仮面と名付けた自分の顔を鏡でみるたびに、どこか自分自身ではないような気がしているのである。

洋介は出世していった。それまで営業部の一員として生意気だ、謙虚になれ、と常に上司からもクライアントからも指摘されてきた洋介がウイの仮面を自分のものにして以来、みんなが洋介を慕うようになり、取引先との契約もどんどんまとまっていく。イケメンでもない普通のおっさんの彼がいつしか地方誌の一面を飾るようにまでなった。

晩婚ではあるが、家庭をもつまでになった洋介である。或る日、洋介は妻にだけ自分の仮面を脱いで、本当の洋介をみせることにした。俺はいいヤツなんかじゃないんだ、感じも悪いし、無表情だし。

そういって洋介はウイの表情をとろうとしたのだけれども、そのころになると洋介はもうウイウイ唱えていなくても、顔が自然に笑顔になっていて、昔の自分の表情ができなくなっていた。

「いまのあなたが本当の自分なのよ、洋介」

妻に言われて、洋介はハッとした。新しい自分になってみたくてつけたウイの仮面だが、そのウイの仮面だって本当の自分なのだ。人は変わることができるんだ。俺は変わったんだ。

はじめてウイと心で唱えてから10年だった。長いようで、つい先日のようにも思える10年だった。洋介は次の10年で何を変えてやろう、どんな本当の自分を探そう、と天井を見上げた。


#11

ガンジー搦め

ガンジーのくせに生意気だぞ。ガキ大将は言う。たしかにそうかもしれない。ぼくもそう思うけれど、ガンジーはガンジーとして凛として目をつむる。ほらガンジーが瞑想始めた、危険だ、ガンジーの瞑想は現実世界とリンクし、摩訶不思議な現象が手に取るように、そこにほら。そうなったら無敵、ガンジーは無敵状態になって走り回る。体当たりすればすなわちみんな吹き飛ばされていくんだから。ダンプカーみたいにガンジー、暴れ回る。ガンジーのくせに、今まさにこの言葉が通用するんじゃないかとぼくは思うが、ガキ大将は吹き飛ばされていない。地球の裏側にいるのだろう。ガンジーはぼんやりと、なにも読み取れない表情。ぼくはガンジーに向かって、フォークを投げる大魔神佐々木だ。守護神でなく大魔神。フォークの切れは、ティーンエイジャーの小便の切れのごとく、鋭い。ガンジーは空振り三振試合終了。ヒーローインタビューは大魔神。俺?いやそんなたいしたことしてないから、俺、特に聞かれることもないし、だからガンジーに聞いてやって。教典のこととか、思想のこととか、色々あるじゃない。世界をかえるかもしれないガンジーにインタビューすればいいじゃない。俺はしがない大魔神佐々木所詮、大リーガー。ガンジーにはかないません。ガンジーの飲みほぼしたコークをもらうだけの人生。年俸は10億、その半分を埋めておく。銀行なんて信用できん。埋めておけば芽が出て、伸びる。やがて花咲き、実をつける。金のなる木が出来上がる。それを売ればガンジーは、細い目をした乙女となりて、後ろ髪引かれる思いで駆ける。どこへ?ガンジー子はどこへ向かっているの?あたしはね、佐々木。佐々木じゃないです、もう俺は佐々木ではないのです。では誰ですか?ある概念です、佐々木と言う名の概念がしゃべっていて、そのうち黙るでしょう。そのころガンジー、あなたはその丸い眼鏡の奥にある、目は笑っていないから、油断できない。油断したら噛み付かれる。ガンジー、佐々木、いきます。どこに?ガンジーのエクスタシーへと。勝手にどうぞ。


#12

妹の手前

 両親違いの妹が、出社してもおはようと言ってくれない会社を嫌になって辞めた。
 三十間近の成人にとやかく言うまい。片言。
「生活」
「貯金を切り崩して」
 私は妹の引っ越しを手伝って、終えて、知らない町並みを散歩した。坂を下り、赤れんが色の、古めかしい図書館を見つけて入った。統計と音楽。書架をすりぬけたその先に、まだ誰にもふれられていない本を見つけた。文学。まだ日の光をあてられない。手ずれもページの端の折れ曲がりもない。
 男性の指先が、若い植物の蔓を乱暴になぞる描写から始まるその小説を、私は借りなかった。その本を手に取ったのは、妹の荷物にもその背表紙があったからだった。
 死んだ父親の墓守役を私に投げ渡して、私の母親は妹の父親と再婚した。勝手な女。妹の父親は父親で、会社勤めを始めたばかりの妹と自分の妻の世話を打ち切った。そして年を取った夫婦は新しい人生を東南アジアで開始した。
 私の母親はセックスが好きだったから亡夫関連に費やす時間が惜しかったのだし、妹の父親こそ女を抱くことが趣味だったのだから近親相姦に興味がない以上は自分の娘のあそこなどクラゲ同然だし、長年の女は枯木なのだろう。
 妹は、自分の母親と暮らせば良かったが、生憎彼女の職場は東京で、彼女の母親は離婚とともに地方に消えた。それで東京に住む他人の私を、折折に頼るようになった。私にとって幸いだったのは、私の妻が浮気をした罰として撮影した妻のオナニー動画を妹が偶然見て、それ以来私は妹にとって人間としては軽蔑しているが経済その他でのみ利用価値がある存在になったことだ。例えば部屋の保証人になってやるとか。
「男狂いの母親を持った子供がどうして同じ類の女と寝るの」
 妻の自慰撮影経緯について説明した後、妹に問われた。それは、性格はどうあれ自分の母親に見向きもされなかったんだから、同類の女を捕まえて自分の物にして、家族を疑似的に遣り直すためだろう。所蔵している本が誰からも愛されず手に取られないのと同様、他人の現実は自分の現実とは違うのだから、言っても詮無い。

 妹から電話があり、辞職した会社に連絡を取って自分が職場で好かれていたか聞いてみるのはどうかと相談してきた。
「止めなさい」
 けれども妹は元勤務先に電話をした。
 結果を私に教えてくれた。
 こう。
「もう連絡をしないで」
 私はゆくゆく妹の経済が逼迫するだろう予測に鑑み、月の貯金を増やした。


編集: 短編