# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | かたち | たなかなつみ | 785 |
2 | 待ち合わせ | 三浦 | 619 |
3 | イエロー・ゴッド | 岩西 健治 | 994 |
4 | 阿部マリオの冒険 | Gene Yosh(吉田仁) | 1000 |
5 | 曇りのち雨 | かんざしトイレ | 1000 |
6 | 冷蔵庫 | qbc | 1000 |
7 | 志し | ナチョ | 790 |
8 | 夜のむこう側へ | 塩むすび | 1000 |
9 | 12月の恋人たち | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
10 | ドア | euReka | 1000 |
11 | まとって生きる | わがまま娘 | 845 |
12 | ではこれで | テックスロー | 997 |
風が言うには、気をつけた方がいいよ、と。それは気づかぬうちに混入してくるものだからね、と。
コートを着込んでマフラーをぴっちりとまく。帽子を深くかぶって手袋で指先までをも包み込む。眼鏡をかける。マスクをつける。丈の高いブーツを履く。これで完璧だと思っていたのだけど。
振り返って地面を注視する。なるほど、これでは足りないらしい。影がすべてを教えてくれる。わたしの影から形を崩して流れ出している靄。その周囲からわたしの影へと入り込もうとしている暗闇。どうにもこうにも、守れるものではないらしい。
彼女は化粧が上手だ。あれもこれも塗りたくって、二重にも三重にも肌を覆い隠して、人工的な香りで体臭を隠してしまって、そうして、今でも自身の形をなして生きながらえている。
人生はね、と彼女は言う。生き残ったものが勝ちなの。何を踏み台にしてもいいのよ。誰を傷つけてもいいの。
あなたにそれができる?
わたしはしゃがんで影に指を伸ばす。自身の影をぐるぐるとかき混ぜて、近寄ってきた暗闇と合流させる。暗闇がわたしのなかに入ってくる。身体中が熱くなって、身を守る必要性を感じなくなり、わたしは身を覆っているものをすべて剥いだ。
暗闇がわたし自身を内部から覆う。そうして、わたしの声を乗っ取って言うのだ。ヒトというものはね、と。わたしは続きを待つ。けれども、その先は聞こえてこない。
わたしの喉はすでにわたし自身のものではなく、わたしの声はすでにわたし自身のものではない。わたしの身体はすでにわたし自身のものではなく、わたしに触れるものはすでにわたしの知るものではない。
すべてが変わってしまったのだと知る。知らない。知ることすらできない。
風がわたしの周りを舞い、わたしだった影を散らしていく。わたしは日の光の下に立ち、すでにわたしには影がなく、わたしはどこにでもある単なる暗闇である。
駅から歩いて君の家の前に出た。君はその時中にいただろうか。いなかったことは後で君に聞いた。私はその時君がいるような気がして二階の窓を見上げた。そして君の名を呼んだ。それから君に電話をかけた。電話に出なかった君はその時恋人と食事をしていたと後で君に聞いた。
君の家の前から歩いて公園に出た。君はその時そこにいただろうか。私はその時君がいるような気がして公園の中を歩いた。そして君の名を呼んだ。
公園から歩いて書店の前に出た。君はその時そこにいただろうか。私はその時君がいるような気がして書店の中を歩いた。
書店から歩いてレストランの前に出た。君はその時中にいただろうか。
レストランの前から歩いて駅に出た。
私のことを知らないと後で君に聞いた。
駅から歩いて私の家の前に出た。私はその時中にいただろうか。いなかったことは後で君に聞いた。私はその時私がいるような気がして私の名を呼んだ。それから私に電話をかけた。電話に出なかった私はその時電話をかけていたと後で君に聞いた。
私の家の前から歩いて公園に出た。君はその時そこにいただろうか。私はその時君がいるような気がして公園の中を歩いた。そして君の名を呼んだ。
君のことを知らないと後で君に聞いた。
公園から歩いて君の家の前に出た。君はその時中にいただろうか。私はその時君がいるような気がして君の名を呼んだ。それから君に電話をかけた。電話に出なかった君はその時私と一緒にいたと後で君に聞いた。
続きは神のお遊びからはじまった。
二種類のカード。手札は三枚。白白白、黒黒黒、白黒黒、白白黒。組み合わせは四通り。一回に一枚、または同じ色のカードであれば二枚を出せる。同色の場合はドロー。もしくは、枚数の多い方の勝ち。白は黒に勝つ。黒二枚に対して白一枚では負け。勝った方がチップを一枚、相手のチップを全て奪った方が勝ち。
白は優遇されている。いわば、ホワイト・ファーストだ。ただ、白には労働能力が欠乏。労働できないのではなく、労働する意思がないのである。要は他人を働かせて利益を得るということだ。一方、黒は生まれつき身体能力に優れるが、虐げられた存在。白の利益に対しての労働を担わされているのである。だから、いつ暴動が起こってもおかしくはない。いや、小さなイザコザはいつも何処かで起こっている。対岸の火事のように。
二匹の神が酒を酌み交わしながらお遊びに興じている。本当は少し飽き飽きしているのであるが、そんなことお構いなし、どんなゲームだって所詮そんなものである。石造りの椅子とテーブル。それを丸く囲む石の手すりの上には召使いのサル。それぞれの神の後ろにそれぞれのサルが鎮座。背後のサルは神の手札を覗く。ルールはひとつ。ポーカーフェイスさ。見ざる、それとも言わざる。神は動じない。所詮ゲームなのであるから。
「さぁ、楽しもう。おい、酒をたのむ」
右の神が左手を上げ、指を鳴らす。
「へーい」
ポーカーフェイスを崩さないサルは従順だ。
「それは単純な理屈からだよ。神が人間を創ったのではない。開発や発明は、より有効な手段を得るためにある。持ち得なかった能力を得ることで便利な生活を手に入れる。このことは理解できるね。もちろん、異論はないはずだ。そう、神に劣る人間をわざわざ神が創るというのはナンセンスなんだよ。神が人間を創ったのではない。人間が神という存在を創造しただけなのだよ」
右の召使いザルは酒を運びながら滔々と述べる。
左の召使いザルは「聞かざる、聞かざる」と耳を塞ぐ。
黒の駒と白の駒の彫刻はすり減り、滑らかな表面が光に反射している。この対戦が終わったら次はカードゲームだ。そう考えている左の神にサルは問う。
「ゴッドの肌は何故に黄色いのか」
「……サルの分際で」
左の神はそう吐きすて、酒の入った杯を干した。
黄のカードはジョーカー、絶対的な存在。
「さぁ、楽しもう。おい、酒をたのむ」
今年の8月だっただろうか、日本国の首相が地球を貫通してリオデジャネイロに時間がないとマリオに変身して「間に合った」と往復政府専用機で地球を一周、こういうのを豪遊というのでしょう。遡ること3年前、同じ首相は『アンダーコントロール』とアルゼンチンへ招致に乗り込んで世界の心配をよそに、平気の平面でよくも言い切ったものだ。私もこのくらい言いきらないと世界は注目はしないと思ったものだったが、今は全く根拠のない言い切り方に開いた口が塞がらない。いまだに続く無責任発言は国会の答弁でも昨年蘇った安保法案でも『国民の生命と財産を守る』よくも言い切ったもので、国の財産と役人や自衛隊員の生命を守るために、国民に強いる法令遵守の義務であり、そのための治安維持の国家を守る戦前の暗黒時代に戻ることも厭わない、知らないふりして食い込んでいく、本当に意味わかっているのか?馬鹿なふりして何とやら。国民はこれではついていけない、首相に命を預ける役人も自衛隊も気の毒である。
10数年前、公共放送のドキュメンタリーの内容が気に入らないからと、同僚の酔っ払い故中川氏と番組放送責任者の理事を吊し上げて、番組内容を歪曲させてしまったり、まるで暴力団のチンピラの振る舞いに驚愕した。相変わらず、痛いところを突かれるとショートテンパーのごとく早口でまくし立てて、言いたいことを言って指摘の矛先を別方向に向ける忍法葉隠の術を繰り出す、マリオちゃん。招致に成功したオリンピックの開催まで首相の座は譲らず、会期終了後はさっさと雲隠するシナリオは自分で書くのだろうか?
自身の派閥の長であったご老人に役に足らない組織委員長をさせて間抜けをさらして、偉ぶるための権威を与え、さらに実務を振りかざす都知事と対決させてさらに赤っ恥をかかせる始末。乗っかる爺も無知の骨頂、全く見てられない。残り3年半、会場建設やIOCや競技団体との調整など、組織委員会の長は役に立つのか、指示を出して責任を持った行動がとれるのかどうか。52年前の東京五輪は国家事業で、技術開発から都市づくりから責任を分担し、費用対効果は終了後の副産物として、まさに命かけて取り組んだ結果、成功したと理解している。『俺がすべて責任を取るから思い切ってやれ』と言える実務リーダーが出てこないとこのようなプロジェクトは絶対成功しないのだ。この一言を言い切れるリーダーが今、日本には必要である。
男は一分の隙もない壁に向かって必死の努力を続けていた。スーツに皺が寄るのも構わずなんとか潜り込もうとするのだが、ぎっしりと詰まった人の壁にはねかえされるばかりだった。これに乗らなければ次はいつになるのか分からない。もう既にぎりぎりの時間だった。重要な会議に遅れるわけにはいかない。絶対に遅れるわけにはいかないのだ。
「はいすみませんね。ご協力お願いします」
痺れを切らした駅員が男を車内に押し込み始めた。早く出発させなければならない。ダイヤが大幅に乱れている。これ以上のクレーム対応は御免だ。スーツの中年、スーツの中年、パーカーの若者、スーツの中年の作る壁を歪に変形させて、男と駅員の間の自動ドアが閉まった。
パーカーの若者は無関心を装っていた。上等なスーツに高級腕時計、いかにも仕事ができますみたいな目の前の男は、以前の職場のパワハラ上司を嫌でも思い起こさせた。あのときに擦り切れてしまった感情は今もまだ戻らない。冷たく事務的な指示のもと歯車として働く今の職場は可とも不可とも感じない。ただこのおっさんの必死の形相を見ていると「そんなに仕事が大事か」と怒鳴りつけてやりたくなった。
「ドア開きます。ご注意ください」
放送が入り、ドア付近の人たちが身構えた瞬間に自動ドアが開いた。男は後ろ向きにつんのめるようにして車外にはじき出され、そのまま一回転した。膝をついて茫然とする男に構わず再びドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。男は辺りを見回すが駅員は目を逸らした。時計を見た。それから自分の姿を見た。ズボンがずいぶんと汚れてしまっている。高かったのになと思った。業績を落としていた会社は社長が変わってから一層雰囲気が悪くなった。目をつけられれば簡単にリストラ候補になってしまう。普段の行動にも身なりにも決して隙を見せるわけにはいかなかった。「でも」これは重大な失点だ。この遅刻は。男はただ呆然とするよりなかった。
パーカーの若者は相変わらず無表情だった。さっきドアが開いたとき、男を突き飛ばしたわけではなかった。あいつがその場に留まれるように配慮するのをやめただけだ。転がり落ちるあいつを見たとき、胸がすっとしたのは事実だった。抑圧されていた心。ふたが取れたみたいに攻撃的な感情がどんどん溢れてきた。「ううう」我知らず声を漏らしていたパーカーの若者は、周りの視線に気づいて決まり悪そうに下を向いた。
よく行く公園のゴミ箱に冷めてしまった飲みかけのペットボトルを捨てようとした時、奇妙に装飾されたしわくちゃの手紙が目に入ったので拾ってきた。
家に帰って、少し恐怖感もあったがそれよりも興味深さの方が勝って何にも包まれていない生まれたての姿をした手紙を開封した。
「メールや電話だと妻にバレてしまうから手紙という形になってしまったことを許してくれ。君はこの関係をどうしたい?いますぐには会う事は出来ないかもしれない。なんせ行動の一つ一つを監視されてるから。君がまだこの関係を続けたいと思うなら待っててくれないか?ほとぼりが冷めた3ヶ月後にいつもの場所で会いたい。そこで会える事が出来たら結婚し…」
手紙の文字には書かれていなかったが、勘のいい妻がドアノブに手をかけた音が俺の耳に確かに届いた。
この手紙の最終段落であったであろう場所は憎しみを載せた筆圧の黒い線で整えられていた文字を掻き消されていた。
俺はドラマの中でしか見た事のない現実に起きている事に驚くと同時に文字が生きている事を感じた。
文字には夫がなけなしの希望を託しているような感じがズレがちな文字列を正確に真っ直ぐ書かれている事で感じ取れた。
そこに狂気じみた目で妻が「なんなのそれ?」と微笑みを含んだ表情で問い詰めてる姿が映像として頭に浮かんだ。
その狂気を保ったまま手紙を奪い取り、側にあった夫の重宝している万年筆でどこか清潔感漂ってる最終段落の文字を汚した。
文字とは何も考えずにただ脳内を通り過ぎるだけの媒体だと思っていたが、この手紙の文字は書き方や配置だけで自分の脳にストーリーを創りあげた。
もしかしたら今頭に浮かんだ想像は現実とは違うのかもしれない。
でも、考えたらかんがえるだけ何通りも出てくる文字から生み出ている創造性に感化されてる自分がいた。
生きた文字を届けよう。小説家を志したのはこんな風変わりな経験があったからである。
静寂。母が亡くなった。なんとしてもこの夜の向こう側に行かなくてはならない。そう決めた。
ぶら下げたコードの輪を握って目を閉じる。外から聞き慣れた足音、鍵を開け一拍おいて回るノブ、ただいまといって小さく息をつく母。風呂場へ向かう母と居間へ向かう母とトイレに向かう母、重なりあった様々な年代の母たちが像を残しながら去ってゆく。やがてすべての残像は襖をすり抜けて寝室に収まった。入れ替わりに襖の隙間から這い出た黒い虫が囁く。この町で一番高い塔のてっぺんから月の輪をくぐるのさ。
外は夜。空にはくり抜いたような白い月。町を飾ったイルミネーションに色はない。町一番のマンションの、屋上の手すりの上から手を伸ばしても月に届く気配もない。軒にぶら下がった黒い鳥が囁いた。森の奥に井戸がある、そこから月に飛び込むのさ。
森の中。緞帳のような黒い闇。闇一枚隔てた向こうから蠅の囁く声がする。決して振り向いてはいけないよ。
やがて井戸に辿り着く。のぞき込むと月が水面に揺れている。けれども森の中は相変わらずの暗闇で月の光は降りてこない。井戸の底からカエルが囁く。月によく似た光なら線路の上を走っているよ。
踏切。線路から無数の首が生えていた。月が来るよ、もうすぐ来るよ。遮断機が降り、窓に月の光を湛えた列車が警報をかき消し闇をつんざいてやってきた。さあおいで。勇気を出して。こんな気味が悪いものはなんだか違うと思い直してその場を後にした。
月を求めてさまよって、闇の中に輝く光を見つけたと思ったが、どうやら自分の家の窓だった。
帰宅。ドアノブに母の手の温もり。家の中のどこかから携帯の震える音。短く三回、長く三回、母のアラームのパターン。音は寝室から響いている。目を開ける。首に掛けたコードを床に置く。襖を開ける。敷布団にはてらてらと光る胃液を鼻と口からどろりと溢れさせてこと切れた母がいる。遺体からやがて色鮮やかな腕が生えてきて携帯に伸びる。様々な年代の母が次々に立ち上がり、襖をすり抜けてゆく。かつてともにあった母、けれどともに歳を重ねてゆくことのかなわない母。布団の上に残された母は色を失い、ただそこにあるだけだった。
携帯は暗闇を白く切り抜いたまま震えている。待ち受けに青空。母の遺体をまたぐ。携帯を手に取る。アラームを切る。キーパッドを叩く。もしもし。「はい。火災ですか、救急ですか?」母が亡くなった。静寂。
Yは12月になると必ず思いだすことがあって、それは昔どこかで読んだ2人の若くて貧しい夫婦の物語だった。クリスマスなのに、夫に贈るプレゼントを買うお金がなかった奥さん。だが奥さんは美しい髪をもっていたので、髪をバッサリ切りおとしてカツラ用につかう人毛として売ったのだった。そうして彼女は夫にプラチナの鎖を買うのである。夫が宝物としてもっていた懐中時計に、このプラチナの鎖をつければさぞかし似合うことだろうと思ったわけである。
夫は髪を切って売った奥さんのことを知らない。それで、夫は自分の宝物の時計を売り払い、髪かざりを買ったのだった。宝石がちりばめられたもので、それは美しい奥さんの髪によく似合うと思ったわけだ。だがクリスマスの夜、夫は妻の髪がとても短くなっていることを知る。妻の方も夫が宝物にしていた時計を売り払ったことを知る。だがそれでも2人は幸福なのだった。
Yはこの話を頭のなかで何度も思い出して12月を過ごすようにしている。結果的にいい話であるかもしれないが、細部はとても哀しい話だと思う。哀しく思ってしまうのはYにも似たような経験があって、恋人とクリスマスをどうしても一緒に過ごそうと思って無理をして仕事を休んでディナー、ホテルまで予約をしたら、恋人はクリスマスはいつも仕事だから自分も仕事をいれて、そのかわりYが休みである正月に自分も休みをとったのだった。Yはクリスマスに休みをとったので正月は仕事になったのだった。
Yとその恋人は、なんとそんな些細なすれ違いで別れてしまって数年たつ。今では連絡もすることがなくなり、噂では結婚して子供もいるという。だからといってYは後悔しているわけでもなく、ただそんなことがあったこともあって、髪を売って時計用の鎖を買った奥さんと、時計を売って美しい髪飾りを買った夫の物語のことをおもうとき、この出来事は本質的にとても哀しいと思うのである。
今年の冬もYはワインバーに行って、1人ワインを呑んで、ぼーっとした表情で、すれちがっても美しく哀しい夫婦のことをただ思う。すれちがったまま終わってしまったたくさんの恋についてもぼんやりと考えてみる。誰かを愛すること、誰かに愛されることの豊かさはワインに似ていますと、若い女性ソムリエがYに言ってきて、その言葉をいった彼女が成熟していく時間を思って、またぼんやりとワインを飲み、明日も働こうと思うYの師走なのであった。
私は井戸に落ちた。
しかし何秒たっても底に衝突しなかったので、ずいぶん深い井戸なのだろうと考えながら落ちた。そして私はもう人間じゃなく、ただの落下物なのだと考えることにしたところでポケットの中の携帯電話が鳴った。手探りで携帯電話をつかみ、風圧で定まらない指で通話ボタンを押して、やっとのことで耳に当てると女性の声が聞こえた。
「ササキさんの電話ですか?」
「いいえ、私はサトウです」
電話の女性は、間違い電話だと分かると丁寧にお詫びを言って電話を切った。私はそのまま携帯電話を放り出そうかと思ったが、また電話が鳴っているのに気付いたので再び電話に出た。
「さっきは間違い電話だったけど、今度はあなたに伝えたいことがあるの」と電話の向こうにいる女性は言った。「あなたが今落ちているのは井戸じゃない。だから底にたどり着くことはないわ」
ササキさんのほうの用事はいいのかと聞くと、今はササキさんよりサトウさんのほうが大変そうだからと彼女は言った。
「まずは目を閉じて、わたしの声に集中して」
私は目を閉じた。
「次は、陽だまりで気持ちよく眠っている猫を想像して」
想像した。
「猫を優しくなでてあげると、あくびをして起きるわ。そして猫が挨拶をして歩き出したら、あなたはそれについていくの」
猫の後をついていくと、素っ気無い灰色のドアがある場所にたどり着いた。電話に話しかけてみたが、もう女性の声は聞こえなかった。
ドアの向こうには部屋があり、一人の子どもがソファに座っていた。子どもはドアから入ってきた猫を抱き上げると、笑顔で私に挨拶をした。電話の女性のことを子どもに質問すると、子どもは一枚の写真を私に見せた。
「その人はもうずいぶん前に死んだわ。サトウさんがドアを探してる間にね」
じゃあ君は誰なんだと質問すると、子どもはその女性の孫だと答えた。
「おばあちゃんはサトウさんがちゃんとドアを見つけられるか心配してたわ。だって猫はきまぐれだから、きちんと案内できるかしらって」
私は、ほかに行くあてもなかったので子どもと一緒に暮らすことになった。子どもの提案で、私は父親になり、子どもは娘になることにした。それから一年ほどすると、例のササキさんがドアから現れたので、ササキさんはそのまま子どもの母親になった。
次は誰がドアから現れるんだろうと子どもに聞くと、それは秘密よと言ってはぐらかされた。猫もニャアと鳴くだけだ。
階段を下りている途中で、目の前が大きく歪んだ。
次に気が付いたのは、病院のベッドの上だった。3日前のことだ。
ピッ、ピッ、ピッ。
規則正しい音だけが鳴り響いている。
階段から落ちたはずだが、ケガは両膝を擦りむいた程度で済んだ。ただ、今はベッドの上から極力動かないようにと、制限されている。
平日の昼下がり、ゆっくりと窓の外を見る。
誰もいない。それだけで、こんなにも気持ちがラクになる。
いつもは、誰かの目を気にして、言葉を気にして、他人の望む自分を演じて、一瞬たりとも気が抜けない毎日だった。
帰っても緊張した気持ちが解けることはなく、そのまま朝を迎えて、またピリピリと生活を送る。
他人の望む偽りの自分を演じるために、笑った仮面をまとい、他人の言葉に傷つかないように自分の殻に閉じこもり自分を守った。
本当の自分はこんなのではないはずなのに、と思いつつ、他人の望む自分を演じ、その溝がストレスになる。
気が付けば、どっちの自分が本当の自分なのか、わからなくなった。
本当にやりたいことってなんだろう。
本当に言いたいことってなんだろう。
本当の自分ってなんだろう。
何もかもがわからなくなって、考えることを放棄した。
そこまでして、本当に生きる意味ってあるのだろうか。
自分さえも本当の自分を見失って、誰も本当の自分なんて見つけてもくれないのに、このまま他人の望む自分を演じて生きることに意味があるのか。
それでも生を手放して、あの世に向かうという発想は生まれない。
生きる意味がないのではないかと感じつつも、毎日他人の望むありもしない自分を演じ続ける。
ガラガラと音がして、視線を窓からそちらに移す。
一瞬にして、自分を守るための鎧をまとって笑顔を作る。
多分そうやってこの先も生きていく。自分を守るための鎧を身に着けて、自分でも本当の自分がわからないように。
本当の自分を知ってしまったら、鎧をまとって、他人の望む自分を演じられないことを知っているから。
誰にも自分を隠して、決して見つからないように、私は嘘をまとって生き続ける。
「じゃあお前のしたいことって結局何なのよ」
ゴミ箱野郎と陰で呼ぶ職場の先輩社員と二人で飲んでいた。この場合ゴミ箱野郎と呼ばれているのは先輩のほうではなく俺である。まあ俺だって直接そんな話を聞いたわけではないが、なんとなくそんな噂を聞いたことがあるような気がするし。こうやって差し向かいで飲んでいるとゴミ箱野郎と呼ばれている気がするのだ。
「……聞いているのか、ゴミ箱野郎」
「え?」
「お前にも闇があると思うんだよ俺は。だからそれを吐き出せよ。仕事ってのは結局人なの。やっぱりさ、自分が一番つれえな、って思ったときに助けてくれた人のことってのは忘れないんだよ」
「はい」
「お前がこの前請け負ってくれた案件、あれ、本当に感謝してる」
「ああ、あれ、あの件」
今ゴミ箱野郎って言ったよな。言ったか? なんとなくスーッとなってしまう。先輩はハイボールをあおってさらに続ける。
「とむそーや」
「は?」
「トムソーヤの話な。俺仕事って結局ああいうことなのかなって思う。トムソーヤ、おばさんにペンキ塗り押し付けられてさ、それを楽しそうにやっていると、周りも何かとても楽しいことやっているんじゃないかって勘違いして、仕事取り合うの。お前もさ、大変かもしれないけどやっぱり楽しんでやらないとさ、周りの共感って得られないんだと思うよ」
そこまで言うと先輩はハイボールのジョッキを空にする。俺はゴミ箱野郎として、ぽつねんとそこにたたずんでいる。先輩はスマホを弄りながらにやにや笑っている。え、それなんか、反則じゃないの?
「何飲む」
「あ。じゃあ、同じものを」
運ばれてきた酒を飲みながら、じゃあ俺のしたいことって結局なんなんだろうな、と考えてみる。
そのころ。 じじいは一日の務めを終えると、国産高級SUVに乗って自宅へと走っていた。ワイパーの音にラジオのニュースが絡まって夜を刻む。カーナビと速度表示のLEDに照らされて、じじいの顔に刻まれた皺が影を作る。革張りのシフトレバーを操るその手にも、同じく皺。
じじいは家に帰ると、ソファでテレビを見ている妻の脇を通り抜け、LINEから部下にメッセージを送った。今日はうつ病の社員が復帰してくる日なので、様子を見るため飲みに連れ出させたのだった。親指を立てたスタンプを送って、今日は寝ることにした。その前に、ゆっくり風呂に浸かって、今日の垢を洗い落とすのだ。