第172期 #9

思い出とは

業者が荷物を運び出したあとの文字通り何もない部屋を見ていっちゃんが言った。
「なんか、寂しいね」
「ま、なんだかんだ言ってここに3年も居たわけですから」
匂いというか、温もりというか、多分、そういうのをひっくるめて“思い出”って言うんだろう。
「ま、あっちでまた思い出を作ればいいじゃない」
オレは、クルッと回って玄関の扉に手をかける。
「これからも一緒なんだし、ここの荷物もあっちにあるわけだし」
扉を開けてオレは外に出た。「そうだね」ってなんだか泣きそうな顔をしていっちゃんがついて出てくる。
「なんかわかってんだけど」と言いながら、いっちゃんはガチャンと鍵を閉めた。

引っ越しの引き金は、いっちゃんのお父さんの訃報だった。
家族思いのいっちゃんが、実家に帰りたいと言い出すのは明白だった。だから、オレは先回りして引っ越し先を物色していた。
訃報から3ヵ月程経ったある日、いっちゃんは実家に帰ると言い出した。だから、オレは「一緒に行くよ」って。もう、いっちゃんのいない生活はオレにはないから。

新幹線で2時間半のいっちゃんの地元。
荷物は明日届くから、今夜は文字通り何もないマンションにいっちゃんとふたりで過ごす。
不動産屋で鍵を受け取って、新居に向かう。新居と言いつつ、中古マンションですがね。そう、賃貸じゃなくて購入したんだ。オレ、ここに骨を埋める覚悟だから。
いっちゃんが新居の鍵を開けて、扉を開いた。
「さむっ」
そんなに肌寒い季節でもないのに、扉を開けた瞬間にサッと冷たい風が流れ出てきたような気がした。
ヒトではない何か無機質な感じの匂いとひんやりとした空間。全然この空間がオレ達のこと歓迎してないような気がするのは何故?
中に入って適当にいっちゃんとふたり床に座ってコンビニで買ってきた食料を広げる。でも、全然温かくならなくて。
「いっちゃん……」
そっといっちゃんの体を引き寄せて、抱きしめる。
あぁ、いっちゃんがオレの匂い好きな気持ち、わかるかも。いっちゃんの匂い、安心する。
「零くん、どうしたの?」
オレを見上げるいっちゃんに「なんでもない」と言って、そのままふたりで倒れ込んだ。
「もう、寝よ」ってオレが言ったら、いっちゃんが「そうだね」って言った。
次の日、起こしてくれたのは引っ越し業者だった。

あれから半年。
この空間は、好きな匂いがするし、温かい。少しずつ思い出が詰まってきているってことなんだと思うある日の昼下がり。



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