第172期 #10

ウイウイウイスキー

ウイスキーと声をだしたときの、ウイで唇の動きを止めてみる。鏡でそのときの自分の顔をみてみよう。その表情こそ他人からみて一番好感度がもてるらしい。

洋介はそんなインターネットの情報にワラにすがる思いで飛びついて、そうして鏡にうつるウイの自分をみて、どこか過剰な笑顔だな、と思ったのだった。ところが、である。

翌朝、職場で洋介が過剰といわれることを承知で、ウイの顔をしてみたところ、「最近、ずっと不機嫌でしたよね。今日はようやく機嫌がなおったような顔しているのでー」と同僚の女性から声をかけられ、それまで目も合わせてくれなかった連中が、ごく普通な態度で洋介を迎え入れたのである。

それ以来、洋介はウイの仮面と自分の表情に名前をつけた。ウイの仮面を維持することは実はそれほど簡単なことではなくて、常にウイ、ウイ、ウイと心のなかで唱え続けていないと、すぐに表情がいつもの洋介に戻ってしまうのである。だから洋介は、仕事の時間になると、つねにウイウイ叫び続けているのであった。だから洋介はウイの仮面と名付けた自分の顔を鏡でみるたびに、どこか自分自身ではないような気がしているのである。

洋介は出世していった。それまで営業部の一員として生意気だ、謙虚になれ、と常に上司からもクライアントからも指摘されてきた洋介がウイの仮面を自分のものにして以来、みんなが洋介を慕うようになり、取引先との契約もどんどんまとまっていく。イケメンでもない普通のおっさんの彼がいつしか地方誌の一面を飾るようにまでなった。

晩婚ではあるが、家庭をもつまでになった洋介である。或る日、洋介は妻にだけ自分の仮面を脱いで、本当の洋介をみせることにした。俺はいいヤツなんかじゃないんだ、感じも悪いし、無表情だし。

そういって洋介はウイの表情をとろうとしたのだけれども、そのころになると洋介はもうウイウイ唱えていなくても、顔が自然に笑顔になっていて、昔の自分の表情ができなくなっていた。

「いまのあなたが本当の自分なのよ、洋介」

妻に言われて、洋介はハッとした。新しい自分になってみたくてつけたウイの仮面だが、そのウイの仮面だって本当の自分なのだ。人は変わることができるんだ。俺は変わったんだ。

はじめてウイと心で唱えてから10年だった。長いようで、つい先日のようにも思える10年だった。洋介は次の10年で何を変えてやろう、どんな本当の自分を探そう、と天井を見上げた。



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編