第171期 #5
男は一分の隙もない壁に向かって必死の努力を続けていた。スーツに皺が寄るのも構わずなんとか潜り込もうとするのだが、ぎっしりと詰まった人の壁にはねかえされるばかりだった。これに乗らなければ次はいつになるのか分からない。もう既にぎりぎりの時間だった。重要な会議に遅れるわけにはいかない。絶対に遅れるわけにはいかないのだ。
「はいすみませんね。ご協力お願いします」
痺れを切らした駅員が男を車内に押し込み始めた。早く出発させなければならない。ダイヤが大幅に乱れている。これ以上のクレーム対応は御免だ。スーツの中年、スーツの中年、パーカーの若者、スーツの中年の作る壁を歪に変形させて、男と駅員の間の自動ドアが閉まった。
パーカーの若者は無関心を装っていた。上等なスーツに高級腕時計、いかにも仕事ができますみたいな目の前の男は、以前の職場のパワハラ上司を嫌でも思い起こさせた。あのときに擦り切れてしまった感情は今もまだ戻らない。冷たく事務的な指示のもと歯車として働く今の職場は可とも不可とも感じない。ただこのおっさんの必死の形相を見ていると「そんなに仕事が大事か」と怒鳴りつけてやりたくなった。
「ドア開きます。ご注意ください」
放送が入り、ドア付近の人たちが身構えた瞬間に自動ドアが開いた。男は後ろ向きにつんのめるようにして車外にはじき出され、そのまま一回転した。膝をついて茫然とする男に構わず再びドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。男は辺りを見回すが駅員は目を逸らした。時計を見た。それから自分の姿を見た。ズボンがずいぶんと汚れてしまっている。高かったのになと思った。業績を落としていた会社は社長が変わってから一層雰囲気が悪くなった。目をつけられれば簡単にリストラ候補になってしまう。普段の行動にも身なりにも決して隙を見せるわけにはいかなかった。「でも」これは重大な失点だ。この遅刻は。男はただ呆然とするよりなかった。
パーカーの若者は相変わらず無表情だった。さっきドアが開いたとき、男を突き飛ばしたわけではなかった。あいつがその場に留まれるように配慮するのをやめただけだ。転がり落ちるあいつを見たとき、胸がすっとしたのは事実だった。抑圧されていた心。ふたが取れたみたいに攻撃的な感情がどんどん溢れてきた。「ううう」我知らず声を漏らしていたパーカーの若者は、周りの視線に気づいて決まり悪そうに下を向いた。