第171期 #10
私は井戸に落ちた。
しかし何秒たっても底に衝突しなかったので、ずいぶん深い井戸なのだろうと考えながら落ちた。そして私はもう人間じゃなく、ただの落下物なのだと考えることにしたところでポケットの中の携帯電話が鳴った。手探りで携帯電話をつかみ、風圧で定まらない指で通話ボタンを押して、やっとのことで耳に当てると女性の声が聞こえた。
「ササキさんの電話ですか?」
「いいえ、私はサトウです」
電話の女性は、間違い電話だと分かると丁寧にお詫びを言って電話を切った。私はそのまま携帯電話を放り出そうかと思ったが、また電話が鳴っているのに気付いたので再び電話に出た。
「さっきは間違い電話だったけど、今度はあなたに伝えたいことがあるの」と電話の向こうにいる女性は言った。「あなたが今落ちているのは井戸じゃない。だから底にたどり着くことはないわ」
ササキさんのほうの用事はいいのかと聞くと、今はササキさんよりサトウさんのほうが大変そうだからと彼女は言った。
「まずは目を閉じて、わたしの声に集中して」
私は目を閉じた。
「次は、陽だまりで気持ちよく眠っている猫を想像して」
想像した。
「猫を優しくなでてあげると、あくびをして起きるわ。そして猫が挨拶をして歩き出したら、あなたはそれについていくの」
猫の後をついていくと、素っ気無い灰色のドアがある場所にたどり着いた。電話に話しかけてみたが、もう女性の声は聞こえなかった。
ドアの向こうには部屋があり、一人の子どもがソファに座っていた。子どもはドアから入ってきた猫を抱き上げると、笑顔で私に挨拶をした。電話の女性のことを子どもに質問すると、子どもは一枚の写真を私に見せた。
「その人はもうずいぶん前に死んだわ。サトウさんがドアを探してる間にね」
じゃあ君は誰なんだと質問すると、子どもはその女性の孫だと答えた。
「おばあちゃんはサトウさんがちゃんとドアを見つけられるか心配してたわ。だって猫はきまぐれだから、きちんと案内できるかしらって」
私は、ほかに行くあてもなかったので子どもと一緒に暮らすことになった。子どもの提案で、私は父親になり、子どもは娘になることにした。それから一年ほどすると、例のササキさんがドアから現れたので、ササキさんはそのまま子どもの母親になった。
次は誰がドアから現れるんだろうと子どもに聞くと、それは秘密よと言ってはぐらかされた。猫もニャアと鳴くだけだ。