第170期 #13
空から落ちてゆくなかで私は地上を見上げていた。そこには記憶から抜け出した過去たちがさまよっていた。
川に橋がかかっている。橋のたもとに植えられた木が落とす影の中にそのベンチは置かれている。そこに犬はいない。かつてその脇腹をはたき、私に報復したことで処分されたあの犬はいない。記憶だけ私の腕の古傷の中に埋め隠されている。
橋のたもとで丸まっていたその犬がベンチに首を返して語りだす。
殺してやりたいけど肉親に刃を向けるのはいささか躊躇われる。じゃあ誰かに頼もうか、だからといってそいつの趣味で嬲らせるのはどうにも寝覚めが悪い。そんなときにあっしの出番でさあ。あっしは暴力、概念、そこに山があるから登る。あっしが殺せばそれはまるで事故か災害。あっしに任せてくれれば後腐れもないってもんですぜ。
老女が答える。殺しは完全なる悪である。議論の余地などない。その点おれは盗み専門。殺しはやらないおれの方がマシってもんさね。
ベンチの上に老女はいない。老女は死んだ。犬よりも後に現れ、犬よりも後に死んだ。川を越えた先、橋のむこう側をひとり見つめ続けたあの老女、時折ベンチの傍らに視線を落とし何事かを呟いていたあの老女はいない。あの老女が棺の中で横たわっている、その緑色の貌をたしかに見た。ベンチの上に老女はいない。
殺さなきゃ盗めませんぜ。あっしは殺すだけで盗みはしません。あっしのほうがマシってもんですよ。
ではお前は命を盗んでいるということになるな。
こりゃあ一本取られましたな。でしたらあっしらは同じ盗人、殺しも盗みも大差ないということですなあ。
いやいやお前、それは違うよ。おれは命までは盗みはしない。
あっしは命しか盗みませんぜ。
殺ししか能がないけだものめ。
神様からのギフトとやらが、あっしにはこれだったんでさあ。
橋の向こうから猫が川を越えてやって来た。猫は尻尾をぴんと立て、媚びるように遠巻きにベンチに近づいた。やがてベンチの傍らで腰を落ち着けて、目の端でベンチを捉えた。ベンチに老女はいない。橋のたもとに犬はいない。すべて記憶の欠片を紐づけているだけに過ぎない。
だが猫はやおら身体を伸ばし、媚びるようにベンチの上の虚空へ振り返ってにゃんと鳴いた。橋のたもとで丸まったそこにいない犬は伏せたまま片眉を上げ、たもとのベンチに腰かけているそこにいない老女は猫なで声を出しながら猫に手を伸ばした。