第170期 #11

誰もが「もうひとりの私」を心のなかに住まわせているかもしれなくて、一般的に世間受けするのは「異常人格な私」であるみたいだ。たとえば、真面目な公務員が実は、極度にエロティックであったり、一方で暴力稼業の人間が本当は「虫にも触れない私」をもっていたりするそのギャップ。我々は「落差」や「抑圧」に物語をみる。

ところがここに一人、たいして独創的な人間でもない普通のオトナがいて、彼も「もうひとりの私」を持っているわけだが、読者の期待にこたえるような異常人格ではなかった。彼の内側でひっそりと暮らしている「もうひとりの彼」は、彼そのものであって、それは一人の泳ぐことが好きな男であった。仮に彼のなかの「彼」をKと名付けようか。

彼が日中、あくせくと机に座って伝票の整理をしているあいだ、Kはいつもスイミングプールで泳いでいる。Kの住んでいる世界は彼の心の内側であるわけだから、現実の世界とちがって疲れることも知らないし、肉体を酷使しつづけたからといって身体を壊すこともない。眠る必要もなく、食事をとらなくてもKは生きていることができる。だからといって、Kが年がら年中泳いでいるのかといえばそうではなくて、彼がふと仕事の手をやめて、伝票から離れて内側のKをのぞきこんでいるとき、Kはその視線をどうやら背中でかんじとることができるみたいで、泳ぐのをやめる。そして、Kは天井にむかって笑顔で手をふるのだ。

彼はKが手をふっているのをみていて、自分はKがみえているが、Kにも俺がみえるのだろうか。Kにとって俺はどう映っているのだろう、と思いかえしてしまう。それでまだ自分の内側に住むKのことに気づくずっと前、鏡を前にして、鏡にうつる自分自身を眺めていたころのことを懐かしく思い出したりしているのである。自分が右手をあげると、自分とそっくりの顔をした鏡のなかの自分も手をあげるが、鏡の自分があげているのは左手である。鏡の自分は自分とそっくりでいて、実は左右逆であるから自分とはちがうようにも思う。ただ、Kは自由に泳いでいるし手も振ってくるのに比べて、鏡の自分は何ひとつ勝手なことはしない。

彼はある日、鏡を用意した。そして鏡の前で目をつむり、プールで泳いでいるKの姿を眺めた。そして鏡前にビデオカメラをおいて「鏡の彼」を録画した。あとで再生すると鏡のなかの彼もきちんと目をつむっていた。彼は鏡の彼に乾杯することにして酒を呑む。



Copyright © 2016 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編