第17期 #3

珈琲ブルース

 その店はネオン街の裏通りにあった。
 地下に通じる暗い階段を下りていくと、ソクラテスの顔がマークの重たいドアがあって、外に漏れていた光はクリスマスの教会のように穏やかであたたかかった。中には無表情のマスターとカウンターで腕を組んで目を閉じている客が一人。私は、テーブル席に腰かけて、メニューを開くが、ジントニックと炭焼き珈琲しかない。
 白くて重たいカップがコトンと音をたててテーブルに置かれたが、砂糖もミルクもついていなかった。ゆっくりと舐めてみたら、苦さが口の中に広がっていくーーストレート珈琲を飲んだはじめての夜。
 私が泊まっていた宿は一泊2300円。三階だての建物で、入り口付近は甘酸っぱい臭いが漂っていた。料金は先払いで、門限は22時。 案内された二階の部屋へ行くと二月だというのに暖房がなく、シーツには小さな血痕がついている。おまけに部屋の鍵は壊れていたが文句を言う度胸がない。何も言わずにドアを閉め、100円で30分みれるテレビをみようとしたが、財布の中に小銭がない。しょうがなく寝転んでいたが、あんまり身体が冷えるので、地下にあるという浴室へ向かった。
 畳一枚分の浴槽に飛び込もうと思ったが、湯には垢がたくさん浮かんでいて入る気がしない。
迷っていると、誰かが入ってしまい、どうしようもなく風呂をあがり、ドライヤーを首筋にあてて部屋に戻った。スーパーで買ってきていたレタスサンドイッチと鶏のから揚げを食べたが、やることがない。ノートとペンを取り出してとにかく思いつくままに手を動かしていた。最初は、持っていたキーホルダーのイラストを描いていたが、気づくと文章を書いていた。しばらくたって、何かに憑かれるように荷物をまとめ、宿を抜け出して、夏の虫のようにネオン街に吸い込まれていった。
 舌が火傷するくらい熱くて酸味のない珈琲は、喉に流すというより、歯茎にしみ込んで身体の内側に落ちていくような感じがした。そして、そのときようやくトランペットの叫び声や、ドラムが吼えていることに気づき、胸の中にジャズの風が吹いた。宿で書いたメモは今も残っている。

ぼんやりしていると
路上で口論している女のわめき声
嘔吐する男のうめき声

不意に隣から
ピアノのメロディがきこえてきた
そのメロディは
ぼくを安心させる

リュックの中の単語帳に
そろそろ手をつけなければと思っているうちに
ピアノが止まった
入試まで8時間



Copyright © 2003 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編