第169期 #6
ぼくは彼女の名前を知らない。けれども、彼女の優しさを知っている。ぼくは彼女の手を知らない。けれども、彼女の温かさを知っている。ぼくは彼女の顔を知らない。けれども、彼女の美しさを知っている。ぼくは彼女の姿を知らない。けれども、ぼくは彼女の存在を知っている。
ぼくは彼女に宛てて手紙を書く。お元気ですか。そちらの天気はいかがですか。穏やかな日々を送っていますか。今は何をしていますか。
彼女からの返事はない。
姉はぼくの手紙を自慰行為だと言う。自己満足のために自身を慰撫しているに過ぎないまやかしものだと。
ぼくはそうは思わない。
ぼくは彼女の名前を知らない。けれども、ぼくの手紙は彼女に届く。ぼくは彼女の手を知らない。けれども、彼女はその手でぼくの手紙の封を開けて便箋を開く。ぼくは彼女の顔を知らない。けれども、彼女の顔はぼくの手紙を読んで柔らかな笑みを見せる。ぼくは彼女の姿を知らない。けれども、彼女はぼくに宛てて返信をしたためる姿を見せる。
彼女からの返事はない。
妹は彼女のことをぼくの想像上の人物だと言う。自身を慰めるためにぼくがつくり出したまがいものだと。
ぼくはそうは思わない。
彼女はぼくの名前を知らない。だから、彼女の手紙はぼくのところに届かない。彼女はぼくの手を知らない。だから、彼女はぼくの手に触れることがない。彼女はぼくの顔を知らない。だから、彼女はぼくを見つけることがない。彼女はぼくの姿を知らない。だから、彼女はぼくの存在を知らない。
さあ、彼女に会いに行こう。ぼくは届かない手紙を鞄に詰めて旅に出る。行き先は決めていない。そういうものだ。
そうして、ぼくは出会うのだ。ぼくの知らない彼女に。ぼくの知らないぼくの果てに。