第169期 #5

おでんの屋台

電車に揺られる。
吊革を掴む指先が辛くなって、もう片方の手を掛け直し、重い身体を支えた。
夜前で群青色に染まった空気に沈み、夕食の支度をする家の影が流れていく。
疲れた。
電車を降りて、薄らと浮かび上がった白星を遥か天上に臨み、錆び付いた商店街の裏を一人で歩く。
その店が目に入った。
屋台であった。
おでんの良い香り。
思わず暖簾をくぐる。
「おや、若い客だねぇ」
ランプに輝くツユと湯気の向こう、人の良さそうな親父がいた。
「出汁巻」
自分の声は意外にもぶっきらぼうだった。
親父が黄色い玉子を皿に移す。
狐色の出汁をそれにかけてくれた。
「他には?」
「他に?」
「当たり前だろ、あんた、玉子食ってそんで帰るつもりかい?」
親父が笑った。
「じゃ、巾着」
「あいよ」
よく染みた餅巾着が一つ、出汁巻玉子にそっと添えられた。
「にしても兄ちゃん、元気ないなぁ」
「疲れてるんだよ」
「いやいや、その顔、何かあったろ? 一回限りの付き合いだしよ、おっちゃん何でも訊いてやるぞ?」
お節介な親父だ。
学生鞄を傍に寄せた。
「ずっと好きだった子にフラれた」
親父が吹き出した。
少しずつ寒くなる秋の夜前の空に親父の笑い声は結構響いた。
「ひでぇな」
「いやぁ、すまんすまん」
サービスだとでも言わんばかりにコンニャクを皿に追加する。
「で、どんな子だ?」
「笑顔が、可愛いんだよ」
「そりゃいいな」
「幸せそうに笑うんだ。それを遠くから眺めてるだけで良かったのに、周りに押されて告白しちゃったんだよ」
「あぁ、青春だね。だけどよ、兄ちゃん。愛は逃げないんだぜ? だから元気出せよ」
親父は自分の分のおでんも掬いながら楽しそうに言った。
「よくわかんないよ」
「すまんすまん、おっちゃん位になると若い子の前で恰好つけたくなるんだよ」
思わず笑ってしまった。
「出汁巻、もう一つ」
「へいへい」
こういうのも、何か良い。



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