# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 仮視 | in | 1000 |
2 | 雨に溺れる | たなかなつみ | 461 |
3 | 一週間後 | Gene Yosh (吉田 仁) | 1000 |
4 | "@**** たのしんで!" | 塩むすび | 1000 |
5 | ガム | わら | 1000 |
6 | シャワーを借りる女 | 岩西 健治 | 998 |
7 | 夏の夜の出来事 | わがまま娘 | 1000 |
8 | ミヤマカラマツ.jpeg | テックスロー | 973 |
9 | 風よ水よ人よ | qbc | 1000 |
10 | いつまでも君であれ | 風花 立花 | 998 |
11 | シンクロニシティ | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
12 | これこそ、愛だよ。 | 秋澤 | 994 |
13 | 錯覚 | euReka | 1000 |
絵の具を滲ませたように。丸めたセロファン紙を広げていくように。
私は視界が紅く染まっていったのを今でも鮮明に覚えている。私の眼球を傷つけた刺々しい枝が見せた、最後の景色だった。
些細な事故で視覚を失った私は妻に代わり、文字通り手探りで家事を行うようになった。
手触りで洗濯物を確かめ、何度も壁面に先端を打ちつけながら掃除機をかける。
火傷の恐れのある炊事は妻が帰ってきてから行うようにしているが、最近は1日の顛末を話しながら私の手元を眺めるばかりになった。
夕方、一段落ついて腰を下ろすと目の前の真っ暗な世界にかつて見ていたはずの光景が重なる。
妻が選んだカーテンや結婚前に私が使っていたポラロイドカメラ、職場の上司が譲ってくれた二人掛けのダイニングテーブル。
たまに位置を取り違えて身体のどこかをぶつけることもあるが、定位置のソファーに座ると闇の中に輪郭を現してくる。
家にいる時間は圧倒的に妻のほうが長かったはずなのに、もはや目をつむっているのと変わらない私の瞼の裏にも焼き付いているようだ。
つい先日まで妻がしていた生活に身を窶しながら、その頃の私自身やそれに取って代わる今の妻に思いを馳せる。
私は一般的に見て、出世を期待される類の人間だった。
決して大きな夢を持っていたわけではなかったが、これだけ必要とされる働きのできる人間であることに喜びを覚えていた。
ものが見えなくなった私は仕事に生かされていた自分が幾人もいたことに気づく。
死んでしまった彼らに涙していることさえも妻に言われるまで知らなかった。
どんなひどい泣き顔だったのだろう。
鏡を映さない私の瞳では確かめようのなかった情のない顔を想像して自嘲気味に笑った頃、鍵の回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
妻は寡黙なわけではないが多くを語ることもない。
「今日何かな」
「揚げ出し豆腐」
聞いておいて何も言わないのはいつものことだが、喜んでいるのは見えなくてもわかる。
「また部長に叱られちゃったよ」
向かいの椅子にドサっと座るとそのままダイニングに突っ伏した。
「これから夕食の並ぶ場所に髪の毛広げないで」
「どうしてわかるの。見えないくせに」
私がこうでなければ妻は働きに出て、不器用な自分と葛藤することはなかった。
それをどう思っているのだろうか。
決して妻は口に出したことはなかったけれど。
「ご飯よそうね」
私が静かに落とした豆腐が、熱くなった油の中でパチパチと音を立てた。
長いあいだ雨は降っていない。
子どもがひとり立っている。汗を流して、帽子をかぶって、足を踏ん張って、立ち尽くしている。
その手には先の欠けた水でいっぱいの如雨露。その足先には一列になって進軍している虫の一団。
家の内に入ってきたら駆除しなければいけないもの。家の外にあるときは愛でなければいけないもの。
なんでだ。
子どもは如雨露の先を傾ける。水は大きな塊になって虫の軍団の上に落ちる。
洪水を引き起こす。
子どもの靴がべったりと濡れる。その足先には溺れる虫たち。
子どもはその指先を水たまりのなかに入れる。泥をかき混ぜる。虫と一緒にかき混ぜる。
その指をつたって逃れてくる虫たち。子どもは泥のなかから指先を引き抜く。目の位置にまで掲げ、腕をつたってくるのたうつ虫たちを眺める。
愛でる。
空から雨が降ってくる。子どもは天を見上げる。泥で汚れた靴と靴下。濡れそぼったシャツとズボン。
家の内から子どもを呼ぶ声。子どもは振り向くが動かない。
家の内と外とを分ける扉。
子どもは帽子を投げ上げて駆けていく。虫はただ、溺れる。
叔父が亡くなった。母方の兄叔父で昭和6年8月15日生まれで86歳を前にして天寿を全うした。戦中戦後を生き抜き、幼い時は兄弟の食糧確保のため、関東、東北を駆け回り、成人してからは兄たちは見向きをしなかった家業の運送業を祖父から引き継ぎ、三男坊でありながら他の男兄弟よりも、子で唯一、親の面倒を見て、一家を支えたのである。子供二人、孫4人と子孫も残せた。全く裕福ではないが、その日その日を優雅に満喫しながら生きてこられた叔父であった。恰好をつけず、焼き鳥とコロッケを腹いっぱい食べるのが幸せと、酒も飲まず、とにかく満腹が至福の時で、祖父の家で夕食を共にすると午後4時過ぎが夕食の時間で食後銭湯へ、午後9時には早朝の仕事に合わせて寝るのである。仕事引退後は午前3時からパトロールの警官と一緒に近所を自転車で駆け回る生活。話好きで、誰とでも人懐っこく言葉を交わす、スピード違反でおまわりさんを煙に巻くのも得意技で、親が死にそうだと、寝ているものは立たす、立っているものは使う。仕事でも趣味でも思いっきり応援するから周りも自然と応援してくれる。私の初めての海外赴任時に成田へ見送りに来てくれて、海外経験のない上司に海外経験を聞いて、周りの社員から失笑を受けたこと。それから一時帰国して再度出発する際は叔母と海外旅行気分になれると、毎回、成田空港に足を運んでくれ見送りを受けたものでした。土産はいつも外国のスーパーの安いビスケットやチョコレートを楽しみにしてくれて質より量を愛する叔父でした。実家に寄ると近所の蕎麦屋のカツ丼が大好物でその食事風景は肉体労働者の食事を彷彿とするものでした。
亡くなる一週間前に母親と面会した時は寝たきりであったが、顔が見えないと不満を言い、聞こえる会話は正確に聞き分け、このまま長い寝たきり状態は困るなあという、心の声まで聞き取り、ちょうど一週間後、息を引き取ったのでした。
火葬場の収骨の際は、昭和一桁生まれでありながらかなりの骨太で骨壺に収納できるかかなり苦労をしました。今年は6月、7月肌寒い日が続いており、いつもの猛暑をまだ迎えていませんが、気候のいいうちに早く旅立ってくれた、最後まで家族思いの叔父でありました。
同じ昭和の時代を生き、60歳平成元年で旅立った父と昭和を過ぎて28年生きた叔父は近所の悪がきグループの一員でした。あの世でまた悪がきコンビ再結成できるでしょうか。
霊柩車を思わせる黒いワゴン車の後部座席で恵は梱包用フィルムで拘束されていた。転がされた恵にはタイヤがアスファルトを擦る音と自分の呼吸、頭に被せられた黒いポリ袋が膨らんで萎む音だけが聞こえていた。
本当は。男が言った。袋の口をもっと強く締めるんだ。そうすれば目的地に着く頃には死んでいて、とても合理的なんだ。
だが私は。男は続けた。これ以上彼らに付き合うことの合理性に疑問をもった。
車はカーブに差し掛かり、恵の身体は遠心力に引きずられた。
君は三人目だ。だが彼らは義理を盾に私を使い続けるだろう。だから。男は云った。合理的な判断を下す瞬間はありふれていて、今がそれなのだと思う。
男は沈黙した。恵は黙って呼吸を続けていた。男は一呼吸おいて尋ねた。いま解放したら君は私を殺すかい。恵は呼吸を弱めた。否定も肯定もしなかった。男は言った。私が彼らを殺すことはお互いにとって合理的だ。それに対象は私一人であるほうが君にとっては合理的だろう。どうかな。恵は頷いた。
恵は速やかに解放され、男に金を持たされた。そして車はもと来た道を戻って行った。恵はホームセンターに向かった。何かの事件に巻き込まれたとひと目でわかる姿だった。
男はアパートの床に跪き、塩素系漂白剤で血だまりの痕跡を拭っていた。一人は絞殺に成功したが、もう一人には刃物を使わざるを得なかったためだ。男は合理性に欠けてしまったことを自省していたところだった。不意にアパートの扉が開かれた。そこにはスレッジハンマーを担いだ恵が立っていた。
まだ処理が終わっていない。男は言った。恵はそれを無視して通り過ぎ、床に並んでいるかつて恵をさんざん嬲った今は転がる死体に過ぎないその男達の前に立った。恵はまず男達から着ている服を全て剥ぎ取り、尿道に串を突き立てて勃起に見立て――怪訝な表情を浮かべながらも手を貸そうとする男をたびたび制しながら――それらをお互いの口に含ませて性交中の体位に固定した。そしてスレッジハンマーで杭を打ち、二人を分かち難いひとつの存在にした。
いくら。恵は訊いた。男は合理性に欠ける恵の判断を嘆いた。恵は答えた。私にとってこちらのほうが合理的だ。男は提案した。処理を手伝うなら割り引くよ。恵は頷いた。二人の合理性が一致した瞬間だった。恵はスマホを取り出して作品を撮影した。
男は訊いた。何をしているんだ。恵は嬉しそうに答えた。復讐。
「あの人」に毒された母親のお遣いで、崇はスーパーへ来ていた。
六歳の腕力に余るオリーブオイルが満載された買い物カゴを引きずり、レジに辿り着いた崇の目に妙な物が飛び込んできた。レジ横のガムの棚にスーパーには似つかわしくない手書きのポップがついている。
『ゲキカタ注意報! 歯根に自信のない人は絶対に買わないで!』
崇は急いで油を一本戻し、そのガムをカゴに放り込んだ。
駐輪場。苦労してオリーブオイルを自転車のカゴに移し終えた崇はガムの封を切った。
――さて、お手並み拝見
二粒取り出して口に放り込む。一粒だとなんとなく物足りないのだ。
――お、これは……
売り文句通りにガムはかなりの固さだった。噛み始めて程なく、全ての歯にガムが絡みつき動かなくなった。
――俺を、舐めるなあああ!!
渾身の力を顎に込め、崇は口を開く。
「うおおおお!!」
口いっぱいに、鉄の味が広がった。カツンと音を立て、ガムがアスファルトに落ちる。ガムには、20本の歯がひっついていた。
――――!!
声にならぬ叫びを上げ、その場にうずくまる崇。その時、周囲が暗くなった。
顔を上げると、金髪を逆立て筋肉質な上半身をむき出しにした、要は北斗の拳のザコみたいな大男が太陽を背に立っていた。
「ボウズ、俺にもそのガムくれや」
「えも、こえ……」
全ての歯を失い、崇はうまく喋れない。
「心配すんな。俺の歯根は地下千メートルまでガッチリ根付いてるんだからよ」
男はそう言いガムを拾い上げた。
「おっ、こりゃ、なかなか……うおっ!」
崇同様、しばらく噛むと男の咀嚼が止まる。
「くおおお!!」
男は己の歯根に全てを懸ける。その時、地面が小刻みに震えだした。
「おおおお!!」
男が口を開く。歯は抜けていない。だが。
スーパーを中心に、南北一キロに渡る地割れが発生した。
崖っぷちで腰を抜かす崇。オリーブオイルの瓶が落ちて砕け、全身油まみれだ。傍らには北斗ザコが倒れている。
「アハハハハ!」
周囲に女の笑い声が響く。半壊したスーパーの入口に、店員のババアが立っていた。
「大地の封印は解かれた。大魔王の復活だ!」
ただならぬ気配に目をやると、奈落の底からドス黒い瘴気が立ち上っていた……。
崇はその後、オリーブの勇者に覚醒し魔王を倒す。そして北斗ザコの正体である大地の精霊の力で、早すぎる二十八本もの永久歯が生え歯並びがガタガタになるのだが、残念がら紙幅が尽きた。
「ドうぞ」
僕がそう言うと女は「キャリるね」と言って玄関へ入った。女は足早にミュールを脱ぎ、ユニットバスへと急ぐ。僕は鍵を閉めながら女の脱いだミュールを見た。女が別段、揃えたようには見えなかったミュールのかかとはキチンと合わせて置かれてある。女の育ちの良さを僕は関心した。
「ドうぞ」
僕が言うと女は「キャリるね」と言って紺色のスリッポンを脱いだ。相変わらずかかとは揃えられており、僕は自分のコンバースでもできるのかと、女がシャワーを使っている間に何度か脱ぎ履きを試みたが、女のようにかかとが奇麗に揃うことはなかった。
「ドうぞ」
女はモカシンを脱いだ。かかとはいつも通り揃っている。僕はモカシンの右足を掴んでその匂いを嗅いだ。新品の靴独特の革の匂いは微かに残っている。モカシンを戻すとき僕は少しだけかかとをずらして置いた。冷蔵庫から取り出した缶ビールを片手で持ったままパソコンで「シャワーを借りる女」と検索するが、女に関するであろう項目はヒットされなかった。缶ビールを一気に飲み干し横になる。それから、手を頭のうしろで組み、両肘を顔の前で合わすよう腕に力を込める。最近、右肩が痛い。起き上がって「四十肩」を検索する。自然に治るとある。女はかかとのずれに気付くのであろうか。
「ドうぞ」
履いていたモカシンを脱いだ女はユニットバスを使った。女はいつも三十分でユニットバスを出る。およそではなく、正確な三十分である。女は僕の前で髪を乾かす。僕の部屋にはドライヤーがない。だから、女はいつもタオルだけで髪を乾かしている。
「キャリるね」
ミュールを脱いだ女はそう言ってシャワールームへと消えた。女の動作は普通に靴を脱ぐ動作のように見えたが、脱がれたミュールは正しくかかとが揃えられている。僕は安心して玄関の鍵を閉めた。シャワーを終えた女はTシャツとジーパン姿でタオルを頭にかぶったまま僕の前に座る。僕はドライヤーを持っていない。だから女はタオルでいつも髪を乾かしている。女は八時四十五分に部屋を出ていく。それはいつも同じ時刻である。
女が部屋を出ていき、僕はシャワーを浴びる。シャワールームの中で随分と深呼吸を繰り返しても、女に関する残り香は微塵も感じとれない。
「ドうぞ」
コンバースを脱いだ女はシャワールームへ。僕は鍵を閉めた。形の崩れた僕のコンバースとは対照の輝く女のコンバース。かかとは揃えられている。
夕飯後、洗い物をしていると零くんが「あのさ」と真剣な顔をしてカウンター越しに声をかけてきた。
「何?」
顔をあげると随分近いところに零くんの顔があって、ちょっとビックリした。手に持っていたスプーンが手から滑り落ちて、シンクの上でカタンっと音がする。拾い上げてさっと洗って水きりに入れるボクを零くんはじっと見ていた。
「何か言いたいことがあったんじゃないの?」
ボクは零くんの視線から逃れたくて言った。
「あのさ」言いにくそうに口を開いた零くんから出てきた次の言葉は、彼のどうしようもない頭の中そのものだった。
「オレ、もしかして夜這いされてる?」
「は?」
思考がうまく回らなくて、何を言われているのかわからなかった。手から皿が滑り落ちて行かなかったことが幸いだ。
「ここ最近、起きたら全裸なんだよ。いっちゃん、もしかして……」
「ないです。夜這いなんてありえません」
ボクは大きな溜め息をついて、最後のお皿をすすいで水きりに立て掛ける。
タオルで手を拭いて、ボクはソファーに移動した。
「全裸って、どこまで脱がされてるの?」
一緒に移動してきて隣に座った零くんに尋ねた。
「全裸だって。パンツもはいてねーんだよ。おかしくね? だから、いっちゃんが夜……、イテッ」
零くんの言葉が終わらないうちに、ボクは零くんのおでこを叩いた。
「だ〜か〜ら〜、違うって言ってんじゃん」
夜、現場をカメラ撮影でもしたらいいじゃないか、と言ういっちゃんの提案で、オレは隠しカメラをセットして寝ることにした。でも、夜這いの犯人なんていっちゃんしかいなくね?
翌朝、オレはやっぱり一糸まとわぬ姿で寝ていた。隠しカメラがあると知っていて、いっちゃんも大胆だな、なんて思ってしまう。
寝てて記憶がないのが悔しいけど、夜の行為はこの隠しカメラがバッチリ押さえているから……、なんて思うと顔がにやける。
でも、録画した画像をどれだけ見てもベッドで寝ているオレしか映っていない。エアコンが切れたあたりからだろうか、寝返りが激しくなって、そして……。
ただいまってリビングに入ってきたいっちゃんに、「いっちゃん、オレ……」とガッカリして言ったら「暑くて自分で脱いでたんでしょ?」って返ってきた。
「24時間エアコンつけてたら? 機械の熱で部屋、暑くなるんでしょ?」
「知ってたんだ」って言うと、「まさか自分でパンツまで脱いでしまうなんてビックリだけどね」といっちゃんは呆れ顔だった。
特に山登りが好きではないのに、ある日の撮影の合間に実家の裏に山がある話をしたら次の企画モノが山ガールになってしまった。ロケーションはメジャーじゃないのがいいでしょってことで中央アルプスの某山が選ばれた。
衣装は最寄り駅のアウトドアショップでサイズに合うものを一そろい買ってもらった。どうせ今日しか履かないしいいかとも思うのだけど、登山靴もちゃんと店員さんにサイズを見てもらって買った。「この黄色の紐が可愛いんですよー」と笑いかけてくる彼女とは何となく目が合わせられなかった。
入山すると元登山部の血が騒ぐのか、さっさと登っていく男優の後ろで、私はぜえぜえ喘ぎながら必死についていく。やっぱりちゃんと登山靴選んでおいて正解だった。
監督に「じゃあこの辺で撮影しよう」と言われて、
汗だくの私はそのまま男優に挿入された。仕事のスイッチは入っているのに、なんとなく時間がいつもよりゆっくりに感じた。いつの間にか上がっていた息も普通のペースに戻った。男優に突かれながら半分くらい意識的に声を上げていた。通りがかる人はいなかった。蝉の声がうるさい。後背位になると土の臭い、草の臭いが強い。ハイカットの登山靴のせいで足首の自由がきかない。花火みたいな、でも全部白い花がすぐ目の前で揺れていた。揺れているのは自分だけど。花の匂いが嗅ぎたくて、息が自然荒くなる。それに応じて男優の動きが激しくなり、目の前で白い花火が大きく揺れた。熊よけの鈴がうるさい。瞬きもせずに花を見る私の顔をアップに撮ろうと動いたカメラマンが花を踏んでしまったので思わずワッと声が出て、その拍子に男優が射精した。
ガウンを着て仰向けに寝ると青空が遠い。さっきまで見ていた花がそこに咲いていた。目が痛くなるくらい瞬きせずにそれを見ていると、「山ガールの受難 愛欲の三点確保 濡れたゴアテックス……」今回の作品タイトル案を呟く監督の声が聞こえた。一瞬そちらに顔を向け、また空に向き直ると花はもう見えなくなっていた。
○月×日
今日は撮影で山に来たよー! 全身モンベルばっちこーい!
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スタッフさんにもらったインスタントラーメンおいしー!
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9月発売予定です! 監督さん! 売れたら焼肉おごってね! よろしく〜笑
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三郎が20代だったころ、暇があると妄想することがあってそれはOLを肩車して歩いている一匹の猿の姿だった。三郎はそこに卑猥さを感じていたわけではなくて、ただ猿と女の行進を頭のなかで眺めているのである。たとえばカフェにいって、一杯の珈琲をすすりながら、三郎はうっとりとした表情で頭のなかの世界を覗き込む。意味も心理学的考察も関係がなくて、ただ猿と女と三郎の世界がそこにはあった。
いつから猿と女は消えたのだろう。三郎は自分でもそのことに答えがだせない。だがある期間をもって、三郎の脳裏には猿も女も消えてしまって、自分の人生時間を注ぎ込んでいた妄想世界そのものを三郎は思い出さなくなっていた。第三者がみたならば、三郎の精神病がなおったというかもしれないし、三郎はようやく若者から「大人」になったのだというかもしれない。
ここに一人、アパレルに勤務する20代の女性がいる。名前は奈美といって、身長はそれほど高くないけれども8頭身で脚が長い。すらりとしているがグラマーでもある奈美が街を歩くと誰もが目を奪われてしまうとびっきりの美女である。その奈美にはひとつ秘密があって、それは奈美はいつも一匹の小猿を背負っているサラリーマンの姿を妄想してしまうのである。
サラリーマンはハゲていて、容姿もけっしてかっこよくない。奈美は自分がどうしてこんなことを想像してしまうのか理解できない。けれど背中にいる小猿はなんだか安心感がある微笑みとうっとりした目つきをしていて、奈美はこの小猿に自分を投影してしまう。そうすると急にハゲたサラリーマンに親しみをかんじるのであった。
或る日、三郎は都心のカフェへ行った。最近はカフェに行くこともない三郎である。大きな一枚板のテーブルに座った三郎はどうして今日はカフェなんかに来ちゃったんだろうなと苦笑していたのだが、目の前に座った美人に心底ドギマギしてしまった。美女は三郎よりはるかに年下で、ハゲている自分には高嶺の花にちがいなかったし、永遠に接点はない、あるはずがない、と三郎は思った。三郎はグイっと飲みほして席をたった。
奈美は休憩のカフェで顧客へハガキを書いていたが、目をあげるといつも毎日妄想にでてくるハゲたサラリーマンがいた。奈美は心臓が凍りつきそうに緊張し、ハガキに意識を集中しつづけた。目をあげるとサラリーマンはいなくなっていた。奈美はしばらくの間、動けなかった。
彼女には、噛み癖があった。
飴を渡せば数秒と経たないうちに噛み砕き、棒のアイスを食べれば木の棒をいつまでも噛み、ストローを噛み潰さないことはない。
「何ですぐ、噛むの?」
「なんて言うんだろ、欲求不満、みたいな?」
「それは噛んで満たされるの?」
「満たされる、いや、満たされないね。」
爪を噛んで不安や不満をやりすごす、という話を聞く。だが彼女にそれは当てはまらない。彼女の爪は飾り気こそないが綺麗で健康的、要は噛み跡がない。
「爪は噛まないの?」
「爪は違うね噛みたいと思わない。」
「歯ごたえありそうなのに、なんで?」
しばらく考え込む。そんな彼女は今もアイスの棒を噛んでいた。甘噛みなんてもんじゃなく、顎に力が入っているのが見てわかる。
「……ああそうだ。私は奥歯で噛みたいんだ。」
「奥歯?」
「そう。奥歯で思い切り噛みたい。噛み砕きたい。」
アイスの棒がミシリと音をたてた。
「要は歯がゆいんだ。だから子犬とかが家具の足を噛むの、あれすごいわかる。噛みたい。」
めき、と音をたて二つになった棒を彼女はゴミ箱へと吐き捨てる。まだ噛み足りないように彼女は歯を食いしばった。
「話変わるけど、ちょっと手を貸してくれる?」
「たぶんそれ、話変わってない。」
「大丈夫、痛くないようにするから。噛み砕いたりしないよ。」
「君の噛合力がどれくらいのものか知らないけど、少なくとも木の棒を噛み砕いたうえで提案すべきことじゃないよね。」
「さて、」
がっ、と腕を掴まれ、大した抵抗もできず僕の手は彼女の口の中へと突っ込まれた。ぬろりと舌が掌を這う。いたずらに手を嘗めた後、ぐっと顎に力を入れた。歯が柔らかい掌に食い込む。加減をするように、探るように徐々に力が強くなる。
淫猥な空気も熱っぽさも何もない。ここにはただ手を食むという行為だけがあった。何度か噛み心地を楽しむように噛まれる。出血はしないが歯形は残るだろう。
徐に口から手を引かれるが、未だ手首は掴まれたままだ。
「咀嚼っていうのはさ、愛なんだよ。」
「愛?」
「嘗めて、噛んで、唾液と一緒に飲み込む。そうすれば一つになれる。噛むことこそ、愛だよ。」
「じゃあ君は食べ物も愛してるの?」
「愛してるよ。」
また彼女は僕の手を口に含んだ。奥歯が強く僕の小指を噛んで、ミシリと嫌な音をたてる。
僕はいつか彼女に比喩でもなくなんでもなく食べられてしまうのだろう。
ただ行為に没頭するように彼女は、噛んだ。
黄色い服のひとが、夏の庭を横切っていった。
そのひとは満足そうに太っていて、腰の部分を古代人の服のようにヒモで結んでいた。
隣でうちわを揺らしている母にそのことを伝えると、母は外をすこし眺めたあと、私の小さな頭をなでながら、それはきっと目のサンカクですねと私に言った。お庭は塀に囲まれてとても狭いのですから、誰か知らないひとが歩いているはずはありません。きっとお庭に入ってきたお日様が、その黄色いひとに見えたのでしょうと。
私は庭に出てあちこちを確認したが、蝉のぬけがらくらいしかみつけられなかった。そして部屋の鏡を見ると、私の目はもうサンカクではなかった。
私はその夜、夢の中でふたたび黄色い服のひとを見た。黄色い服のひとは沢山ひとがいる遊園地の中を歩いていて、乗り物に乗るわけでもなく、ただ何かを探すように人ごみの中を進んでいた。
私は黄色い服のひとを追いかけているうちに迷子になってしまったが、不思議と不安はなく、このまま一人ぼっちでも生きていけるような気分になっていた。母はきっと悲しむと思うが、一人ぼっちで生きていくことを決めてしまえば、それはもう迷子ではないのだ。待っているひとや帰る場所があるから、人はそれを見失って迷子になってしまうのだと。
私がそんなことを考えているうちに、黄色い服のひとは風船を腰ヒモに結びつけ、夏の高い空へ昇っていった。
黄色い服のひとはきっと迷子なのだろうと、私は思った。
そしてある時、私は街なかで、眼鏡のレンズが逆三角形になっているひとに声をかけられた。
「お久しぶりですね」とそのひとは言った。「大人になっても、あなたは、やはりあなただった。そのことが僕はうれしいんです。もしそのひとに会ったとき、そのひとが違う人になっていたら、それはとても寂しいことでしょ?」
私は、探し物はみつかりましたかとそのひとにたずねた。
「まだみつかっていませんが、他にみつけたものがあります。迷子のあなたを今みつけましたよ」
そのひとはそう言うと、逆三角形の眼鏡をはずして私の胸ポケットに差しこみ、手を振りながらどこかへ歩いていった。私は「目のサンカク」を思い出してあわてて眼鏡を掛けたが、そのひとはもう、始めからいなかった人物のように姿を消していた。そのひとはもう、太っていなかったし黄色い服も着ていなかったが、会った瞬間、私は夏という季節が確かにあったことを思い出した。