第166期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 煮る わら 1000
2 画像の喪失 小松美佳子 996
3 半畳一間の礼拝堂 塩むすび 1000
4 銀座・仁坐・倫坐 Gene Yosh (吉田 仁) 999
5 講演会(後編) 岩西 健治 989
6 ババーキッチュ テックスロー 1000
7 サロメの白昼夢 秋澤 955
8 なゆら 1000
9 存続の条件 たなかなつみ 797
10 そのあと、どうするのか? わがまま娘 999
11 忖度な一杯 宇加谷 研一郎 1000
12 仕事 euReka 1000

#1

煮る

 深夜二時。眠れないので、キッチンに赴き鍋に水を張り、コンロにかける。
 考えても詮ないことばかりが鍋の底から泡となって沸き上がる。
 沸騰する鍋をしばし見つめる。ぼーっとするのは苦手なのだが、湯が目に見えて減る程度には放心していた。少々水を足すと、グツグツ沸く鍋がびっくりする。同じく、平静を取り戻す。
 リビングからノートを手にしてキッチンに戻る。『日記』とその表紙には油性マジックで記されている。
 調理用のハサミをノートの背に当て、数カ所切り込みを入れる。ハサミをしまい、ひと思いに切り込みから千切る。力任せに千切る。こんなことをしても何も断ち切れやしないのは自分が一番よく知っている。ならばなんなのだろうか、この儀式は。
 千切ったノートを数ページおきに今度は縦に千切る。だいたい五センチ角に千切った紙切れを鍋に投げ入れる。どんどん投げ入れる。目に入る文字列が、しっかり封じ込めたはずの記憶を刺激する。思い出が鍋から噴き出そうになったので、少々水を足す。
 同じ行為を繰り返す。一体、なんなのだろうか、この儀式は。
 全ての紙切れを鍋に放り終えて、菜箸でかき混ぜる。
 鍋を見ていると、ボールペンのインクが滲み、白よりも紫色が目立つ紙切れが浮かんでは沈む。だいたい一年分の私が生きた証が滲んでいく。少々水を足す。
 よくかき混ぜる。目立つ紙切れは箸で裂いていく。鍋が噴きそうになる都度、目の当たりにしたくない記憶がめくれ上がりそうになる都度、鍋に少々水を足す。何らかの化学物質を孕んだ湯気が目に染みる。恐らくあまりいいことではない。固い表紙を執拗に追い回し、繊維質がむき出しになるまで撹拌していく。
 どのくらい時間が経ったか、少なくとも、ここに記された日々の何十分の一にも満たない。
 鍋の中で水が干上がり、薄いノート――紙を形作っていた繊維とボールペンのインクは、紫がかった白い鈍重な塊に姿を変える。
 鍋からシンクに落とす。少々残った湯の温度とそれ自体の重みが、ステンレス面を間抜けな音を立てて凹ませる。キッチンペーパーを一枚手に充ててその塊を掴む。
 熱さでとっさに手を離す。その本質を喪ってなお私を苛むその塊に、できる限り最大限の侮蔑を込めた舌打ちを漏らす。
 もう三枚キッチンペーパーを足して、熱さに構わず掴んでゴミ箱に放り込む。
 部屋の湿気が尋常ではない。これだけ苦労したというのに、まだ眠れそうにない。


#2

画像の喪失

 私は「画像」を思い浮かべることができない。たとえば、母親の顔をまぶたに浮かべることができない。愛する人を思うときも、姿は脳裏に出てこない。
 人の頭の中は覗けないから、この症状は、客観的に検査することも、他の人と比べることもできない。
 そのため私は、自分だけが画像を思い浮かべられないという事実をずっと知らなかった。だから「まぶたの母」とか「目の前に思い浮かべる」というのは単なる比喩だと思っていた。
 初めて気がついたのはテレビで記憶術の番組を見た時だった。数字を絵に置き換えて、それが組み合わさった画像を思い浮かべればいいという。テレビの向こうではゲストがこの方法で驚くべき記憶力を発揮していた。私には絶対にできない。なぜって画像を思い浮かべられないから。
 気づいたときは大変なショックだった。
 とは言え、画像を全く記憶できないわけではない。母親の顔を思い浮かべることはできなくても、集合写真の中から母親を見つけ出すことはできる。友達に会えば誰だかわかる。夢の中には画像が出てくるし、母親の夢を見ることもできるから。絵も、人並みに描くことができる。頭の中に画像がなくても紙の上の絵を少しずつ修正していけば人並みの絵にはなる。
 私は思い切って精神科の医者の診察を受けてみた。医師の記憶では私のような症例の報告は過去にないとのことだったが、「あなた、何か不具合がありますか。我々医師は不具合が生じないと患者さんを扱いようがないんです」といわれてしまい、二度と受診しなかった。

 それから一年ほどたったある日、私のもとに一人の男が訪れた。男は「画像再現障害患者の連絡協議会議長」という名刺を私に示し、男にも私と同じ症状があるという。
 私のことをどこで知ったのか訊くと、彼はこう答えた。
「今はビッグデータの時代です。すべてのデータは整理され蓄積されている。あなたは以前医師の診察を受けていますね。全国の病院のカルテも例外ではありません。個人情報の悪用は犯罪ですから、これは極秘裏に行われています。私どもも、同じ障害を持つ者の絆を深めるためにデータを利用させていただいているんです。
 あなたの症状は極めて典型的です。あなたこそ会長に相応しい。本日は会長就任のお願いに参上しました」
 私は即座に断り、お引き取りを願った。
 しかしそれ以来毎日男はやってくるようになった。今日もドアの前にあの男が立っている。


#3

半畳一間の礼拝堂

 痛みはまだ遠く、遥か後ろでさざめく予兆に過ぎなかった。
 事のはじまりはこうだ。普段あまり連絡を取らない兄から電話があった。派遣先の職場にいる豆腐と変な草から煮出した茶を主食として暮らす女子が服用している薬について知りたいということだった。薬にあまり明るくない兄からの幾日かに渡る聞き取り調査の結果、それらの薬は抗うつ剤、胃薬、鎮痛剤、睡眠導入剤であることがわかった。その後しばらくして兄から割のいいバイトを紹介された。ある薬と決められた食事のメニューのみで過ごしたとき体に現れる変化を調べたいから協力して欲しいということだった。
 今日がその最終日で、さきほど最後の薬を服用したところだ。今日は一錠多かった。覚悟はあった。
 こんなことをするよりも舌先をスプリットしたり見えそで見えないところに怖め可愛めのタトゥーを彫ったほうが近道だとは思ったが家族にそんな人間がいてほしくないので黙っておいた。これが私なりの座敷牢というわけだ。
 豆腐と変な草から煮出した茶で暮らす日々も今日で終わりと思うと感慨深い。あとは汚い金を神社にでも奉納しておしまいだ。
 遠くでくすぶっていた痛みは地震のように現れた。手を組み、肘を膝の上に立てて備える。とてつもない痛みで顔の神経までひきつった。だがやつらはいっこうに降りてこない。これはなんの罰ですか。わたしに罪があるならお許しください。あわれみをください。
 お前の罪は。そういいながら天狗が鼻から現れた。血の誓いの証を捨てようとは何事か、よもやそれを受け取れなど言語道断、腹がそんなに痛むならかっさばいて死ぬがよい。卑猥な鼻を額まで反り返らせて天狗はすげー怒ってた。
 意識が戻り、無数の黒い塊が水に沈んでいることに気が付いた。ハートの形にまとめて可愛さをアップさせる。ウォシュレットで掃除し、紙は屑籠へ。扉のすぐ外では顔を上気させた兄が現金と箸を握り締めて待っていた。

 汚い金は天狗の登場によって呪われてしまった。なので百均でラミネートフィルムを購入し高尾山を訪れた。パワースポット風のでっぱった岩の上でパウチ完了。喜べ、魔を祓う符は完成した。
 参道では初夏の陽射しをブナがやさしく遮っていて、そのコントラストの中にラムネ売りの巫女の赤い服とそこから覗く汗の浮いた白い肌がきらきらとゆらめいていた。食事の縛りはもうないし、せっかくなので巫女からラムネを買って飲んで帰った。


#4

銀座・仁坐・倫坐

ロンドンは初夏の猫の目天気の中であった、6月の下旬は午後11時近くまで明るいそして午前3時半には東の空が白みかける北海道より緯度は北にあり、外でのレジャーが仕事帰りにも十分楽しめる季節であります。しかし、完璧に晴れていてもあっという間に雷雨が襲ってきて、しかし、夕立ではなく朝から夜中までロンドン市内はいつにわか雨が局地的に襲ってくるかわからない天気の時期であります。とてつもない量の雨が襲ってくることがあり、天気予報もなかなか予想できない特異な天気であります。
その中、6月23日、EUから離脱するかどうかの国民投票が行われ、EU離脱が決定的となりました。通貨はエリザベス女王が描かれているポンド紙幣は捨てられず、北欧の諸国と同様に自国の通貨を使用していましたが、英国民であれば、EU域内はパスポートなし行き来が可能で、2005年に拡大した東欧諸国からの移動は自由になり、英語の得意でない若者が仕事を求めて英国内に流入し、英国人の好まない3K職種にも積極的に取り組みよい効果が得られたような時期もありました。しかし、遡ること100年前後の時代は、王室を捨てた、フランスドイツ、維持しているオランダ、ベルギー、スペイン、法王のバチカンのイタリアなどと比べ奔放な王室であった大英帝国は、侵略の歴史のある各領域を堅持していたのだが、英語圏のヨーロッパ唯一の国となって、アメリカの影響を逆輸入して、欧州大陸の国々とたもとと分かち合ってきた時代に更にNOを突きつける結果となった、英国ポンドの大暴落により、為替、株式相場の時価価値の減少と、後悔してもどうにもならない経済危機が起きてしまったのであります。日本から学生の時に英国に渡った日本人も、すでに70歳を超え企業活動の引退の時期になり、その後の金融、商社などの日本企業の統廃合、撤退により、駐在員は激減し、移住した日本人も減少した現在、このEU離脱は邦人減少に拍車をかけるのではないでしょうか。ウィンブルドンの全英テニス選手権も始まりますが、あの元プロテニスプレーヤーの日本一熱い男も暴れまわったロンドンの夜の街も、歴史のあるピアノバーから焼肉レストランの地下のカラオケ店まで、男子に比べ衰えない女子留学生のナデシコパワーにより、ニューヨーク、香港に並ぶ、クラブ活動の場が、更に発展するか、衰退するか。離脱までの今後、2年間を見守っていきたいと思います。


#5

講演会(後編)

 会場が暗くなり、司会者は講演者の安永先生の略歴を説明した。
 安永先生は、幼少期に父親を事故で亡くされ、お母さまの手ひとつで育てられていましたが、先生が十五歳の夏、無理のたたったお母さまが結核で倒れ、しばらくしてお亡くなりになられました。それから漢方医をしていた親戚の家へ引き取られ、苦学の末、医大まで進み、漢方薬についての論文、それもアナクロバイサイという薬草についての論文で博士号を取得されました。それから先生はアナクロバイサイの原産地であるベトナムに就き、そこで研究を重ねられアナクロバイサイの人工栽培を日本で初めて成功させたのであります。
 講演の最後に先生が、我々の健康はアナクロバイサイのおかげです、とどうどうと三回言ってのけ、それに続いて聴講客の大半が先生の言葉を復唱する。わたしはそれが何の前触れなのか分からず、隣に座っていた日置さんをちらりと見やった。
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
 わたしは直感に近い感覚で心臓があぶれ出るのを必死で抑えた。薄やみの中で光って見えた先生の姿が立ちくらみのように黒くかすむ。耳にはさらに大きく、我々の健康はアナクロバイサイのおかげです、という響きが言葉ではなく強烈な音として強くこだましてくる。安田さんは口をぽかんと空けたままで時間が止まったかのように瞬きをしていない。
 先生が壇上でお辞儀をすると、割れんばかりの盛大な拍手がわき起こった。それでわたしもつられて形だけの音のない拍手をした。
 講演終了のあと、司会者は、うしろに少ないですが新商品も含め用意してありますのでご購入はそちらからお願いします、と言って壇上をあとにした。拍手は直、まばらになる。幾人かの人が既に立ち上がり、我先にと会場後方へひしめきあおうとしている。会場後列にいたわたしはそれに巻き込まれないよう、壁際に移動したかったが、中年の女性カバが突進してくるかのような勢いにあっけにとられて動けない。カバに正面から突進された安田さんはまだ口を開けたままだ。
 日置さん、お久しぶりです、松村です。まだまだ寒い日も続きますが、お体に気をつけてお過ごしくださいますよう、などとメールの文面を翌日おこして、それに腹がたって消した。
 日置さんとは今後連絡を取るのをやめる。


#6

ババーキッチュ

 しばらく染めていなかったので頭頂部から分けた髪の生え際から白髪が目立つようになった。トイレで手を洗って頭を上げたときに気付いた。白い化け物が頭皮を破って昔見たエイリアンの映画のように飛び出してくるようだ。
 化け物といってチラッと連想したのがうちの婆様だったことに、少しの衝撃と諦めが混ざった感情を覚えた。数年前に認知症を患い、歯も全部なくなってしまい、今は流動食しか食べられない。しわだらけでいつも笑っているようにも見えるその顔は、若いころは無理をして笑っているのかと思っていた。自分はあまり話がうまいわけでもなく、黙り込んでしまうことも多かった。そんな自分の横で彼女はいつも笑っていた。今婆様となり、認知症となった彼女の笑った顔を見ると、無理して笑っていたわけではなかったのだと思い、少しほっとした。いや、もしくは。とそこまで考えたとき
「あー」
 音量調節がきかないのだ。とても大きな声で婆様は自分を呼んだ。オムツには大きい方がついていて、とても現実感のある臭いを放っていた。交換したオムツを捨てに行くと窓の外には昇りかけの満月が赤い。

「いつも来てくれていますね」
 握手会でそういわれてその子の列に並んだのはまだ2回目なのに、と思って顔を見ると、にっこりとした屈託のない笑顔があった。アイドルを追っかけていると作られた笑顔というものには抵抗がなくなる、というより作為的な笑顔はファン活動に織り込み済みのものなのだ。それを分かったうえで追いかけるのが偶像なのだが、その笑顔には屈託がなかった。といってしまうとさらにもう一段階面倒くさくなった周りが見えていない典型的なアイドルファンになってしまうのだが、結果として結婚できたのだから今はもうどちらでもいい。
 彼女の実質の活動期間は2年だった。大した人気もないので脱退前に付き合っても全然話題にもならなかったが、彼女は脱退までキスすらさせてくれなかった。脱退後、「ありがとう」なんて言ってひどくまじめな顔をしてキスをしたのを思い出す。それから50年だ。

 ベッドに戻ると、婆様が月を見ていた。しわだらけなのに笑っておらず、ちいさな目を皿のようにして。こちらを向いた彼女はそっとするほど悲しかった。口をもごもご動かすので聞き取ろうと耳を近づけるとその必要もないくらいはっきりした声で
「きっちゅ」
 彼女の歯茎が俺の前歯に当たる。もごもご俺は夢中で口を吸ったね。


#7

サロメの白昼夢

ずっと、ずっとほしいものがあった。それは私のものにならないことはわかっていた。でも、ほしかった。

「欲しかったものは手に入った?」

私の目の前で彼は嘲るように笑う。あるはずのない喉を震わせ。銀の皿の上で、彼の首は笑う。

「これで手に入ると思った?」

思った。思ったから、奪った。何も知らない彼に毒を盛った。彼の好きなコーヒーに混ぜて。あっけなく、動かなくなった。それから、彼は大きすぎるから、小さくした。いつでも一緒に居られるように。のこぎりで、首を落とした。体には石を詰めて、近くの池に沈めた。誰にも見つからないように。

「そんなに俺が憎かった?」

逆、私はずっと愛してた。なのに、秋には姉と結婚するというから。だから、取られる前に、手に入れた。
呵々、と笑うと皿の中の血が揺れた。生臭さが鼻につく。蝉が激しく鳴いた。
私と彼は逃げた。誰にも告げず、遠くへ、遠くへ。
私が持ち上げると、彼はぴたりと笑うのを止めた。ぽたり、ぽたりと血が滴る。体温はない。ぐにゃりとした肉の感触と共にすえた血の匂い、肉の腐る匂いむせ返るような刺激臭が部屋を埋め尽くした。


風鈴が鳴った。
涼しげなそれに目を覚ます。どうやら私は縁側で寝ていたらしい。蝉がけたたましく鳴き、桶に入っていたスイカはすでにぬるくなっていた。
随分と物騒な夢を見たものだ。

さしづめ、彼はヨハナーン、私はサロメの役回りだろう。ヨハナーンの首を望んだサロメは、生首に口づけを落とした。

ふと、机の上を見る。朽ちかけた笑う生首は、ない。当然だ。この炎天下そんなものが本当にあったらここら一帯、腐臭で大変な騒ぎになっているだろう。しっかり処理しなくては、美しさは保たれない。余計な肉を削ぎ、こびり付くものは虫に食わせる。それからしっかり磨く。

私はサロメじゃない。彼はヨハナーンじゃない。
ただ考えずにはいられない。私と彼女の望みは、果たして何だったのか。

むしむしとした部屋、鼓膜の奥で蝉の鳴き声が反響した。こめかみに浮かんでいた汗が頬を滑る。

そうだ、確かこんな暑い日だった。肌を伝う汗、響く蝉の鳴き声、夕立近く匂いたつ地面。
記憶を嘗めるように、私はひんやりとしたしゃれこうべを手に取った。

朱塗りの彼は、笑ったりしない。

嗚呼随分と、懐かしい夢を見た。


#8

自我が破裂して、外に飛び出て、私は虎になった。
なった、と言っても一瞬ではない。気を失って、目覚めたら虎だったというわけではない。
最初は、のどの奥、吐き気がしたので、吐いてしまおうと嘔吐いて、奥にあるものを押し上げた。奥にあるものは意外な大きさで、のどを通り抜けた、そこに詰まるかと思ったが、固いわけではなく、ゼリーのように変形するのだろう、すんなりとのどを通り抜けて、口にやってきてさあ、口から放とうと、私は意識的に下を向いた。すると、奥からあがってきたものは口にとどまっている。とどまってそのさらに上、鼻の方へと上っていく。鼻の裏をこそこそと、ゼリーかと思っていたそれは、細かい綿のように、軽く、鼻の奥をなでるのだ。今度はくしゃみが出そうになる。だったらくしゃみを出してやろうと咳をした。しかしこそこそがやまない。さらにくしゃみはもう、出したくて出したくてたまらない。なのにいくら咳をしても、気持ちのよいくしゃみが出ない。そのうち後頭部が鈍く痛みだした。これは神経だな、とぼんやり思った。神経がやられているらしい。もう私はダメかもしれないと感じた。そのときぴしっと音がして、左頬のところがびりびりと破れだした。もちろん驚いたけれど、後頭部の鈍痛がだんだんひどくなってきている。左頬はもう完全に破れてしまったが、不思議と血が流れている様子ではない。なにより痛みはなにもない。というか鈍痛ががんがん、音を立てだした。痛みは薄らいでいくが、耳が破れそうな音だった。怖くなって、叫んだ。もう人の声ではなかった。獣の声だった。私は手で顔を覆った。手袋を外すように、手がもげた。長い爪がそのもげたもとにあった。爪はするどく、殺傷能力が高そうだった。自分のものかどうか疑問だった。右手で爪を引っ張った。手がついていた。けむくじゃらで鋭い爪がついている手だ。その手が動き出し、勝手に私の顔を殴りつけた。皮膚は完全に破れて、ぬるぬるした透明の液体が漏れた。私の顔は地面に落ちた。へちゃ、という音が鳴る。それを見ている私は誰なのだ。死んでいない。決して頭がもげたわけではない。皮がむけたのか。叫ぶ。叫びたいが、それは獣の雄叫びそのものだ。私はするどい爪を地面に突き立てる。怒りが全身を覆っていた。力任せに引き裂きたい。獣としての本能が私を突き動かした。ちょうど通りかかった兎が、私の姿を見て立ちすくんだ。私は虎だった。


#9

存続の条件

 わたしのライフは複数あり、それぞれが別べつの場所で息づいている。どこかのわたしが生きながらえることができなくても、どこかのわたしが生きながらえる。それはわたしが生き延びるための本能のようなもの。わたしはここにいてここにいない。わたしはあそこにいてあそこにいない。どこの足場にも全体重を乗せきることなく、ふわりふわりと飛び回って生きている。
 わたしには名前がない。あるいは複数ある。こちらのわたしとあちらのわたしとは異なる名前で呼ばれており、その双方がわたしであるが、その双方ともがわたしではない。わたしの足は複数あり、それぞれ別の場所を踏みしめている。わたしの足は飛び回りながら幻影を生み出し、そのそれぞれが目撃され、新たな名前を付けられる。それはわたしであり、わたしではない。あるいは、わたしであったもの。
 わたしの卵はわたしの足の裏からそれぞれの足場に植え付けられて成長する。卵から出てきた目は、周囲を抜かりなく見回し、新たな自身の足場を探す。移動が間に合わなかった目は、わたしの足の下で潰されて朽ちていく。新しい卵がさらにそこへ植え付けられて目を出す。小ずるく立ち回ることのできた目は、潰れた目を栄養元として成長する。
 そら、そこに新しいわたしがいる。新しいわたしのライフがある。複数の足をもつライフは複数の足場を縦横無尽に走り、また新たなわたしのライフが叢生する。新たなわたしの幻影を創生する。新しい名前が空気のなかを飛び交う。それはすべてわたしであり、すべてわたしではない。わたしは朽ち果てることがない。わたしは絶えることがない。わたしは分裂し続ける。分裂して生き延び続ける。
 わたしではないなにものかになって、けれどもわたしのまま、わたしのライフは存続する。わたしはわたしという名の生き物。わたしはわたしという名の軌跡。消滅から遠ざけられた奇跡の旅人。
 定住することを知らぬもの。


#10

そのあと、どうするのか?

花火を見に行こう、とキミがメールを送ってきた。外は暑いし、人の多いところは嫌がるし、挙句、蚊に刺されるからと夜の外出は殆どしないのに、今日は花火が見たいらしい。
現地集合ね、とメールにあったから、急いだけどちょっと遅刻だ。終業後に人の集まるこんな場所に車で来て、若干の遅刻で済んだのが奇跡だ。
「アッ君、お待たせ」
ボクより更に遅れてキミがやってきた。いつもよりずっと可愛いって思うのは、きっと浴衣のせいなんだろうか。
「浴衣、着てきたんだ」って言ったら、「そう、ちょっと気になることがあってさ」とキミが言う。
「早く行こ」カラカラと音を立ててキミは歩き始めた。キミの後ろ姿を見ながら、夏マジックとはこういうことなのか、なんて思う。

適当な場所で立ち見をした。たくさん人がいて、立ちっぱなしで、暑かったせいかもしれない。キミは「アッ君が暑い!!」と言ってボクから離れていたのに、気が付いたらボクの腰に手を回して、ボクにもたれかかっていた。
いつもと違う格好をしてるってだけでボクはドキドキしていたのに、そんなにくっつかれたら余計にボク自身が熱くなってしまう。
全ての花火を見終わって、駐車場まで移動する途中、ずっとボクにもたれかかっているキミに「大丈夫?」って声をかけたら、「アッ君、ムラムラしてきた?」って返ってきた。
「私はもう、暑くて耐えられないけど」
イラッとして、このままここでどうにかしてやろうか、と思ってしまう。まさか、そんなことの為にボクにくっついていたのか。そして、ボクはまんまとそれに嵌まったというのか。
ボクの表情で何かを察したキミは「その後、アッ君どうする?」って聞いてきた。「何が?」ちょっとムッとした声が出る。
「すごい肌蹴ることになるんだよね。アッ君、直せる?」
言っていることが分かった。キミが気になっていたこともわかってしまった。つまり、浴衣を着た人と青姦した後どうするのか? ってこと。
「殆ど帰れないと思うんだよ。着付けなんてまともにできる人ばかりじゃないし」
つまり、それを確認したくて今日は浴衣を着て試行錯誤した末に、浴衣を着たからとりあえず花火でも見に行こうか、と思ったってことか。
「試してみる?」って言ったら、「蚊に刺されるかもしれないから、アッ君がオオカミになった時は、大声で叫ぶ」って、真顔で言われた。

嫌がる相手だと青姦ではなく強姦だから、この話は成り立たない、そういうことか。


#11

忖度な一杯

 吾郎は一年365日、どこかの飲食店でコーヒーを飲んでいる。

「仕事がある日は行ったことのない店を、休日は好きな店に再訪を」というルールを決めて、毎日その日訪れた店の名と感想を手帳に記していく。べつにルールに対して罰則があるわけではないけれども、自分の自由な時間こそ、ルールをつくって守っていくべきだと吾郎は考えているのである。
 
 吾郎のこんな趣味をはじめて聞いた人は、さぞかし吾郎にはコーヒーへのこだわりがあって、自分たちが飲んでいる缶コーヒーやインスタント、ファーストフードのコーヒーをバカにするのだろうなあ、と想像するらしいのだが、吾郎はインスタントコーヒーも飲むし、ハンバーガーショップで飲む100円のコーヒーも嫌いではない。

「僕は思うのだが、美味いものを美味いということは大事だけれどもそこに愛情は存在するのだろうか。僕はコーヒーが好きだ。だからこそどんな不味いコーヒーでもコーヒーがそこにある限り愛したい。そもそも味わうとは一方的な受け身でいいものだろうか」
 
 ある日吾郎が飲んだコーヒーは、普通の愛飲家が飲めば激怒するようなもので、自家焙煎なのだろうが、おそらくハンドピックしていないイエメンのモカをおそろしく焼きすぎたものにちがいなく、ドリップで淹れていたのだが途中電話の応対などしていて抽出に10分以上かかっていた。当然冷めていて、色はドス黒く濁っており、一口飲むとツーンとくる酸っぱさとエグみが口に広がって、それがいつまでも消えない。
 
 吾郎はそのコーヒーを飲みながらイエメンのスラム街にあるであろうドブを想像する。灼熱のアラブの太陽の下で、コーヒーの実を乾燥させる仕事をしているであろう若者がある日すべてが馬鹿らしくなってスラム街へ。想像はドブに横たわる彼の死で終る。暗澹。それもまた世界だ。
 
 ある日、深夜のファーストフードに入った吾郎を迎えたのは、目が醒めるほどの美貌の女性二人で、吾郎は呆気にとられてカウンター席で居然とする。手帳にかいたのは「虚朗玲瓏な一杯」。世界そのものがピカピカしてきれいで、無限の明るさのようなものをそのとき感じたのだった。

 さて今日吾郎が訪ねた店は、その道50年の珈琲専門店。どんな場所でも毅然とコーヒーと真正面から向き合う吾郎であるが、無駄な動作がひとつもなくきっちりネルで3分。できあがったコーヒーがそっと出される。吾郎は「忖度」と書き記した。


#12

仕事

 がるがるがるーは夏を知りませんが、春に生まれた子どもや秋に死んだ猫のことは知っています。空を飛べる動物が忘れた頃にやって来て、がるがるがるーにいろんなことを教えてくれるのです。
「この家に来ると、俺はいつも歓迎されてない気がするね」と空を飛べる動物は言いました。
「気のせいよ」とがるがるがるーは言葉を返しながら、ついさっき動物が入ってきた窓を閉めました。「きっと寒さのせいで、楽しいことを思い出せないだけ」
 部屋の温度計はマイナス273℃を指しています。この温度になると世界が完全に動きを止めてしまうのですが、その温度が上がらないように冬の家を守るのががるがるがるーの仕事なのです。
「じつは君に夏の手紙をあずかっていてね」と空を飛べる動物は言いながら、手紙を差し出しました。「夏の物をうっかり冬の家に持ってくるのは危険だけど、1万年かけて凍らせてきたからね」
 がるがるがるーは湯気の立つコーヒーをテーブルに置くと、胸に手をあてて呼吸を整えました。

「はじめまして。わたし夏子です。
 でも、わたしは夏が嫌いです。
 でも、夏しか知らないから、それが嫌いかどうかなんてほんとうはわからないことです。
 だから、もしあなたのことをいろいろ知ることができたら、夏のことや自分のことも違うふうに思えるかもしれません。
 だから、思い切ってあなたに手紙を書くことにしました。

 ところであなたは、わたしと同じ女の子なんですってね!
 わたしとはまるで逆の冬の家に棲んでいることや、世界を凍らせるための温度を守っていることも動物にききました。
 きのう夢の中で会ったあなたは、とても物静かで、きれいな金色の髪をしていましたね。
 春に生まれた子どもや、秋に死んだ猫も一緒でした。
 わたしたちは夢の中でいろんなことを話したのよ。
 季節と温度を守る理由とか、嘘と秘密の違いとか。
 でも目が覚めると、氷が溶けたあとみたいに話が思い出せないの。一番知りたかった、あなたの顔もね。

 夢の中じゃなくてほんとうに会えたら、あなたの顔を10万年くらいじっくり眺めるつもり。
 でもこの手紙を書いてるとね、テーブルの向かいにあなたが座っているような気分になるの。
 あなたは温かいコーヒーを飲みながらわたしの手紙を読んでいる。そして空を飛べる動物は疲れて眠ってるの。
 夏の家の温度はいま250万℃です。そして世界を燃やし尽くす温度を守るのが私の仕事。」


編集: 短編