第166期 #6

ババーキッチュ

 しばらく染めていなかったので頭頂部から分けた髪の生え際から白髪が目立つようになった。トイレで手を洗って頭を上げたときに気付いた。白い化け物が頭皮を破って昔見たエイリアンの映画のように飛び出してくるようだ。
 化け物といってチラッと連想したのがうちの婆様だったことに、少しの衝撃と諦めが混ざった感情を覚えた。数年前に認知症を患い、歯も全部なくなってしまい、今は流動食しか食べられない。しわだらけでいつも笑っているようにも見えるその顔は、若いころは無理をして笑っているのかと思っていた。自分はあまり話がうまいわけでもなく、黙り込んでしまうことも多かった。そんな自分の横で彼女はいつも笑っていた。今婆様となり、認知症となった彼女の笑った顔を見ると、無理して笑っていたわけではなかったのだと思い、少しほっとした。いや、もしくは。とそこまで考えたとき
「あー」
 音量調節がきかないのだ。とても大きな声で婆様は自分を呼んだ。オムツには大きい方がついていて、とても現実感のある臭いを放っていた。交換したオムツを捨てに行くと窓の外には昇りかけの満月が赤い。

「いつも来てくれていますね」
 握手会でそういわれてその子の列に並んだのはまだ2回目なのに、と思って顔を見ると、にっこりとした屈託のない笑顔があった。アイドルを追っかけていると作られた笑顔というものには抵抗がなくなる、というより作為的な笑顔はファン活動に織り込み済みのものなのだ。それを分かったうえで追いかけるのが偶像なのだが、その笑顔には屈託がなかった。といってしまうとさらにもう一段階面倒くさくなった周りが見えていない典型的なアイドルファンになってしまうのだが、結果として結婚できたのだから今はもうどちらでもいい。
 彼女の実質の活動期間は2年だった。大した人気もないので脱退前に付き合っても全然話題にもならなかったが、彼女は脱退までキスすらさせてくれなかった。脱退後、「ありがとう」なんて言ってひどくまじめな顔をしてキスをしたのを思い出す。それから50年だ。

 ベッドに戻ると、婆様が月を見ていた。しわだらけなのに笑っておらず、ちいさな目を皿のようにして。こちらを向いた彼女はそっとするほど悲しかった。口をもごもご動かすので聞き取ろうと耳を近づけるとその必要もないくらいはっきりした声で
「きっちゅ」
 彼女の歯茎が俺の前歯に当たる。もごもご俺は夢中で口を吸ったね。



Copyright © 2016 テックスロー / 編集: 短編