第166期 #5

講演会(後編)

 会場が暗くなり、司会者は講演者の安永先生の略歴を説明した。
 安永先生は、幼少期に父親を事故で亡くされ、お母さまの手ひとつで育てられていましたが、先生が十五歳の夏、無理のたたったお母さまが結核で倒れ、しばらくしてお亡くなりになられました。それから漢方医をしていた親戚の家へ引き取られ、苦学の末、医大まで進み、漢方薬についての論文、それもアナクロバイサイという薬草についての論文で博士号を取得されました。それから先生はアナクロバイサイの原産地であるベトナムに就き、そこで研究を重ねられアナクロバイサイの人工栽培を日本で初めて成功させたのであります。
 講演の最後に先生が、我々の健康はアナクロバイサイのおかげです、とどうどうと三回言ってのけ、それに続いて聴講客の大半が先生の言葉を復唱する。わたしはそれが何の前触れなのか分からず、隣に座っていた日置さんをちらりと見やった。
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
「我々の健康はアナクロバイサイのおかげです」
 わたしは直感に近い感覚で心臓があぶれ出るのを必死で抑えた。薄やみの中で光って見えた先生の姿が立ちくらみのように黒くかすむ。耳にはさらに大きく、我々の健康はアナクロバイサイのおかげです、という響きが言葉ではなく強烈な音として強くこだましてくる。安田さんは口をぽかんと空けたままで時間が止まったかのように瞬きをしていない。
 先生が壇上でお辞儀をすると、割れんばかりの盛大な拍手がわき起こった。それでわたしもつられて形だけの音のない拍手をした。
 講演終了のあと、司会者は、うしろに少ないですが新商品も含め用意してありますのでご購入はそちらからお願いします、と言って壇上をあとにした。拍手は直、まばらになる。幾人かの人が既に立ち上がり、我先にと会場後方へひしめきあおうとしている。会場後列にいたわたしはそれに巻き込まれないよう、壁際に移動したかったが、中年の女性カバが突進してくるかのような勢いにあっけにとられて動けない。カバに正面から突進された安田さんはまだ口を開けたままだ。
 日置さん、お久しぶりです、松村です。まだまだ寒い日も続きますが、お体に気をつけてお過ごしくださいますよう、などとメールの文面を翌日おこして、それに腹がたって消した。
 日置さんとは今後連絡を取るのをやめる。



Copyright © 2016 岩西 健治 / 編集: 短編