第166期 #2

画像の喪失

 私は「画像」を思い浮かべることができない。たとえば、母親の顔をまぶたに浮かべることができない。愛する人を思うときも、姿は脳裏に出てこない。
 人の頭の中は覗けないから、この症状は、客観的に検査することも、他の人と比べることもできない。
 そのため私は、自分だけが画像を思い浮かべられないという事実をずっと知らなかった。だから「まぶたの母」とか「目の前に思い浮かべる」というのは単なる比喩だと思っていた。
 初めて気がついたのはテレビで記憶術の番組を見た時だった。数字を絵に置き換えて、それが組み合わさった画像を思い浮かべればいいという。テレビの向こうではゲストがこの方法で驚くべき記憶力を発揮していた。私には絶対にできない。なぜって画像を思い浮かべられないから。
 気づいたときは大変なショックだった。
 とは言え、画像を全く記憶できないわけではない。母親の顔を思い浮かべることはできなくても、集合写真の中から母親を見つけ出すことはできる。友達に会えば誰だかわかる。夢の中には画像が出てくるし、母親の夢を見ることもできるから。絵も、人並みに描くことができる。頭の中に画像がなくても紙の上の絵を少しずつ修正していけば人並みの絵にはなる。
 私は思い切って精神科の医者の診察を受けてみた。医師の記憶では私のような症例の報告は過去にないとのことだったが、「あなた、何か不具合がありますか。我々医師は不具合が生じないと患者さんを扱いようがないんです」といわれてしまい、二度と受診しなかった。

 それから一年ほどたったある日、私のもとに一人の男が訪れた。男は「画像再現障害患者の連絡協議会議長」という名刺を私に示し、男にも私と同じ症状があるという。
 私のことをどこで知ったのか訊くと、彼はこう答えた。
「今はビッグデータの時代です。すべてのデータは整理され蓄積されている。あなたは以前医師の診察を受けていますね。全国の病院のカルテも例外ではありません。個人情報の悪用は犯罪ですから、これは極秘裏に行われています。私どもも、同じ障害を持つ者の絆を深めるためにデータを利用させていただいているんです。
 あなたの症状は極めて典型的です。あなたこそ会長に相応しい。本日は会長就任のお願いに参上しました」
 私は即座に断り、お引き取りを願った。
 しかしそれ以来毎日男はやってくるようになった。今日もドアの前にあの男が立っている。



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