第166期 #1
深夜二時。眠れないので、キッチンに赴き鍋に水を張り、コンロにかける。
考えても詮ないことばかりが鍋の底から泡となって沸き上がる。
沸騰する鍋をしばし見つめる。ぼーっとするのは苦手なのだが、湯が目に見えて減る程度には放心していた。少々水を足すと、グツグツ沸く鍋がびっくりする。同じく、平静を取り戻す。
リビングからノートを手にしてキッチンに戻る。『日記』とその表紙には油性マジックで記されている。
調理用のハサミをノートの背に当て、数カ所切り込みを入れる。ハサミをしまい、ひと思いに切り込みから千切る。力任せに千切る。こんなことをしても何も断ち切れやしないのは自分が一番よく知っている。ならばなんなのだろうか、この儀式は。
千切ったノートを数ページおきに今度は縦に千切る。だいたい五センチ角に千切った紙切れを鍋に投げ入れる。どんどん投げ入れる。目に入る文字列が、しっかり封じ込めたはずの記憶を刺激する。思い出が鍋から噴き出そうになったので、少々水を足す。
同じ行為を繰り返す。一体、なんなのだろうか、この儀式は。
全ての紙切れを鍋に放り終えて、菜箸でかき混ぜる。
鍋を見ていると、ボールペンのインクが滲み、白よりも紫色が目立つ紙切れが浮かんでは沈む。だいたい一年分の私が生きた証が滲んでいく。少々水を足す。
よくかき混ぜる。目立つ紙切れは箸で裂いていく。鍋が噴きそうになる都度、目の当たりにしたくない記憶がめくれ上がりそうになる都度、鍋に少々水を足す。何らかの化学物質を孕んだ湯気が目に染みる。恐らくあまりいいことではない。固い表紙を執拗に追い回し、繊維質がむき出しになるまで撹拌していく。
どのくらい時間が経ったか、少なくとも、ここに記された日々の何十分の一にも満たない。
鍋の中で水が干上がり、薄いノート――紙を形作っていた繊維とボールペンのインクは、紫がかった白い鈍重な塊に姿を変える。
鍋からシンクに落とす。少々残った湯の温度とそれ自体の重みが、ステンレス面を間抜けな音を立てて凹ませる。キッチンペーパーを一枚手に充ててその塊を掴む。
熱さでとっさに手を離す。その本質を喪ってなお私を苛むその塊に、できる限り最大限の侮蔑を込めた舌打ちを漏らす。
もう三枚キッチンペーパーを足して、熱さに構わず掴んでゴミ箱に放り込む。
部屋の湿気が尋常ではない。これだけ苦労したというのに、まだ眠れそうにない。