第165期 #9
「おお、いい匂い」
テツトはコンロのなべをかき混ぜているリンの肩を抱いた。
「いいでしょ。もうちょっとだからね」
リンの声には、はずむような調子がある。でも少しだけ怯えたような震えが混じっていることも否めなかった。テツトは幸福感に満たされていた。それにはやはり背徳感というか共犯関係というか、そういうものも一役買っているのだろう。たぶんリンも同じはずだ。
リンは戸棚からビン詰めになっている二つ目のカレー粉をとりだした。テーブルに広げてある分厚い本で確認して、それをなべに投入する。451ページ、カレーの作り方。それなりに本格的だった。
テツトが飲み物を用意しようと冷蔵庫をのぞいたとき、玄関のチャイムが鳴った。そしてほとんど間をおかずに、乱暴にドアを叩く音がした。この来客はよいものではなさそうだ。テツトはリンに目で合図してから玄関に近づき、そっとドアスコープをのぞいた。
「やばい、CIAがきたぞ」
テツトが小声でささやくと、リンの顔色もさっと変わった。
「どうしよう」
リンはなべにふたをしたものの、それをどうしたらよいか分からずにおろおろした。
あの原発事故が起こって以来、エネルギーの節約については数々の施策がとられてきたが、近年ますますそれは先鋭化してきて、ついには家庭の料理までが規制されるようになった。大衆食の代表であるカレーも例外ではなかった。効率化のため、ある程度の規模でいっぺんに作ることが義務付けられたのだ。その結果、セントラルキッチン方式をとっている飲食店以外は事実上カレーを作ることができなくなった。某大手カレーチェーンの思惑が絡んでいることは公然の秘密だった。
ドアを蹴破ろうとする音が部屋中に響く。もしかしたら斧か何かを使っているのかもしれない。テツトはどうしてこうなったのだろうと考えていた。いったい誰がカレーの情報をたれ込んだのだろう。でもこうなっては仕方がない。もうごまかすこともできない。
ドアがこじあけられた。大きなガスボンベを背負って火炎放射器を構えた男たちが部屋に踏み込んできた。調理に使う何倍もの火力でソファーが焼かれていく。
「くそ、そいつを全部ぶちまけろ」
熱々のカレーをなべごとテーブルの向こうに放り出し、テツトとリンはベランダ側の窓から脱出した。男たちは委細構わず火炎を放射しつづけた。ほんの一瞬、部屋中を満たしたカレーの匂いもやがて業火に包まれていくのだった。