第165期 #5

蜜柑

俺はいつも仕事で疲れ果てていた。まるで関節にサビが詰まったかのように鈍く、頭は黒く濃い液体で満たされているように、重かった。鼻の毛穴から染み出す茶色い汁は、体内の疲労度を叫んでいるようだった。
ともかく、疲れていた。
もう35歳になる。
小さなころはどうだったっけ。
兄よりかは活発な子供だと思っていたけれど、はしゃいでいると、子供らしい子供が大嫌いだった父親から厳しく叱責を受けたんだよな。35にもなって、未だに父親の支配から逃れることができない。父親だけのせいではないけれどね。家庭でも、学校でも自分の気持ちをどんどん殺していった。
社会に出てからもそうだった。主張をしない自分には、明らかにひどい仕事が山積みになっていった。
いつも先に帰る同僚達を後頭部で感じながら、「なんで俺ばかり無賃残業に精を出さなければならないのだ地獄に落ちろクソども」と呪詛の言葉を心のなかで吐き散らかすが、また、そのような境遇に置かれても、不満を告げられない自分に対しても、本当に情けなく思うのであった。
やりがいもない、稼ぎもない様な仕事に時間を奪われ、モニターの前で人生を無駄遣いしている毎日は、とてもとても死にたくなるのであった。

俺はいつもの様に終電で家の最寄駅で降りた。
冷たい空気を振り切るように、下車した帰宅民が黙々と改札口に至る階段を登っていく。
俺の両親はもういない。兄弟もいない。恋人もいない。
かつて両親と祖父母とで暮らしいていた住まいは、一人では管理できず、父親の残した大量の古ぼけた家電や書籍や、自らが購入したコミックスや気まぐれに買って使用していない加湿器やたこ焼き器やサイクリングマシーンを下敷きに、たくさんの埃が積もっている。
またあの家に帰るかと思うと、うんざりした気分になってくる。
嫌な記憶を呼び覚ます物に囲まれて、俺は窒息したように眠るのだ。
「やだなぁ、疲れたなぁ、全部放り投げたい」
乗車券を認識した電子音が、客のいなくなった構内に鳴り響いた。
自宅に向かう道は、林に面した細い道路で、対面には林に沿うように、家々が建っているが、明かりは消えている。
心もとない街灯が明滅している。
たまに、風が吹く。葉を揺らす。
見上げれば、赤い月。
ミカンの木が伸びていて、月の光のせいでうまく顔が見えないけれど、木の上には体のしっかりした男が座ってこちらを見ている。
「お前は俺の子でなくていい」
と言った。



Copyright © 2016 aki / 編集: 短編