第165期 #12

世田谷怪奇小説 転落願望

小走りにガードを抜けて来し靴を ビラもて拭う夜の女は      寺山修司

天国の入口というライブハウスの出口で水を一口飲んだ。
分厚いドアの向こうからはベースの音だけが響いてきた。壁にべたべたに貼られたフライヤーを読む振りをしていたけれど、ライダースの背中が角を曲るのは見逃さなかった。つられる様にして歩き始めた。

壁にもたれて、氷が溶けて味がしなくなったジンバックを啜っていた。ドクターマーチンを履いた男が一緒に来た女友達だけに話しかけたので、私はいつもするように自分の爪先に視線を落とした。我ながらさり気なく出来た。先週買ったばかりのパンプスだった。誰かが思い切り踏んづけて汚してくれればいいと思った。ステージでは何てことないロックバンドが演奏していた。黒いリッケンバッカーを弾く男がぼたぼた垂らす汗を見ていた。途中、酔った客が彼に茹でピーナッツか何かをぶつけたけれど、一向に介せず最後まで演奏すると、ステージを降りて、やけにするりと観客のあいだを擦り抜けていった。またしばらく自分のつま先を眺めた。この店はフロアがチェス盤みたいな白黒になっている。白の正方形のところに両足をそろえてみた。でもこの店で茹でピーナツなんて出してたっけと思い顔を上げるともう男はギターケースを肩にかけて出口への階段を上がっていた。私は点けたばかりの煙草をもみ消していた。

駅前の酔いどれ達の人込みを抜け、男は線路沿いに歩き続ける。ビリヤードの山彦、衝動と言う名の靴屋、安モーテルお洒落貴族。男が振り向いて目が合う。そうすれば私は世界の全てに勝ったことになるような気がした。祭りでもないのに神社の入り口では獣の肉を焼いて売る片目の的屋がテレビの野球中継を見ていた。ライダースのベルトがぶらぶらして金具が通る度ヘッドライトに反射する。私の影が彼に覆いかぶさるのを数えていたけれど、途中でわからなくなってやめた。甲州街道のオレンジ色ライトの長いトンネルに差し掛かって少し怖気づいた。私の靴が引き伸ばされて捨てられたカセットテープを蹴った。男は振り向いた。別に驚いた様子も見せず私を一瞥しまた歩き始めた。私も慌てて踵を返して足を早めた。トラック野郎が派手な音を立てて通り抜けて行った。井の頭線の最終電車にはまだ間に合う。それに気づいた自分に軽く失望した。



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