# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 妖精の初恋は人間!?〜出会い〜 | もな | 560 |
2 | 私の叔父さん | 三浦 | 948 |
3 | 彼と私 | ももも | 935 |
4 | 運命 | 蓮利 | 366 |
5 | 世界は無数の星になる | しーた | 506 |
6 | 第一夜 | in | 1000 |
7 | 紫陽花 | テックスロー | 995 |
8 | 仮定化室 | 藍蝶 | 313 |
9 | 鳥の詩 | 留宮 堂 | 658 |
10 | 7番ゲート | かんざしトイレ | 1000 |
11 | 深海魚 | ちゅん | 517 |
12 | 告白 | 須田ミヨ | 973 |
13 | 空中浮遊 | Mima | 815 |
14 | 銀座・仁坐・肥坐 | Gene Yosh (吉田 仁) | 1000 |
15 | 正男くんのボタン | 岩西 健治 | 870 |
16 | せめて無害な細胞に結ばれて | 溜息山王 | 1000 |
17 | 紙食い虫 | なゆら | 987 |
18 | 扉 | 真昼カペイカ | 1000 |
19 | 両極端な人々 | わがまま娘 | 996 |
20 | 人の形をしたもの | たなかなつみ | 696 |
21 | 鍵垢慕情 | 伊吹ようめい | 996 |
22 | あれぐろ・こん・ぶりお | 宇加谷 研一郎 | 999 |
『良いですか?あなたは妖精。決して、人間に恋してはいけませんよ』
お母様が怖い顔で私に言う。
「大丈夫です、お母様。人間の国へ潜入調査するだけです」
私はそう言って家を出た。
私、杏は妖精。
人間の国へ潜入調査。というのも、人間が私達の国の宝を盗まれて、犯人が人間だから探すの。
でもそこが___
「イケメンだあ!」
その名もイケメン学園と呼ばれる学園で、男子がほぼ全員イケメン。
残念な人もいるけど。
私イケメン好きだから、犯人がイケメンならやばい。
「君が転入生の杏ちゃん?僕、悠斗」
悠斗君?
イケメン!
「杏です、よ、宜しくね」
深々と頭を下げる。
「こいつが転入生?キモ」
悠斗君以外の人が言う。妖精に悪口言うとバチ当たるよ!
私が顔をあげるとそこには別のイケメン!まさかこの人?
「何ジロジロ見てんだよ」
睨みつけてくる。こいつだー!
「あのねぇ、妖精に悪口言ったら…!」
私は慌てて口を塞ぐ。
お母様に『それと、人間に妖精だとバレるような行為をすれば、あなたは消えてしまいますよ』って言われたの忘れてた!
「妖精?何だよ、それ。こいつキモいだけじゃなくてオタク?」
そう言うとその悪口イケメンは立ち去る。
何よあいつ!言うだけ言っといていなくなるとか!
「ごめんね、杏ちゃん。あの子は翔、口悪いけど、気にしないで」
悠斗君って優しい…。
好きになりそうなくらいに。
前世は王女だと聞いて母が笑うのが聞こえた。母はその侍女だと聞いて父と私は笑った。父はお侍だと聞いて母は黙っていたが私は笑った。
叔父さんは前世なんか信じないと言った。私を見た占い師は叔父さんは王女の馬を世話していたと言った。叔父さんは馬に乗る人なので私は笑った。何度か勧められたが私は馬に乗らなかった。王女は馬に乗らなかったでしょうねと言うと、占い師は私にはわからないと言った。
夏休みに写真洗浄のボランティアをした。一週間しかいなかったが、馬が写っている写真を三枚見つけた。夏休みの間中、叔父さんについて馬に乗る姿を見に行った。一度馬に乗ってみたが、股ずれがひどくてやめてしまった。母も私に同伴して、そこで母も馬に乗れることを知った。痛みに出かけるのが億劫になってからも、母だけ叔父さんについて馬に乗りに行った。
夏休み最後の日曜日、仕事から帰った父は私を連れて居酒屋に入った。父はビールではないお酒を頼んで、私が食べるのを黙って眺めながら自分はお酒だけ飲んでいた。お父さんとお母さんは離婚することにしたとその時だけ私を見ないで父は言った。そんな気がしてたと、まったく気がついていなかった私は言った。
シルバーウィークに、七海、日向子、萌絵、私のいつものグループで気の早い卒業旅行をしようという話になり、日向子がパスポートがないので国内かなとなり、萌絵が夏休みに行った酒々井のアウトレットで金欠だと言い出したので旅行はなくなった。私は私を見た占い師に私の友達を見てもらった。ファミレスに入って一人一人結果を報告すると、なんと全員王女なのだった。
母の前で落馬して叔父さんは腕と脚の骨を折った。父から預かった果物を叔父さんが食べないというので切り分けたメロンを病室で一人で食べた。美姫ちゃんは僕の娘かもしれないと叔父さんは言った。そしてすぐに何でもない忘れてと言った。私は受験と卒業旅行でそのことを忘れた。卒業式直前の日曜日、叔父さんは母の前で馬に蹴られて亡くなった。私は卒業式の夜に叔父さんのお葬式に行った。
父は半年前と同じ居酒屋で私に、離婚しないことになったと言ってビールを飲んだ。聞いてなかったが母が遅れてやって来て、父とビールを飲んだ。両親はにこにこしていた。私は黙って料理を食べた。
7日目。
彼が好きだったと気がついた。胸が苦しくなった。
6日目。
彼をもう1度見たくなった。彼のあの顔が見たい。
5日目
彼の声が聞きたくなった。小さな挨拶は聞けない。
4日目。
彼のことを考えた。今どうしているだろうか。
3日目。
彼と廊下ですれ違った。今日はまだ寝ていないらしい。
2日目。
彼を目で探していた。彼がいないことを思い出した。
1日目。
彼は教室にいなかった。クラス表に彼の名前はなかった。
最終日。
彼はいつも通りだった。
今日でこのクラスとお別れだというのに、いつもと変わらずにまた寝ぼけている。先生がプリントを配って話をしているこの短時間に、また居眠りをしていたらしい。眠たそうな目を擦る彼を見て、ふと思い出す。いつだか彼の席が私の後ろだった時、彼の寝起きの顔を見るとひどく気分が良くなった。寝ぼけ眼でキョロキョロとあたりを見渡すその姿はまるで子犬のようで、子犬にそうするようにそっと頭をなでてやりたくなった。のんびりとした口調で寝てしまった言い訳を聞くと、なぜだか全て肯定してやりたくなった。決して私から話しかけることは無かったが、授業中に彼のくだらない話を聞くのは面白かった。少なくとも、物理の先生の雑学を聞くよりは何倍も楽しかった。そして彼は話の途中で呂律の回らなくなってきたその舌を一生懸命に動かして、小さくおやすみと言うのだ。その言葉が鼓膜を震わせる度に、私は小さな優越感を覚えるのだ。彼のその言葉が聞こえているのは、今この世界中で私だけなのだと。そして、再び瞼を開いた彼に小さくおはようと言えるのも、世界でたった一人、私だけなのだと。そんな彼は今日もゆっくりとあたりを見渡していた。私の席から離れた彼の言い訳を聞くことは無かったし、あの眠たげな目が私を捉えることもなかった。
8日目。
彼は私のいない教室で今日も変わらずに居眠りをしているのだろうが、彼のいない教室で私は今日から変わらずに過ごせるだろうか。いや、彼がいないとわかった日からもう変わってしまったのかもしれない。こんなにも私は変わってしまったのに彼は変わらずにいるのかと思うと、やりきれない思いが溢れてしまいそうだ。溢れる涙を拭って思う。彼も私がいない教室で居眠りができなくなってしまえばいいのに、なんて。
この広い世界の中、誰かと出逢うのは、奇跡だと思う。
こんな詩的なことを言うキャラじゃないのはわかってるんだけど、これだけを言いたい。
「大好きだよ……」
そして…………………
「は?何言ってんの?キモイ」
強烈な言葉をキミは吐くが、それはキミなりの照れ隠しなんだろう。
「てか何?アンタとアタシ、敵同士じゃん。いきなり何言っちゃってんの?」
あぁ、そうだ。
僕とキミは敵同士。
だからこそ、僕はキミが好きなんだ。
禁断の恋。
上等さ。
「なんも言わないならやっちゃうよ?いいね」
そう言ってキミは殴りかかってくる。
だが僕はスッとキミの拳をよけ、逆に掴む。そしてキミを引き寄せ、抱き締める。
「――――っ!!」
驚いたようなキミの顔を見ながら、僕はキミの耳に囁く。
「大好きだ……。キミがほしい」
僕の声は、届いただろうか―――?
夏休み最後の日の夜、学校の屋上で真っ暗な夜空を見上げていた彼の目の前で、空が砕けた。うっかり落としてしまったガラス細工をハンマーで何回も叩きつけたみたいに、文字通り粉々に砕け散った。
世界はもうヒビだらけだったのだ、と彼は思った。だから、心が揺れることもなかった。
無数の夜空の欠片は流れ星のように、重力に引き寄せられるように地上に向かって落ちていく。
世界が、泣いているようにも見えた。
もう、来ちゃったの?
声が聞こえて振り返ると、そこには二度と会えないと思っていた少女が静かに笑って佇んでいた。
彼も優しい笑みを浮かべて、
いつまでも一緒だ、って約束しただろ。
口を開いて何か言い出そうとした彼女を遮って続ける。
先に約束を破ったのはそっちなんだ。文句は、言わせない。
彼女の目に一粒の涙が浮かんで、頬を伝って、壊れていく世界に吸い込まれるように溶けていく。
彼は彼女に近づいて行って、その小さな身体をそっと抱きしめた。
おやすみ。
小さくそう呟いて、目を閉じた。
懐かしい匂いがして、彼女の身体は温かくて、すすり泣く声だけが耳に響く。
世界が終わる。
その学校の屋上は、その年の二学期以降、閉鎖された。
私は夢を見る。
幸福な夢だったのか、凄惨な夢だったのか。私の意識は区別しない。心は恐怖を叫ぶのに意識はさらなる深みを目指す。時折自分が自分でなくなる感覚をもて余す私は夢遊病者に憧れていた。その日のそれは格別に生温かかった。外側から達観するものにはとても冷たく感じたかもしれない。しかし意識が境の判別を放棄するとき、心は感覚を諦める。事実に関わらず、私の感覚は心地の悪い温もりを舐めた。私はいつもそれが始まると座る特等席を決めている。しかしそれは当たり前なことかもしれない。はじめからスクリーンの前には席がひとつしかなかった。
私はスクリーン越しに私を見る。
彼、あるいは彼女は無表情に謝り続けている。
彼、あるいは彼女をとりまく人々や伴っている者は皆、涙を流す。
私はなんと退屈な画だと思いつつ、今日は大当たりだと心の中で歓喜した。
彼、あるいは彼女は死ぬのだろう。病で倒れるでもなく、誰かに殺されるでもない。それは画の中の住人たちだけでなく私にもわかった。
彼、あるいは彼女はその事実の前にただ淡々と別れを告げてまわっている。別れを惜しんで泣き崩れる彼らに彼、あるいは彼女は謝罪を述べている。
しかしいつまで経ってもその最期を映さない。
彼、あるいは彼女はむしろ望んでいるようにさえ見えた。ならばどうして?
私も知りたかった。もちろん、この画の一番の見所は延々と続く別れと謝罪のシーンであることはとうにわかっている。しかしいったいどんな死を遂げるかを好奇心が知りたいと渇望する。
ああ、なんて浅ましい心なのだ。
その最期は到底美しいものではないはずなのに。
一度外の空気を吸ってからまた見にこようか。
その頃には見られるかもしれない。しかしその劇場は一度目を背けた人間に二度とは同じものを決して見せない。
私、あるいは僕は例外なくそれを忘れる。何度繰り返しても忘れずにはいられない。
それは私、あるいは僕だけでなく人間の性であるが故に私、あるいは私は落胆しない。次に来たときにはまた別のものが見られるのだ。それを楽しみにする方がずっと賢いとは思わないか?
私、あるいは彼は自らに問う。しかし今日ほどの生温かさはもう味わえないかもしれない。そう思うと突然、一種の郷愁に似た感情に襲われる。
また明日来よう。それで折りあいをつけたつもりだった僕、あるいは彼女は劇場を出た。
それから一月、私あるいはあなたがその劇場に姿を現すことはなかった。
私の傘は盗られ続ける。今日も雨なのに傘がない。昨日買ったばかりの紫色の、フレームは黒い、傘がなくなっている。私の横をお疲れ様ですと言いながら同僚が色とりどりの傘を広げて帰っていく。私はその場に立っている。
次の日もまた雨だった。私は昨日買った傘をまた盗られて立っていた。盗られないように印をつけていた傘は紺色だった。部屋に戻ってくしゃみをしながら帰り道買った青色の傘に今度は名前を書いていた。
梅雨なのか何なのか。今日もまた雨で、私はまた傘を盗られて雨に似合う顔をして立っていた。「傘を貸しましょうか」という守衛さんの言葉を振り切って走って家に帰った。また紫色の傘を買った。部屋の中で広げたり、畳んだりしていた。黒いフレームを見ながら、ため息をついた。
当然のようにその傘は次の日盗られた。これでもう何本傘を盗られたか。雨の季節は毎日傘を持っていき、濡れて帰って。
濡れて帰って。傘を持って行って。もう名前も印もつけない。ひょっと、この会社の人数を超える分の傘をもう盗られているのでは、と気付きそうになるのをこらえて私はまた傘を買う。明日が雨でなければいいのにと思うのが70%、新しい傘を買うワクワクが25%、もしかして同じ人間が傘を盗り続けている? という妄想ベースで傘を買い続ける私の変態的期待が5%。その5%になんかこだわって、私はいい手触りの傘を買い、期待を短冊の形で具現化して傘からぶら下げてみたり。
こんにちは。突然ですが、やさしさと聞いてあなたが真っ先に思い浮かべるのは何ですか。私は雨を思い浮かべます。だって降る場所を選ばないし、みんなの上に等しく降る。あなたが差している傘の上にも、傘がなくて濡れて帰る私にも、優しく降る。でも誤解しないでください。私はもっとあなたと仲良くなりたいのです。もうすぐ七夕ですね。どうかあなたが……ように。
男は盗った傘の中にぶら下がる一点を凝視していたので避けるには時間がなさ過ぎて車にひかれた。舞い上がる傘の骨の一本に結び付けられた短冊は雨に濡れて文字がにじんでいく。
人だかりができていた。十はあろうかという紫、黒、紺、水色の傘が折り重なっていた。もぞもぞと動いていたがひとつひとつ去っていき、最後に残った傘は紫色で、ほかの傘が去った後もずっとその場所を動かなかった。とても傘が似合う女だった。
どうかあなたが濡れてしまいませんように。
人は何かしら仮定して話すことが多い
『もし〜なら』『もし〜でも』
その謙虚な言葉には
大きな期待が詰め込まれている
「ねぇ、あの桜の木、もう少しで
花が散りそうね…。」
「ほんとだ…。」
風に揺られて踊る桜の花びらは
感動を覚えると共に寂しさを感じさせる
「もし…、また…。」
「こら、言わないって
約束したでしょう?」
「…うん。」
儚げに笑う君に
モヤモヤした気持ちを残したまま
その場を後にした
あの桜が散る頃
白に囲まれた君に会いに行った
そこには折りたたまれた一片の手紙と
桜の花びらが添えてあった
手紙を手に取り広げた
しばらくして
いくつもの雫が手紙に
染み込んでいく
『もし、また君と見れるなら…』
ほら、また君はそうやって
人に何かを残して去ってく
ずるい人だね
その鳥は死が近い者の肩にのる。羽は白く、一見鳩のように見えなくもないが、その種類は分からない。
私たちからその鳥に触れることはできない。見ることもできない。鳥を見ることができるのは、死に近づいている者、と、その者に一番近い者。
ある新興国に、父と娘が居た。父は最近胃がんとわかり、病院へ入院していた。娘が花瓶の花をかえにきた。
「お父さん、調子はどう」
「悪くないよ。薬の副作用もないみたいだ」
「苦しかったらすぐに言ってね」
「はは、大丈夫さ」
「もう、まったく。窓開けるよ」
「寒くないか」
「私は平気。あ、見てパパ」
「どうした」
「見てみて、鳥が飛んでる。見たことない鳥だ」
「こんな所に鳥がいるなんて。考えてもみなかった」
「あ、こっちに来てる」
「お、肩にのったぞ」
「本当、かわいいね」
「寒くないか」
「私は平気」
「そうか。・・・吹雪いてきたな」
「パパ、何だか眠いわ」
「大丈夫か」
「夜更かししたからかな」
「寝るんじゃない。・・・あしたは学校だぞ、準備はいいのか」
「学校・・・」
「起きてくれニサ」
「ねむ・・・」
「大丈夫か」
「・・・」
「おい、おい、大丈夫か」
「・・」
「目を覚ましてくれ」
「・」
「お願いだから」
「お父さん、もうそろそろ退院できるの?」
「ああ、まだ完治とまではいかないが、お医者様がいいって」
「やったあ、また遊びにいこうね」
「いいぞお、どこへでも連れて行ってあげるぞ」
「うれしい、見てお父さん鳥も踊っているよ」
「本当だ。・・・お、メリッサの肩にのったぞ。かわいいなあ」
「本当。あ、うたいだしたよお父さん」
「本当にかわいいなあ」
かばんの底をかざしても、ゲートは閉じたままだった。一歩下がって手探りで確認する。思った通り、財布が一番下に入っている。何も問題はない。もう一度やってみる。またしても反応がない。後ろから「チッ」と舌打ちが聞こえた気がした。仕方がない。仕切り直しだ。
「すみません、ここはカード使えないんですか」
制帽をちょっと触って係の若い男がじっと見てくる。不審者を見る目だった。
「使えますよ。みんな使ってるじゃないですか」
係の男がさっと指差した先では人々が次々とゲートを通過していく。基準は低くても厳格なある種の選抜をくぐり抜けた勝利者たちだ。ゲートを抜けた人影は加速度を増して前進する。ジェットエンジンの噴射によって速度は急上昇していく。車輪のついた靴底からは火花が散る。やがて両手を広げると高度が急上昇していき、雲ひとつない青空へ次々と消えていくのだった。
「でもこれ、ここにカードが入っているのにはじかれてしまうんですよ」
「どのカードですか」
「ああこれです」
そう言ってからかばんに手を入れる。財布を取り出すのもすんなりとはいかない。マフラーが3つとバンダナが1つ、キッチンペーパーが4枚、詰めこんであった。旅行にはタオルが重要だと昔から決まっているらしいのだが、なかったので代用品だった。
「とにかくカードがないなら入れません」
係の男はもう話を切りあげてしまった。窓口のガラスの向こうでカーテンが引かれた。カーテンとは何とも原始的だったが、電動で閉じられたので、それほど不自然でなかった。
ため息をついて回れ右をしたとき、ひざのあたりに何かがぶつかるのを感じた。目線を落とすと、就学前と思われる女の子がこちらを見上げていた。
「そろそろ出てくるんじゃないかと思ったよ」
頭をなでようとした手は強く払いのけられた。
「あなたはまた選ばれなかった。あなたはまた拒否された。あなたはまた締めだされた。あなたはまた断られた。あなたはまた自分のささやかな意思をくじかれてしまった」
「うるさいな」
苦笑して女の子の横をすり抜ける。
「こうすればいいだけの話さ」
かばんから財布を取り出して、その中からカードを取り出した。カードを直接センサーにかざす。ゆっくりとゲートが開いた。ジェットエンジンが身体を前へ前へと押し出していく。加速度が加速度を増し、すべてを置き去りにする。やがて両手を広げれば、大空へと舞い上がることだろう。
緩慢と打ち寄せる波を見つめる。静かに一人で座り込み、指で砂浜をなぞっている。あのときと同じ純白のワンピースを着て。
夜の海辺で二人きりのランデブーといったところかな。あれは、真夏の夜の儚き夢だった。
彼はサーファーだった。なにより海が大好きだった。穏やかなひき潮も荒れ狂う波もみんな。だが、そんな彼が大好きだった海が、彼を帰らぬ人にしてしまうとは。彼の体が陸に上がることは終ぞなかった。
私は泣き続けた。私の涙が海を流れ彼の元に届くかもしれない。私は彼の名を呼び続けた。私の声が海を抜けて彼の元に届くかもしれない。しかし、そんなことは無理だった。だって彼は海の底に行ってしまったのだから。私のいる陸の上からはこの思いは届かない。
でも私にはわかる、いや感じる。彼は海の底できっと生きてる。じっと目を閉じて、耳をすませばかすかに彼を感じ取ることができた。それは遠くて小さいけど、私にははっきりとわかる。それが現実か幻かわからない。けど、私はそれに近づきたかった。たとえそこが海の底だとしても。私はふっと立ち上がり、海のほうへ歩いていく。
「今、行くからね」
海の深みへ堕ちるほどに、あなたに近づけるのなら、私は二本の足を切って魚になる。
私、ときどき思うのです。私あなたと一緒なら死ねるわ。あなたといてこれほど安心することはないの。
例えば今日行った街でちょうど事故がありましたね。通る予定だった場所です。私達、運よく巻き込まれることはなかった。救急車、パトカー、ヘリも何機か飛んでいましたね。事の重大さがよくわからなくてあの時はあまり考えませんでしたけど、数人が巻き込まれる事故だったそうですね。後で知りました。
あなたに彼女がいるって、なんとなく予想はしてた。けれど今日あなたと一緒に歩いていて、ああ、結婚するならばこの人がいい、と思ってしまったのです。きっと楽しいでしょう。だってあなたとはずっと仲良しだったんですもの。趣味も合っていたし、性格も、あなたはいい人ですもの。
でも、でも、そんな顔で恋人のこと言われたら、私の入る隙間なんてどこにもなくて。
人のもの奪えるほどの力も私、持ってない。
それに、あなたには、幸せになってほしいの。
あなたにはたくさん助けられた。付き合ってすらいないのに、あなたにたくさん迷惑をかけた。
だから私からも恩返しがしたかった。
けれどきっと私ではあなたを幸せにはできないのでしょう。
強欲よね。
ばかみたい。だって私振られてるのに。なのに私それからもあなたとずっと友達でいる。本当ならすっぱりと付き合いをやめるのでしょうに。本当、ばかみたい。
だから私、あなたとあの時、一緒に事故に巻き込まれたかった。二人でこれからどこへ行こうか案内するよ、なんて話しながら、背後から来た暴走車にはねられたかった。倒れた二人の血が混じり合って、歩道のタイルを赤く塗らせて。それはそれはきれいな景色でしょう。私が今日着ていた花柄のスカートも、きれいな赤に染まるでしょう。
けれどそれはきっと、望むのはきっと私だけでしょう。あなたは優しい人だから、あなたを好きなたくさんの人が悲しむでしょう。
不思議です。今日はとても楽しかったのに、今とても悲しい。雨が降っているからでしょうか。昼間は晴れていたのに。
ごめんなさい、私、あなたのことがずっと好きだったみたい。諦めきれてないみたい。
ありがとう、迎えにきてくれて。たくさんいろんな場所に連れていってくれて。相談にのってくれて、助けてくれてありがとう。
ありがとうね。きっと幸せになってね。あなたが幸せでありますように。
私のことは、どうか忘れて。
暗闇の中でネックレスの鎖を指で探した。トラムの音で、ここがそう街から遠くないのがわかった。彼はまだ眠りに落ちる前に私に背を向けた。それが自分の中で波紋となって広がるまえに、私は注意深く息を吸い込んだ。
ダウンタウンの芸術家のたむろするそのバーでは、マスターも客も彼らの非常識な振る舞いを多めに見て、そして普通の勤め人をほんの少し馬鹿にする空気があった。月給取り達は自分たちの仕事の愚痴を自虐的な冗談とともに語り、画家やバンドマン、役者たちは、有名であろうとなかろうと、この店だけで通用する免罪符を与えられていたから、この夜も彼らは遠慮無く女達に絡んだり、ライターで紙ナプキンに火を点けたりしていた。
私がこの中の一人の画家の男に出会い、すぐに夢中になってしまったのは小さな輸入缶詰会社で事務仕事をする自分を恥ずかしく思い、そしてアーティストと呼ばれる彼らに嫉妬していたからだと思う。彼は傲慢な芸術家たちの中では控えめに見えたが、私をがらんとしたアトリエ兼自宅に連れてくると、出窓に私を座らせ、壁に立てかけていた絵の具をぶちまけたような自分の作品について次々と説明をした。私はどうでもいいというような振りをした。そんなことよりも彼の体の方に興味があるというそぶりを見せたのはやはりアートに夢中になれる彼への嫉妬からだったのかもしれない。彼はこちらに向き直ると、少しの沈黙の後、歩み寄り迷うことなく私のスカートに手を入れた。
窓の外には、ビルの屋上に取り付けられた航空会社の看板が照らし出されている。ぴったりとした青い制服を着たスチュワーデスさんが白人男性に微笑みかけながら料理の乗ったお皿を渡している。自分が少女の頃思い描いた場所とは全く違うところ、これは比喩なんかじゃなくて、まさに今この中途半端な高さのビルのベッドに、まるで手品に出てくる女性のように浮かんでいると思うと体の中で大きな黒っぽい波が起こった。私を支えるものは何一つない。
今から4年前、2012年4月、熊本に初めて訪れました。わたくし吉田は、某放送局のイベントの機材輸送のため、ちょっと特別な輸送のため、立会いをしに向かったのでした。初めて阿蘇熊本空港に降り立ちまして、阿蘇山の麓に広がった大平原にアメリカでイエローストーン国立公園にある、ジャクソンホール空港と重なり、こんな世界有数の自然の真っただ中に数百年続く、日本で5‐6番目の大都市が存続しているのはとても珍しい。空港から4−50分ほどで熊本城下の都市が出現します。明治以降、国全体の行政上も5番、6番の位置を維持しており、その他の九州の歴史ある藩も明治維新の様々な事情により淘汰され、現在は鹿児島でも熊本でもなく福岡になっており、東京の銀座と並ぶ、その福岡の繁華街は中洲である。ここには九州中の夜の飲食街の中心であり、女子でも男子でもいつかは中洲、その次は関西、関東なのだが、クラブ女子は中洲の次は東京になるようである。
さて、熊本は熊本城下の町並みが引き継がれ、建物は違いあれ、古地図を当てはめると、そのままの町並みが、引き継がれた商店がほぼ並んでいる、これは市民が集まり、業として継承する、近隣に広がった熊本県下も城下町に自然に集まり、盛り場が続いている。やはり、九州の中心地であるため、九州各地、西日本や、関西、関東の人間が通っても温かく受け入てれくれる。2012年の4月滞在は1泊でしたが、放送局の幹部の方と倉庫を改造した居酒屋で、定番の馬刺し、赤牛、辛子蓮根を味わい、午後8時開店の飲み屋さん開店時間に繰り出し、2軒伺いました。1軒目は銀座通り1本手前の酒場通りと栄通りの角にあり、テーブル4つのカウンターのお店で、ママが一人でやっている、かなりつまみが豪華で居酒屋で食事もしたので、満腹になりました。2軒目はクラブ通りと栄通りの角、大物司会者Mの行きつけだった店で、吉田と同年代のママさんは懐が深い温かみのある趣のママ。いずれの店もママで持っている感じ、若い娘は似合わないとても大人のお店でした。その歴史ある由緒ある城下町が破壊された。訪れる誰でもが通る熊本市内への川沿いの活断層に沿って、余震、前震、本震と入り乱れて徹底的に攻撃を受けた正しく本丸は辛うじて耐え留まった。阿蘇山が噴火した数百万年前は群発地震が襲ってくる時期が数百年続いたともいわれており、自然も人間も歴史は繰り返し、さらに歴史を刻む。
かれのぼたんをねらっていた。
もうあえなくなる。ぼたんをもらう。すきかって? だいにぼたんじゃだめなの。だいいちぼたんじゃないと。
じっさいのぼたんはくろいすーつけーすにはいっていて、まさおくんはたえずそれをてばなさない。かれはそれでけんせいしている。せかいをだよ。ぼっちゃんぼっちゃんとささやかれて。しょきちょう、かれはほんきでしんじている。
まさたか、だいにぼたんほしい。
かれのせいふくのうらにはきんのししゅうがある。だれもしらないんですよね。おもてじもきんだからうらじなんてきにしてられないのですよ。がっこうとはもめない。こうえいだから。
いもうとのえびさわさんはしゃないではなしかけられたいけめんにかいわもおもしろいし、しゅみもにている。ぶちょうにしょるいそうこへいれといてといわれて、そうこへのとちゅうにぶちょうからしょるいかいぎしつにはこんどいてといわれたからないしんむかついたけれど、えがおふるまってかいぎしつにしょるいおいてひるもどってきたらかいぎしつじゃなくてそうこといったじゃんか。ぶちょうがおっしゃったんでしょ、こころのなかだけでさけんで、そんなかけちがいがさんかいあって、だめだというレッテルはられました。だからいけめんもほんとうはしんようしていなくて、まさおでもまさたかでもいいからにんげんとはなしたい。げんえいじゃないひととはなしたい。
かべがみどうしよう。そうだんされてかべとてんじょうをたいひのあるいろにしたらといった。ほんとうはきまっているのだけれど、それにどういしてもらいたいだけだろうとおもってはいたが、ちょっとぽっぷないろをていあんしてなんにちかしてげんばのぶなんないろのかべがみみて、だったらさいしょからじぶんできめりゃいいだろってはらたったからちかくのぎゅうどんやでなみもりにはいたのんでたべた。
だいにぼたんはだいじにもっている。まさおかまさたかはもうどうでもいい。とにかくぼたんもらった。だいいちぼたんだれかにとられた。
じてんしゃにのってかえる。かさわすれた。でもいい、ぼたんあるから。
純粋過ぎる静寂を、一滴一滴打ち砕く。塩酸が閃光を放つと、悠然と眠る水酸化ナトリウム水溶液の水面に、卑屈なほど正確な波紋が誕生する。ツマミを回す。白い磁石が、透明の世界でのたうち回って、波紋が跡形もなくなる。!。紅を誇示していた指示薬は、きまり悪そうに虚空に溶ける。毒と毒が宥めあい、無害な塩水に結ばれる。
目盛りの無い数を目分量で読んでおきながら、有効数字の扱いには厳密なのが、どことなく矛盾めいているようで、私は化学実験が好きだった。先生が矛盾でないことを説明してくれた日の夜に父親に聞いたら、人間の目の解像度がどうこう言ったが、その時僕の視力は0.07。
眼鏡を掛けると必ず視界が歪む。眼鏡の縁が視野に二つの領域を作り、外側は蒙昧の世界。視野の限界に辛うじてしがみつく、意識裡にしか見えない領域を、眼鏡は現実主義的に切り捨てる。眼鏡を外せば、色の世界が閉じて、内なる世界が開く。この感動は視力1.0のA君には知り得ない。そろそろ眠くなってきた、と眼鏡を外すと、睡眠を妨害する煽動的な極彩色が希釈される。
眠りの感覚は、意識したらすぐ消える。草むらから顔を出した安眠に、必死で気付かぬ振りをするのが寝入りという営為だ。今はこの工程は飲酒で省略できる。!。扉を叩く音が聞こえた。
当然ここでA君が現れないと道理に適わないので、目の前にいる彼にA君と名前を付ける。当然このAは、英語でもロシア語でもギリシャ語でもなく、日本語のAである。英国人に"最初の文字"は何かと尋ねれば全員がAと答えるだろうが、日本語における最初の文字は「あ」或いは「い」である。Aは、言わば平仮名・片仮名に次いで"三番目の最初"でしかない。さてここでAが私に退出を願い出るのは、私が教育実習者の身で勝手に化学薬品を扱ったという事実からしても、非常に理にかなっている。教師とは正当な厭世である。自分の人生を次世代の育成に捧げる犠牲は計り知れず、諦念にも似る献身には尊ぶべき武士の滅私奉公の精神が垣間見えるのだ。以上を口走った結果、数日の余暇が生まれたので、今この日記を書いている。つまり、これから私は1.20×10^2円で梅田の眼科へ行きコンタクトレンズを買うことで全てを終わらせねばならない。透明の円盤が、あなたの角膜と同化して、容赦なく屈折率を戻す!戻る戻る!私は今あいうえおのあとなり、酒も毒も知らない、たった1モルの受精卵に戻る!
しろやぎさんからお手紙着いた。
私はそれをじっと見つめる
住所に見覚えがない
ドッキリ?
そう考えると、あの換気扇の奥にカメラが仕掛けてあるような気がしてくる
大げさにリアクションすべき?
それとも、一蹴すべき?
わからない
わからないが、おいしそう
ごまドレッシングが合いそう
いや、そのままでも十分おいしそう
一口だけ食べておくのも、やぎ冥利に尽きる
くろやぎさんたらお手紙食べた。
予想をはるかに上回るおいしさ
すっかり飲み込んでおなかが満たされ冷静になって気づく
とりあえず読んでから、食べるべきだった
内容ぐらい確認すべきだった
しかたがないのでお手紙書いた
書こうとしたが筆が進まない
私に非がある
何よりもまず、一言謝らないといけない
けれど私にもプライドがある
見ず知らずのしろやぎにどうして謝らないといけないの
色々考えて私は、違うんですしろやぎさん、からはじめる
『違うんですしろやぎさん。お手紙を読まずに食べてしまい、その内容を知るために返事を書いているわけじゃありません。お手紙はおいしかった。あまりのおいしさに思わず意識が飛んで、前後の記憶がなくなってしまったんです。手紙の内容があやふやなんで、念のため教えてほしいです』
そして最後に茶目っ気を装って書き加えた
『さっきの手紙のご用事なあに』
くろやぎさんからお手紙着いた
俺はお手紙を書いた
電子メールが普及して久しいが、お手紙の方が思いが確実に伝わる気がした
お返事が来た
くろやぎさんはどう思っただろう
怖くて開けない
俺は繊細なしろやぎだ
繊細で陰気なやぎだ
やぎ以下だ
ひつじだ
しろひつじやぎたろうさんだ
略してしろやぎさんだ。
ダメな存在だ
くずだ
しろやぎさんたらお手紙食べた
自分の行動に驚いている
気づいたらお手紙食べてた
無意識に食べた
くずらしいことをしてやれとの命令に従った
なくなってから、お手紙の存在が重くなる
くろやぎさんはどう答えたのか
いやその答えより、あんなお手紙を書いた俺自身が許せない
そもそも昨日電車の中で見ただけ
俺の存在さえおそらく知らない
俺は愚かだ
くろやぎさんに謝罪したい
迷惑をかけてしまった
仕方がないので直接お会いして思いを説明しよう
くろやぎさん宅にやってきてチャイムを鳴らす
でてきた女は俺を見て少し首をかしげる
その無垢な面が俺に加虐の感情を芽生えさせる
すぐさまひつじの仮面を脱いで、しろやぎの仮面も脱いで、噛み付き血潮を吸い、骨ごと肉を食らう
「それって、私の仕事なんですか?」と固定電話で話していたキミが言っていたのは、昨日の夜だった。
現在キミの小説を原作にした漫画に変なクレームが殺到しているというのだ。『服がダサい』『いつの時代のセンスなのか』と、画像特有のクレームだった。
キミの紡ぐ物語は大体季節が曖昧だ。夏に読んだら季節が夏のように思うし、冬に読めば冬の話のような気がする。つまり、そこまでしっかりキミの小説には季節が描かれていない。故に、服装までもしっかり描かれているわけではない。
電話口で論争をしているキミを横目にボクは、問題の連載漫画を見るために、山積みになった雑誌の中から1冊抜き出して、ページをめくる。
確かに上下ともに無地で、すっきりしたデザインの服が多いけど、そこまで服のセンスがどうこう言うようなレベルではないと思うのはボクだけか。
「私がちゃんと書かないからどうしていいかわかんないって……。服のデザインまで普通書かないでしょ」
確かに小説で服装のことまで事細かに書いてあったら、説明臭くて仕方ないと思う。
今日は花柄のワンピースなんだね、凄く似合っているよ、ってセリフで雰囲気が良く流れていくところにわざわざ、そのワンピースの丈がどうとか、花の大きさがどうとか、何の花が描かれているのかとか、何色の花なのかとか、そんな説明あったら萎えるって。
「いやいや、そこを想像で何とかするのが漫画家さんの腕の見せ所ではないんですか」とキミがうんざりした顔で、溜め息交じりに言っている。
でも、大体最後は「わかりました、なんとかします」とキミの一言で終了するのが常だった。
そして、電話を切った後悪態をつくのも常だ。
「あの漫画家、阿保じゃないの!! 流行は業界が作ってんだから、本屋で立ち読みして来たらわかるやろ!!」
そして、今日キミは大量の雑誌のページを捲りながら、いくつかに付箋を貼っている。仕事から帰ったボクは付箋の張られたページを黙って切り抜いて、付箋の色事に分けていく。最終的にキミはその切り抜きを宅配便で送り出した。
それから、数ヵ月が経った頃、キミがまたうんざりした顔をしながら電話しているのを見た。
「そうなるのはわかっていたでしょ? それをどうもしなかったのは、アナタの責任ですよ」と心底面倒くさそうにキミが言う。
今度は、急にオシャレになった。できるならなぜ始めからそうしなかったのか。と言う苦情が殺到しているという。
すごい勢いで忘れていく。昨日自分がしたことも。いま自分がいる場所も。昨日出会った人のことも。いま目の前にいる人のことも。
あなたが誰なのか、わからない。
触れてみる。冷たいその手は、わたしの手を握り返さない。琥珀色に光るその瞳は、わたしの眼を見返さない。わたしの語りかける声に、応じることはない。
抱きしめてみる。冷たいその身体は、ほんの少しでも動くことがない。
どうしてあなたにこんなに惹かれるのか、わからない。
わたしはいつあなたに出会ったのか。どういう経路をたどって、いまわたしはあなたの目の前にいるのか。
どうしてあなたは、わたしとともにいるのか。
あなたの名前を知っていた気がする。けれども、今のわたしにはわからない。
昨日あなたといたのかどうだかわからない。いつからあなたといるのかわからない。今日目覚めてからここにたどり着いた経路がわからない。
仕方がないので、仮の名前をつけることにする。わたしの名前でもかまわない?
呼んだ瞬間に、世界がひっくり返る。吸い込まれるように意識が遠のき、気づいたら身動きひとつできないあなたのなか。
狭い視野のなか、あなたがこちらを見ているのが見える。そして、どうして自分がそこにいるのか、思い出そうとしている。思い出すことができないことを、思い出そうとしている。
あなたはわたしに問いかける。どうしてあなたはここにいるの。
答えることはできない。わたしには舌がない。ほんの少し唇を動かすことすらできない。
あなたはわたしに呼びかける。ねえ、お人形さん。
その瞬間、わたしの意識は消える。わたしはあなたのための人形。そしてもうそこから動けない。
「俺たちだけは違う」と思ってはいたものの、いざ別れてみるとただ女側が就職による環境の変化に伴って他の人を好きになっちゃって、まだ大学院生の男側が振られただけという、本当にどこにでも転がっているようなお話になってしまった。今時Twitterで知り合って、何回か会っているうちにちょっとえっちなビデオ通話とかしちゃってなんやかんやあって身体の関係が先にできた、というのも珍しくもなんともあるまい。なんかただ単に別れただけじゃなくて、そのせいで今までの楽しかった年月さえもが急に一般化されて陳腐化していくような感覚がとにかく嫌で嫌で仕方なかった。
外に出なくちゃなあ、というなんとなくの気持ちに追われて犬の散歩に出てきた。五月が始まった途端にやたら元気を出してきた太陽で、水の張られ始めた田んぼがキラキラ、THE田舎の良い風景といったところである。
にしてもなあ、と犬に引きずられながら力なく農道を歩く。こんなに辛いもんかよ。いやいや、こんなに辛いもんかよ! こんなに辛いもんなのかよ!w
当たり前のようにあったものが消えるっていうのは単純ながらキツかった。暇だからって電話かけて、そのまま何時間も繋いだまま眠りにつくなんてのもできない。そもそも余計なこと考えて夜は眠れないし朝は起き上がれない。家族のことを話す相手がいない。ラスカルのスタンプの使いどころがない。AVにイライラする。何を見てても、してても、どっからでも思い出に繋げられる。キモっ。一緒に遊んだアプリ、褒めてくれた靴下、もらった定期入れの中のジブリ美術館の券、もう着けられないペアウォッチ、いろはすスパークリングレモン――
自分の失恋に酔っている自分がいるのは間違いなかったが、だからといって酔うしか対策がないのだからどうしようもなかった。ぐるぐる回ったと思ったら犬は舌を出しながらうんこをしている。お前そういえば明日誕生日かあ。捨てられてたお前を病院に連れてったらあー生後一ヶ月くらいですかねどうせならこどもの日にしちゃいましょうかねって決められた誕生日だけど。もう九歳か。そういやこいつ射精もしたことないんだな。去勢も結局しなくてごめんな。まあでも女なんてほんとよく分かんないぞ。結婚したいとか言ってたくせに二週間で好きな人できることある???
またこんなだ。こんなんばっかだよ最近よぉマジでふざけんなクソが。アーーーーーー♪
窓の外にタクシー
今宵は月がおおきくてまるい
ぼくは珈琲をのみながら
フルトヴェングラーのことをかんがえている
月までの距離と、フルトヴェングラーまでの距離
どちらが遠いだろう
月は、僕の座っている席から目に見える
目に見えている月のほうが
アフリカよりも近いように思う
それじゃあフルトヴェングラーは
僕の心のなかで鳴っているから
アフリカよりも、フルトヴェングラーのほうが
ちかい?
ベートーヴェンの第五交響曲
はじまりの扉をたたく音
ぼくは
フルトヴェングラーの指揮がすきなんだ
三つならんだ八分音符に
こぶしの重みをかんじた
そのあとの一瞬の沈黙に
動物園のゾウが隣にいるような気持ちになる
ぼくは
運命に重さがあることがうれしい
家にかえったら
フルトヴェングラーと筋肉のことをかんがえながら
腹筋しよう
窓の外のタクシーは
今もとまっているけれども
同じタクシーなのかわからない
月に雲
珈琲カップは空になる
帰り支度をしていると
月が雲間から姿をあらわした
フルトヴェングラーが指揮棒を動かした!
あれぐろ・こん・ぶりお
距離や質量をとびこえて
内側にひろがる
自作の詩を昔の日記にみつけたのだった。タイトルは「フルトヴェングラーが鳴る」で、詩を書いてみようと思ったわけでもなく、ただそのころ集中的にフルトヴェングラーを聴いていて、不意に胸が熱くなったと思ったら書いていたのである。すっかり忘れていた詩だったけれども、再読したとたんに僕はこの詩を書いたあとの夜のことを思い出していた。家に帰って腹筋を1200回したのである。翌朝、まだ夜明け前の時間に恋人が僕のからだに馬乗りになってもとめてきたとき、僕は文字通り腰を動かすたびに腹が裂けるかと思ったものだった。
それは4年前のことで、そんなに昔のことではないかもしれないが、僕の寝起きを文字どおり襲った恋人はおらず、僕は仕事もかわって、いつのまにか音楽を聴く時間さえも少なくなっていて、そもそもリュックひとつで家を出た身なのでフルトヴェングラーのCDも一枚もない。空を見あげることもそういえばなくなっていたから、僕には月もフルトヴェングラーもアフリカより東京より遠いものになっていた。
もう一度、詩を読み返してみる。今度は声にだしてみる。すべて過ぎ去ったことだけど、こうして詩のなかに戻っているとき、なんだかまたフルトヴェングラーのベートーヴェンが当時の親密さで感じられてくる。忘れないために書くのかもしれない。