第163期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 おまじない。 雨砂糖 258
2 黒の宣告 留宮 堂 1000
3 悪意にまけないでください tochork 1000
4 私の伯父さん 三浦 1000
5 溶ける mm 690
6 何処へ 奈月 680
7 ハラスメント テックスロー 988
8 花粉症 溜息山王 991
9 朝の訪問者 kadotomo 765
10 想像と記憶 増田あきの 344
11 太初に音あり、音は言葉と偕にあり 池田 瑛 1000
12 友情 笹木杏余 968
13 悲しみのソーセージ 白熊 968
14 暫定と確定 岩西 健治 997
15 銀座・仁坐・入座 Gene Yosh (吉田 仁) 1000
16 午前5時 宇加谷 研一郎 1000
17 行路 たなかなつみ 962
18 takeo なゆら 963
19 半身、あるいは半神 MIKASA 554
20 女装 わがまま娘 989
21 家のするめ qbc 1000
22 反論 euReka 1000

#1

おまじない。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ。」
乱れる吐息。
辛い。苦しい。怖い・・・・
「助けて!」
その声は消えて行く

異変に気付いた、男の人が私に声をかけた。
「!・・・落ち着いて、ゆっくり息を吸え。大丈夫だ。大丈夫。」
私は、言われた通りに、ゆっくり息を吸った。
そして、心の中でその男の人が言った、大丈夫っと、言う言葉を何度も繰り返した。
「・・・落ち着いたか?」
その男の人は、素っ気なく、言った。
私は、静かに頷いた。
「そうか。また、辛くなったら、言え。」
その男の人は、そう言うと、どっかに行ってしまった。

・・・彼は誰だったのだろう?


#2

黒の宣告

 朝起きると右腕がやけに痺れていた。見ると少し青黒く変色している。気味が悪い。昨日就寝する前にどこかにぶつけたのか、と思ったが、それでは痺れの説明はつかない。
 もしや、何かの重病の前触れではないか、と思った。それならまずは医者に見せたほうが良いことに間違いはなかったので、急いで外出する準備をした。露出を防ぐため長袖の服を着るとき、何度か青黒い腕に袖を引っ掛けたが、不思議と痛みは感じなかった。
 病院の受付には、ただ右腕が痛む、とだけ言っておいた。
 午前の9時30分だというのに、大病院の待合所は年寄りで溢れかえっていた。幸い向かう途中右腕を誰かにぶつけたりはしなかったが、起床時より痛みを感じる。骨の内側から響くような、筋肉が内側からほぐされ、繊維の一本一本が千切られていくような痛みが腕に響く。いよいよ症状が出たのか、と実感し始めたところで、何の変化もない左手に握られた券と同じ番号が案内板に映った。
 やっとか、と腰を上げると、さらに強い痛みが右腕を襲った。思わず声を上げそうになる。もしや、右腕をもがれたのでは、と錯覚したが、それは当然のようにぶら下がっていた。
 本当にこの痛みは何なのか。謎の症状に脳まで痺れそうになる。とりあえず早く診察室に向かわなければ、と歩を進める。その瞬間、隣の通路から歩いてきた爺の右肩と、もうとっくにどす黒くなっていた右腕が接触した。思わず瞼を思い切り閉じた。
 叫び声が、白く殺風景な待合室に響く。
 
 目を開けると、先程接触した爺が床で転げまわっている。
 右腕に痛みは、ない。
 爺が暴れ、衣服から覗いた右腕を見ると、どす黒い。
 私は痺れていた脳でひとつの仮説を立てた。その刹那、私は病院を駆け抜けていた。腕を振る。足を動かす。ちらちらと見える右腕には、何の痕跡も無かった。

 病院から2kmは離れている公園のベンチに腰をかける。あれから必死に10分以上走った。これ以上腕も、足も、動かないというほどに。普段走らないからか、久しぶりに走った脚にほんのり痺れを感じた。
 申し訳ない、などという感情がまったく湧き出てこなかった。出てきたのは、激痛から解放された幸福感だけであった。爺の生死などはどうでも良い。今私が生きているだけで幸福なのだった。

「ありがとう見知らぬ爺! 私は解放された! 見ろ! この何の痕跡も無い健康そのものの右腕を! 脚もこのと・・」
 背筋が凍った。


#3

悪意にまけないでください

春がおとずれると、あたしは思い出したように先生にメールを送る。高校の、恩師。
水野先生はたくさんお世話になった担任の先生で、女性の先生。いまは担任をもっていないから楽です、とおっしゃっていたのは昨年で、だったら四月からまた学級を任されるのだろう。
あたしの恩師だけど、卒業してからもう三年も経つから、じつは、いまだに消息を送ることも、ちょっと気がひけている。
そんな数学科の準備室。放課後まで教室にのこる女の子たちの気配が遠くに聞こえる日に、あたしは先生を訪ねた。
「あたし、今年、就活なんです」と水野先生に打ちあけた。
「じゃあ、大変ね」先生はちいさくそう言った。あたしはうなずいた。先生はあたしのこわばった表情、黒にもどしたボブカット、膝においた握りこぶしを見つめた。うそ。あたしが見つめられていると感じてしまう。
そういう見られ方を、まなざしを、就活がはじまってまだ半月、あたしの内側はひしひしと積もらせている。それで先生にみられることにも過敏になってしまう。
先生は抽斗からクリアファイルを取りだした。あたしはそれを受けとった。
それは写真の束だった。そのすべてが生徒たちで、笑っている。女の子たちは笑顔が上手で、男子たちはちょっとぎこちなくて、でもどちらもかわいくて微笑ましい。あたしはこの知らない後輩たちを等身大の高校生だとおもう。当然、だけど。
教室で撮影された友達のあつまり、机に向かっていたり、体操服でソフトボールをしていたり、ストーブをかこんでいたり、文化祭の出店を準備している一風景だったり。
「あなた、懐かしいでしょう。佐々木さんはみんなと仲がよくて、中心にいたわ。屋台づくりを遅くまで話しあったり、卒業式の合唱も。おぼえているでしょう」
「おぼえています。クラスで、イベントぜんぶ、一生懸命やったほうが、楽しいと思って」
「あなたの後輩たちの女の子たちも、同じように団結して、ついこの間よ、卒業したわ」
「楽しそうなクラスですね」とあたしは言った。
「ええ。副担任をしましたけど、瞬く間の一年でした」
 水野先生はあたしからクリアファイルを受けとり、ふたたび抽斗にもどした。
「私は大学生の進路指導はわからないの。でも、あなたも、そしてあなたと同じように就職活動をしている子たちも、長く学校で過ごすなかで、社会で働くために必要な協調性を身につけていると知っています。だから礼儀と楽しさを忘れないで。そして、


#4

私の伯父さん

 母の化粧台には一本のカセットテープが眠っていた。昔はこれで録音していたのだと母は答えて、何が録音されているのかおぼえていないと言った。私は誕生日プレゼントにポータブルカセットプレーヤーをねだった。母は自分が買うからあなたは靴でも買いなさいと言った。
 母はカセットテープを再生した。アコースティックギターの弾き語りで、ぼそぼそと歌ったり叫んだり、プロのものではない男の声が時には音割れしながら小さなスピーカーから流れた。あなたのおじさんだと母は言った。十七歳。その時の私と同じ歳だ。
 クラスメイトの川添くんは「しょうもないゼ」というバンドを組んでいて、私はえみきゅんと二人で川添くんの初ライブを見にいった。ドラムの男子のお父さんも出演していて年齢層は高めだった。川添くんは二番目だった。一番目の人がステージに上がった。椅子にかけてアコースティックギターを構えた。三曲目だった。母とカセットテープで聞いた、デジタルオーディオプレーヤーで今日も聞いていたものをもっと良くしたものを、目の前の人が歌っていた。私も小さな声で歌った。歌詞が所々違った。伯父さんに教わった歌詞はこうだ。

 昼の浮く月が 雲に隠れる
 雨が降る中の 道で濡れている
 今日からきみは 列車に乗って
 どことも知れぬ 荒野をわたる
 ああ 涙は きみと変わらぬ
 ああ 約束は きみと変わらぬ

 夕べに浮く月が 闇にのまれる
 風が吹く中を 涙に濡れている
 今日からぼくは 列車に乗って
 どことも知れぬ 荒野をわたる
 ああ 涙は きみと変わらぬ
 ああ 約束は きみと変わらぬ

 今日からきみは
 今日からぼくは

 ああ 約束は 列車に乗って
 ああ 約束は
 きみと変わらぬ
 ぼくと変わらぬ

 三学期、ライブの打ち上げの帰りに川添くんに告白してふられた。大学には行かずにミュージシャンを目指すと川添くんは語った。私は涙を流してうなずきながら気持ちが冷たくなっていく様を観察していた。川添くんは違うバンドでメジャーデビューした。ライブには行かないことにしていたが、CDを買って応援しているつもりだった。
 引っ越すからと三宅さんにアコースティックギターを譲ってもらった。弦を張り替えたばかりのギターを母が弾いていて、鳴らないながらもそれは伯父さんの曲だった。そして母は伯父さんと「私の伯父さん」というフォークデュオを組んだ。ステージの母を見て父はにこにこしていた。


#5

溶ける

このまま溶けてしまいたい。別々のモノが溶けて混ざり合い、二度と分離できない完全な一つになるまで。

彼女は、ただ静かに微笑んでいる。
僕は、不安な気持ちで、彼女の、手で触るとバランスが壊れてしまうような、繊細な横顔を見ている。この不安定な空気はいつか確実なものになるのだろうか。

「もう帰らなくてもいいの。飲みに行くにしても、もうこんな時間だよ。」
「んー、帰りたくない。でも旦那に怪しまれちゃうから、そろそろ帰るね。」

「結婚」という何よりも固い絆で結ばれている夫婦は、果たしてどれくらいいるのだろうか。
誰かが言っていた「結婚とは人生の墓場」や「結婚とは妥協の産物だ」みたいな言葉。そんな簡単で、一時的な結婚に対する説教は、もう聞き飽きた。

「結婚」すると、二人はもう完全な一つなのか。

「次はいつ会える。」
「予定を見てまた連絡するわ。好きよ。」
「うん、おれも好きだよ。」

「不倫こそ純愛だ。」とか「背徳感が二人を燃え上らせる。」みたいな、不倫を正当化する言葉も、聞きたくない。

「じゃあまた連絡するね、今日はありがとう。あなたも彼女に怪しまれない。」
「うん、大丈夫。今日は遅くなるから実家に泊まるって話したから。」
「そう、じゃあおやすみ。」
「おやすみ」。

誰かと付き合う、同棲する、結婚する、子供ができ、そして死んでいく。
僕らはみんな、一つになったという不安定な気持ちを、誰かに証明してもらいたいだけなのかもしれない。
しかし、その「証明」が、次第に足枷となり、嘘が嘘を重ね、溶け合ったと思った確信は、次第に幻へと変わってしまう。


どうせなら、あなたと溶けて、死んでいきたい。それが幻だと気が付く前に。


#6

何処へ

彼はさくら。私はれんげ。
春休みも終わろうとする頃、少し遠いところへ行きたいとさくらが言った。
「遠いところ?」
「どこだっていいんだけど。一緒に来てほしい」
特に深くは聞かずに、いいよ、と答えた。さくらのことが好きだった。断る理由はなかった。
私たちは電車に乗る。とりあえず終点までと決めた。座席の端に座って、流れていく景色をふたりで眺めていた。もう自分の知らない町だった。
「れんげはいいね」
さくらが言う。
「れんげはちゃんとしていていいね」
さくらの言っている意味はわかる。ちゃんとしているというのは、心と体がちゃんとしているといことだ。さくらは体だけが女の子だった。
「いつも考えるんだ。物質的な僕はここにあって、でも意識的な僕もこの体の中に確かにあって、なんだか借り物みたいだよ。体と心、どっちが借り物かわからないけど」
私は黙るいつも何もいえなくなってしまう。伝えたいことはたくさんあるはずなのに。
いつの間にか終点で、車両のなかにはほとんど人はいなかった。ホームに降りると、入れ替わりに人がするりと乗っていく。
「終点だね」
「うん」
さくらの横顔から視線を辿って、見慣れぬ商店街を見下ろす。その脇道には桜が咲いていた。満開だった。安っぽくなると思いながらも、綺麗だね、とつぶやいた。さくらは何も言わずにまっすぐ前を向いていた。私は、心も体もすぐ隣にあるはずのさくらの手をそっとにぎる。彼の指は温かかった。指先に彼の心が詰まっているような気がした。離したくないと思っていてもいつかはこの手を離すときがきっときてしまうんだろう。彼はさくらで、私はれんげ。心も体も別々のふたり。


#7

ハラスメント

 俺の視界が先だった。そこに入ってきたのだ。可愛くないのに自意識は高い、胸だけが自慢ですといった女の腋が。休日をつぶして社員全員で行くバス旅行のことだった。休憩に停まったPAで、月曜からの仕事の憂鬱をもてあそびながら暇をつぶしていた。俺の座席は後ろから二番目で、ぼうっとフォーカスを合わせたのが運転席から数えて三列目くらいの中空だった。そこに思いっきり腕を伸ばした女の腋が偶然視界に飛び込んできたのだ。
ハッとして腕を組み、腋を押さえて敵意ある目で見られて、まずいことになったと思った。茶化すには距離が遠すぎた。女の刺すような被害者の目は痛いほど俺に突き刺さった。それでお互いの立場が決まってしまった。ぼうっとしていたのは確かだが、本能ははっきりしていた。俺の網膜にはムダ毛処理を施した、つるんとしたきれいな腋がはっきりと捉えられていた。それだけなら俺は単なるセクハラ野郎で終わるはずだった。相応の誹りを受け、陰口を叩かれれば済むはずだった。だがまずいことに俺はその腋に虚無を見つけてしまった。刺青やペイントではない、剃り残しの腋毛でももちろんない、本物の虚無がそこにあった。組んだ女の腕の間でご自慢の胸が盛り上がる。

旅館の売りだという炭酸泉から上るころには大広間に人数分の配膳がされており、部長のあいさつで宴会が始まった。冷めた煮魚をつつきながら新入社員の余興を見ていると、あの女がいつの間にか俺のそばにいた。女は隣の席に座り、「お疲れさまでーす」と笑いながらビールを俺のグラスに注ぐ。その声は少し酔っていて、媚びるような色っぽさがあった。何かを取り繕うような声色にも聞こえるのは、俺がこの女の虚無がどこにあるかを知ってしまっているからだ。浴衣の袖の奥のほう、ビールを持つ腕でぴったり閉じられているその向こう。注がれたビールを口に運び、一口、大きく吸い込むと、唐突に女の視線の焦点が俺の喉仏に合っていることに気付く。本当にまずいことになった。彼女は俺の喉仏の動く瞬間を待っている。そこに俺の虚無があることを分かりかけている。その目は昼間の敵意に加え、明らかな期待の色が見えた。俺は喉を細くし、ビールの流れ込む量を絞るが、喉仏。顎をさらに上げ、女の表情は全く見えなくなったが、女の期待は熱となって俺の喉を焦がし始める。飲み下せずに行き場を失ったビールが舌の上で苦みを増していく。


#8

花粉症

私は、花粉症を信じない。根も葉もない脅威を過激に騒ぐ大衆によって、目鼻の粘膜という端から繊細な器官が煽られた結果に過ぎない。一種のオカルトに違いない。

三月、快晴。杉並区の或るカフェで安いコーヒーを飲んでいる私の右隣に若い女が座ってきた。コーヒーも飲まずに呆けている。女が呼吸する度に、小顔に対して大きすぎる不織布のマスクが膨張と収縮とを繰り返している。マスクが萎むと蒸れの所為で女の太い唇が露骨に透けて、膨らむとマスクの内側に付着した口紅が唇の余韻のように微かに見える。この繰り返しが面白くて暫く我を忘れて見入っていると、女が話し掛けてきた。
「何なの?」
「あのね君、マスクって面白いと思わないかい?君が息を吸った時、マスクは萎むよね、でも君の肺は同時に膨らんでいる!逆も然り、ヴァイス・ヴァーサだよ!あは!これってすっごく面白いと思わない?だって肺の活動なんていう目に見えないものが、一枚布切れを貼り付けるだけで一目瞭然なんだよ!君みたいにね!あはは!ところでどうして着けているのかい、マスク?」
「花粉症よ。決まってるでしょ。」
女は漸くコーヒーを飲もうと、マスクを顎の下に引き擦り下ろした。瞬間、気付いたのだが、女は決して小顔ではなく寧ろ顔は大型で器量が悪かった。大きすぎるマスクは、尖った顎の骨を隠すと同時に錯視を演出していたのだ。
「決まってる?花粉症なんてものは存在しないよ!断言するさ!そんなのは神話、花粉神話だよ!まあ君は随分と器量が悪いから、そんな宗教じみた潮流に便乗してマスクで顔を隠そうとする気持ちも分からなくはないがねえ!図星だろう?秘すれば花、かね?花粉だけにね!あっはっは!」
「貴方は独身ね」
「ええ!」
「人の鼻に迷い込んだ花粉と同じよ。一生雌花には辿り着けない」
「あは!今度はメルヘンと来たか!花粉神話論者は末恐ろしいな!そもそも花粉は精子だろう!私は精子ではないぞ!精子の大量生産なら杉並みにしているがな!あはは!」
「貴方は一体どこに迷い込んだのかしら」
女はマスクの紐を耳から外すと無造作に机に置いたまま帰って行った。

さて、私も続いて店を出たわけだが、不意に鼻の奥から不愉快が堰を切って湧出する感覚。大きなくしゃみが出ると間髪入れずに溢れだす鼻水。くしゃみ、二発、三発。紙の類一切有らず、急いで店に戻りトイレで応急処置。机にまだ残っていたマスクを装着し家路へ。


#9

朝の訪問者

朝の柔軟な日射しの中、彼はやってきた。
主人と息子が出かけた後に。
迎え入れた私は、少しの談話の後、六畳の間に布団を敷く。
「これに着替えて」
大きな掌には、専用のブラとショーツのセットがあった。
私は、それのみを身につけ、布団の上で俯せになる。
大きな手の持ち主は、薄いタオルケットを掛けた後
私の身体の硬質を、弛める施術をしていく。
「凄く 疲れているね」との言葉も無理はない。身体は正直だ。
言葉を発すさずとも、蓄積された疲労を顕にしていたから。

静寂な時が流れる中、心地よい香りが漂ってくる。
「オイル…私、肌弱いけど大丈夫かな?」
「そうなの?敏感肌でも大丈夫なモノだけど。違和感あったら言って」
施術していた手の持ち主は、アロマのオイルを
私の全身に塗擦していきながら「血行悪いね」と感想を述べた。
その手は、私の身体を知り尽くしているかのように
絶妙な力加減で、疲労を快方していく。心地良い。
意識が自然に遠退いていくのを感じた。

「仰向けになって」遠方から聞こえて来る様な感があった。
私は意識を戻し、指示にしたがい、瞼を開けて小声で言う。
「今寝てた。又、寝ていい?」汗ばむ彼は無言で頷く。
今度は私の頭皮から首筋に向けて
10の指に力が入っていくのを瞼を閉じて感じていた。

又もや微睡む私。暫くすると「欲しくなった。いい?」
遥か彼方から響く声と共に、唇に柔らかい感触を私は覚えた。
混沌した意識の中、瞼を開けると彼の顔が目前にある。
彼は私の瞳を見て、耳元で囁く「二人だけの秘密だよ」と。
私はゆっくり頷くと、彼の大きな手の残り香に酔い
いつしか身体に腕を回し、その重さを感じていくのだった。

一年が経ち、時折私は朝の訪問者を思い出す。
今もどこかの屋根の下で、充溢した世界に身を委ね
『二人だけの秘密』を、増やし続けているのだろうか?
アロマオイルの心地良い香りと共に…


#10

想像と記憶

ある土曜日帰宅途中の新宿駅ホーム 白線より下がっお待ちください
アナウンスとおりにする人々のずっと先の中からサラリーマン風の中年男性がふらふらっと歩く出る
入ってきた山手線外回りはまだかなりのスピード その電車にむかって歩く 電車にぶつかった瞬間ワーっと くるくるくるくる バレエのようにくるくるとホームと電車の間に片足が入った状態でくるくる バキバキ骨が折れる音 徐々に電車は止まった その男の身体は人形のように電車とホームの隙間に入り込んだまま壊れてしまった
白昼のあっという間の自殺劇 男性は無謀にも電車に飛び込んで生涯を終えた その電車に乗って高田馬場回り西武新宿線で上井草駅に出る予定だったが もうなかなか動かない山手線外回り 向かいホームの総武線に乗って西荻窪からバスで帰る事にした


#11

太初に音あり、音は言葉と偕にあり

 妻と最後に会話をしたのはいつだったか。確か先々月に一言二言のやり取りをした記憶があるが、定かではない。
 妻はピアニストだ。彼女の奏でる音楽は人を魅了する。譜面に書かれた記号から、個性的、独創的と賞讃される音を生み出す。ただ、自らの声帯を使って音を発することがあまり好きではないようであった。
 そういう僕は物書きで、言葉を書き記したり、パソコンに打ち込んでいくことは流暢だが、話すとなるとからっきしだめだった。会話文が下手くそだ、とよく批評されるがご指摘の通りであると思う。書いている人間がそもそも会話が苦手なのだ。

 妻と最後に会話をしたのはいつだったか。僕は食卓にマックを持ち込み、『短編』というサイトに投稿する千文字小説を書こうとしていたが、着想が浮かばず行き詰っていた。妻は、糠漬けのキュウリを台所で切っている。包丁とまな板が奏でる音は、ピアノの音色とは程遠いほど不格好だった。
 
 トン・ト・トン・ト・トン ト・ト・ト トン・ト ト・ト トン・トン・ト・トン・ト ト・トン・ト・トン・トン

 指先を大事にしなければならない職業であるにも関わらず料理をしてくれることに僕は深く感謝をしている。それについて感謝を言葉で表したことはないけれど。

 執筆に行き詰った気晴らしに、彼女の作りだすリズムをパソコンに打ち込んでいく。そして、その音は一定の周期というか塊を持っていることに気が付いた。一定の塊をパソコンに打ち込んでしまえば、あとはコピー&ペーストで済んでしまう。ロンドの主題だけを繰り返しピアノで弾いているようだった。
 それは、モールス信号だった。言葉だった。僕は、彼女が右手の人差し指だけで、机をトントンと叩く癖を思い出した。あれは、ピアノを弾くイメトレだとばかり思っていた。違った。

 朝食が運ばれてきた。僕は、朝食を食べながら携帯のマナーモードを解除した。ボタンを押す。『あ』を押すと「ピ」の音が。『か』を押すと「ポ」の音がでる。僕は、『あ』のボタンを3回。『ま』のボタンを1回。そしてまた『あ』のボタンは2回押した。「ピピピ、ボッ、ポポ」。「うまい」。
 妻は机を指先で叩いた。そのリズムを僕はパソコンに注意深く打ち込む。妻は、「ありがとう」と言っていた。
 妻との久しぶりの会話だった。

「トン・ト・ト・トン」

「ピッピィ、ポポポポポ、パパパ」

 我が家は、音で満ちている。そして、言葉で満ちている。


#12

友情

飛行機雲が空を断ち切ってゆく。ある冷たい冬の日。空が別れるように俺たちは別れてしまった。この世に「絶対」なんてものは無い。無かったのだ。
なあ、そうだろ?あいつならば何と返すのだろうか。俺は声に出さずに友の名を呼ぶ。焼香を済ませ、煙草を吸いに外へ出た。煙は冷たい風に押し流され、出た瞬間に消えてゆく。こんなに儚いものだったのか。
あいつが光なら俺は影だった。光が無いなら影はどこに行けば良い?俺はどうすれば良い?無限に湧き出る問いかけに答える者はいない。もう、いない。
しなくてはならないことは山積みだと言うのに全く気力が出てこない。のろのろと携帯を懐から取り出す。あいつからのメールをもう一度見る。日付はあいつが死んだ日のもの。何もかもが静止している、そんな気がしてならない。
込み上げる虚しさはだんだんと怒りに変わった。警察は何も分かっちゃいない。俺があいつを殺すなんて、そんなことあるわけが無いんだ。影が光を殺すか?女性関係のトラブル?仕事関係のトラブル?そんな些末なもので俺たちを語るな!あいつは俺の相棒だ。それを殺すなんて、ありえない。分かっちゃいない。なあ、そうだろ?
不意に友の最後の顔を、声を、言葉を、思い出した。涙がこぼれる。あいつからのメールを一つずつ消してゆく。一通り作業を終え、立ち尽くす。新しい煙草を出そうとして残りが無いことに気付いた。仕方なくコンビニへ歩き出した。
これから俺はどうすれば良い?もはや明日のことすら分からない。光無きあと影はどうすれば良い?あいつはそんなこと言っちゃくれなかった。煙草なんてどうでも良い。恋愛なんてどうでもいい。仕事なんてどうでも良い。
空を見上げる。飛行機雲が伸びているが、空自体が別れているわけではない。俺たちの友情は変わらない。だが。俺は。どうすれば良いんだ。
どうしようもなくうなだれる。また、涙が落ちた。誰かが俺の前に立った。どうでも良い。どうせ警察だ。どうでも良い。何かを言っている。どうでも良い。俺たちのことを分かっちゃいないやつらなんぞ。
「自殺幇助の疑いで逮捕します」
手錠が掛けられた。何だ、ようやく分かったのか。そうさ、俺たちはいつも助け合う仲なんだ、殺すなんてありえない。
なあ、そうだろ?
それに答える声は無い。永遠に無かった。


#13

悲しみのソーセージ

 そとは新学期が始まっているけど、きょうは日曜日で、がっこうは休みである。
 父さんと母さんは、学区のイベントで、朝からウォーキングに出かけていて、僕はうちに一人で、テレビの前に座って、体を揺らしながら、Jリーグの試合を見ている。

 僕はいつもゆめのなかで、レアルの10番で、ロナウドと2トップを組んでいて、小柄だけど無尽蔵のスタミナで、ライン・トゥ・ラインが信条で、弾丸・ドライブ・カミソリの三種類のシュートを駆使して、バルサにも勝って、リーガで優勝して、次のチャンピオンズリーグで、ユベントスやバイエルンと戦うのを楽しみにしている。

 僕はこの想像を、いつもしていて、授業の時も、囲碁・将棋クラブの時も、クラスメイトたちに苛められていた時も(ナマズって呼ばれるけど僕は決してナマズじゃない)、ずっと僕はゆめのなかで、色々な角度から、最高のシュートを決めていた。

 僕の体の揺れは波になって、共鳴して、増長して、遠心状に広がって、テレビに緊急地震速報が流れて、画面の中の選手たちが大きく横滑りして、地面に振り回されている。

 十年間、僕の家族だったコーギー犬のそっちんが、今年になって、老衰で死んだ。

 昨年の十月に、父さんと母さんと、にわに炭火鉢を出して、三人で焼肉をした。
 僕は自分のために最後まで取っておいた、大好きな二十センチを越えるソーセージを、網の上で丁寧に育てていて、ついにパンッと破裂して、箸で持ち上げようとしたら落として、下で待っていたそっちんが、ばくりと下に落ちたソーセージに噛み付いて、僕はそっちんの頭を押したけど、そっちんは噛み付いたまま動かなかった。

 僕はいつも、部屋の隅で寝ている太り気味のそっちんに向かって、「いなり、いなり」と呼ぶけど、そっちんは知らんぷりで、「米俵」と呼んでも、知らんぷりで、僕が揺れ始めても、そっちんは屁とも思ってなくて、僕は立ち上がって、そっちんの前まで行って、短い二本の前足を掴んで、ぐるりとひっくり返して、仰向けになったそっちんの白いおなかに顔を押し付けて、泣いていた。

 いつも僕の近くにいたそっちんは、もういない。
 お父さんお母さん、僕はまた、庭に炭火鉢を出して、あの時そっちんに食べられたソーセージを、三人で食べたい。

 外は新学期が始まっているけど、今日は日曜日で、学校は休みである。


#14

暫定と確定

 徹夜明けからの今日は、午前までの勤務であった。中央線は朝のラッシュと比較すると随分ざっくりしたものである。座席の向かいには懐かしい顔。他界した父親の顔である。懐かしそうに照れくさそうに目を細める父親はグレーの作業着を着ていた。その褪せた作業着は、車両の中では逆に目立って見える。がんばっとるな、と言った父親の口は動いてはいない。死んでもまだ仕事なのか、わたしは不服だった。
 吉祥寺で下車して井の頭公園までを歩く。途中のコンビニで缶ビールを二本買う。昨日と寒暖差のある今日の日差しは、わたしのシャツを張り付かせるほど暖かい。池の見渡せるベンチに座る。ここまで父親との会話はない。けれど、父親との濃厚な意思の疎通は感じていた。
 缶ビールを開けると同時に、死んだんだよなぁ、とわたしが最初に口火を切る。あぁ、と父親は短く返事を返してから、母さんも元気そうだな、とどこかで見ていたような口ぶりである。まぁ、天国からかな、とはぐらかす父親の懐かしい匂いは嫌ではない。天国ってあるのか? よう分からん、おまえの考える天国ってのは生きてるものの中にしかない天国だからなぁ、生きていたときに考えていた天国がどんなものだったか俺はもう忘れてしまったよ。だから、今の世界を天国って言うのは暫定だ、それ以外の言葉を俺は知らんから。暫定だ。
 白鳥ボートを漕ぐ歓声が聞こえる。学生か、観光客か。あれは観光客で学生だな、暫定ではなくこれは確定だ。死んだ人間と会話しているのは、これは暫定か? 会話しているんだから、これも確定だな。
 ベンチの端を蟻が歩く。白鳥ボートの歓声。父親とわたしの間を風が抜ける。歩く蟻をはじき飛ばそうとしたが外して、父親の死んだ理由を思い出そうとする。理由とは変な言い方であるが、いくら考えても思い出せない。病気であったか、事故であったか。
「写真お願いできますか?」
 二人連れの観光客がわたしにスマホを差し出す。
 飯でも食おうか? わたしの提案に、そうだな、でも、はな子が先だ、と父親は言う。二枚、写真を撮ってから、振り向くと父親はもういない。帰ったか。そう呟くと、父親は事故で死んだのだと強く思い出してしまった。
「ゾウって、ここまで匂うんですね」
 スマホを受け取った観光客が笑う。
 風が走って、ベンチの上の父親の缶ビールだけが倒れた。わたしは母親に電話したくなったが、まずは、はな子が先である。


#15

銀座・仁坐・入座

3月から4月は銀座は退店、入店の時期であります。娘たちからのバレンタインのプレゼントのシーズンからホワイトデイのお返しに新しいお店での切り替えのお返しの入店お祝いを求めやすいので、これも卒業(退職)の時期に重なり、送別会を2次会でクラブでと懐も緩みやすく、新規のお客さんでは社内異動などの歓迎会シーズンにつながるのであります。ここ数年、銀座にも居酒屋の進出もカラオケBOXも数多く朝まで遊んでいる若者も多くなり、銀座の楽しみ方も様々でございます。金曜日でも週末の予定があると早く帰宅しなければならないが、ウィークデイはサラリーマンは定時出社が課せられ、なかなかこの時期、社内行事も詰まっているため、時間がない。気候も温かくなって気持ちも緩みがち、なかなかタフなシーズンであります。この3月は先輩社員が雇用延長65歳まで勤め上げた40年以上のサラリーマン生活に卒業される方がいて、まだまだ元気ですので、雇ってくれるところがあれば、同じ仕事を続けると思いますが、30年越え40年に近づいている吉田はこの数年でどう仕上げをするか気持ちを切り替えてさらにエンジョイするか、海外の経験を生かし、東京五輪に最後の一花を咲かせるか、今と全く違う事業を立ち上げさらに世界進出を図るか。いずれにしても、銀座の娘たちと夜な夜な飲んだくれる週末のカンパネを満喫することを卒業するわけにはいかないのであります。
吉田の輸送の仕事は、機材の大幅な変更が実現し、スポーツイベントが今年はリオ五輪、2018年は平昌冬季五輪、ロシアワールドカップが続きます。吉田の客先である放送局は4K方式に本格変換し、メデイアと通信の融合が加速化する。この数年でスポーツ番組は全種目全番組録画が当たり前になり、見たいものを選ぶ方式に変わるのではないでしょうか。そして2020年、何かと問題の多い東京五輪と続いて参ります。新国立競技場、関連施設の建設もこれから本格化しますが、テロ対策を含めて事故が起きないことを切願いたしております。追加される競技もこの秋に決定すれば、日程や放送権の販売など予算も一気に動き始めると思います。今年は吉田の顧客も東京に向け出荷してくる日本以外の海外メデイアの顧客獲得が主体になると思われ、海外メデイア顧客のスポーツイベントの予算は潤沢ですので我々もその恩恵を受け、銀座の接待の場も広がるのではないかと期待しております。


#16

午前5時

朝5時に起きるようにしてからすこぶる気分がよくなった。仕事は忙しいし、体の疲れもとれてはいない。眠るのが午前2時すぎることもよくある。それでも朝は5時に起きていこうと決めてから生活が変わった。7時までたっぷり2時間つかうことができるのだ。朝活と称して勉強すれば有意義かもしれないが、俺は勉強するつもりはない。どうせ眠ってすぎていく2時間なのだから、堂々と無駄につかおうときめたのである。

問題は起きることができるかである。コツは目覚ましをいくつも部屋に隠すこと。1分間隔で鳴り響く時計を這いつくばって消してまわると最終的にデスクにたどりつくようにした。そのまま着席したらまずバロック音楽のネットラジオをつけるのだ。そして前夜に水をいれておいた電気ポットで湯を沸かし、コーヒーをつくる。

無駄にすごそうと決めた2時間。何をしようかと思って、そうだ、他人の人生を生きてみよう、とあるとき考えた。ノートを5冊準備する。それからWEB上で、自分の興味のある人間を5人、選ぶことにした。誰もが実名匿名で自分の生活を記述し報告している時代である。俺はおもった。ただぼんやり暇つぶしに他人の日記を読むのではなく、その記述に俺自身を没入させてみよう。

簡単なことだ。WEB上の日記を万年筆でノートに書き写していくのである。手書きだと、時間がかかる。コピーペーストとはかかる手間が比較にならない。だが時間をかけて書き写しているあいだ、書いている人の思考をたどることができる。書き手の人生に深く触れることができる。

ある富豪の男性は毎朝5時に起きている。まず彼は台所にたって、コーヒーの生豆を焙煎し、やかんに火をかけ、焼いたばかりのコーヒー豆を挽く。フライパンにバターをのせてプレーンオムレツをつくり、コーヒーと卵の朝食をとるのである。俺は彼の繰り返される日常の記録を書き写しながら、今ごろ実際にどこかの邸宅の台所にひろがる焙煎機の香りをおもう。それから彼の言葉にある「保有スキルが高度かどうかより、スキルが独立しているか」という一文を手を通じて体になじませる。

ある女子大生は今日も秘密の仕事をしてきた。派遣マッサージである。彼女は客とのやりとりを綿密に記述している。仕事は仕事とわりきっている彼女には1人だけ例外客がいて、その相手とは恋愛ギリギリの境界にいる。俺は女装の趣味はない。だが書き写している時間、その女になっている。


#17

行路

 後ろから追いかけてくるので、ほかにどうすることもできずに、ただ逃げている。先日傷めた左足首はまだ大きく腫れていて動きづらいし、背中の筋もこわばっていて走るたびに痛む。けれども走り続けざるをえないので、そうしている。
 前を行く少女には羽根がある。軽やかに羽ばたきながら、軽やかに駆けながら、こちらを振り返っては笑っている。彼女の羽根から飛んでくる鱗粉が気管に入り込み、苦しくて仕方がない。私の前を行くなと叫びたくなるが、そうすることもできないぐらいに疲れている。痛む足を引きずりながら、時に咳き込みながら、だらだら坂を上り続けている。足音は後ろからずっと聞こえてくる。それは時に忍ばせるように、時に音高く、私を苛む。
 雨が降ってくる。前を行く少女の羽根が濡れて萎れて畳まれる。これで鱗粉に悩まされることはなくなったと安堵するが、今度は降りしきる雨が口のなかに入ってきて、呼吸のしづらさは変わらない。服がしとどに濡れて肌に貼り付き、気持ち悪いうえに冷たくて寒い。着替えは鞄に入っているが、取り出して着替えるための時間も場所もない。背中の向こうの足音はずっと聞こえ続けている。足を止めるわけにはいかない。走り続ける。
 目の前を行く少女が足をとられて倒れる。助け起こすわけにはいかないし、そうしたいとも思わない。青ざめた顔で横たわる少女をわき目に、力の限り脚を動かし続ける。少女の責めるような瞳が目に入るが、声をかけようとは思わない。後ろから追いかけてくるものの足取りはゆるまない。雨音の合間に霞むように、けれども力強い足音が響いてくる。
 道は下り坂にさしかかる。笑い声が聞こえる。四方八方から聞こえてくる。耳をふさぐことができないので、聞き続けるしかない。笑い声はどんどん甲高くなっていく。仕方がないので私も笑い始める。天を仰いで笑いながら、両腕を大きく振って走っていく。
 やがて夜になる。もう息が続かない。脚も身体も疲れ切り、もう一歩たりとも動きたくない。けれども立ち止まるわけにはいかない。振り返ればそこにいる。それを目にしたら終わってしまう。終わらないためには走り続けるしかない。すでにすり切れてちびてしまった脚を小刻みに動かしながら、ゴールに向かってひた走り続ける。
 ゴールの向こうにあるものを、おそらく私は知っている。


#18

takeo

口紅を薄く引いたらさようなら、別れ際ぐらいきれいでいたい。
あなたは何か言いたそうな顔、あたしのグラスをじっと見ている。
本当は、あたしだって別れたくない。けれどそれだけつらくなる。
どう転んでもあたしとあなたは幸せになれない。最初からわかっていた、割り切ってつきあうつもりだった、あたしもあなたも。少し深く入りすぎたのよね。こうなる前に別れるべきだった。いけないと気づきつつ回数を重ねた。あたしはあなたなしでは生きられなくなる予感があった。
実際、生きられないから死ぬつもり。
別れた後、そのままどこか高い場所に行って、飛び降りる。
もしくは農薬なんかの毒を飲む。
もしくは鋭利な刃物で手首を切る。
流れの速い川に飛び込む。
腕にいいスナイパーに狙わせる。
すごく熱い中華丼を頭からかぶる。
自ら呪いをかける。
メガンテを唱える。

「リレミトを唱える」
武男?
「毛布で包んで唇を奪う」
武男、あたしあなたがすきですきでたまらないの。
「僕だよひかり」
けれどもうダメなの、このあとすぐに手榴弾を飲み込むつもりなの。
「ひかり、そんな手榴弾に口づけして黙らせる」
もしくは通過する電車に向かって飛び込む。
「そんな電車に口づけして黙らせる」
首に縄をかけてぶら下がる。
「縄に口づけ」
どうしてあたしの自由にさせてくれないの、それならいっそのこと武男を刺す。
「むろん武男に口づけだ」
武男に?「口づけだ」
誰が?「むろん武男が、だ」
武男に?「口づけだ」
どうやって?「まず、片方の武男の注意をそらす」
片方の武男?「そしてもう片方の武男を促す」
うながす?「口づけしてこいよって促す」
さらなる武男!「武男パラダイスさ」
パラダイス?

「さて、武男を口づけで黙らせた武男はかすかに頬を染めているし、口づけされた方もその余韻にひたっている、それを見ている武男は腕組みして満足そうにうなづいている。通りかかった年配の武男は冷やかすし、散歩させていた武雄がふいに糞をしたので、あわてて処理をする。つよい春武男が吹く。すっかり春だなあと武男はつぶやく。ほら、武男がひょっこりと地面から顔を出している。これは卵でとじたらうまいんだぞ、と父武男は息子武男に教えている」

そのパラダイスにあたしはいるの?
「ひかり武男、さあ、おいで」
あたしは、ひかり武男なの?
「こっちで武男、武男武男。武男武男武男」
武男。


#19

半身、あるいは半神

男は旅をしていた。なぜ旅をしているのか男にもわからなかった。男の体は半分しかなかった。

半身の男はある街に着いた。そこでは人々が忙しなく行き交っていて、声をかけても応えてくれそうにはなかった。半身の男は安堵した。
何を考えるでもなくじっとしていると、一人の少女が声をかけてきた。

「何をしているの?」

半身の男は応えた。

「何もしていないよ。いや、何もできないんだ、僕は」

「そう、なら私と同じね」

少女は笑った。半身の男はそんな少女の笑顔に心惹かれながらも、なんだかひどく悲しい気持ちになった。
それから半身の男は少女と過ごした。相変わらず街は冷たく、二人が何をせずとも勝手に時は過ぎていった。

ある時、少女が言った。

「私、あなたが好きだわ。私もあなたみたいになりたいの。どうすればそんなになっても生きていられるの?私には到底できそうにないわ」

半身の男は、少し泣きそうになりながら応えた。

「人はね、半分になったくらいじゃ死ねないんだ。少なくとも僕はそうだ」

「ふぅん。それなら、私を半分あげるわ。そのままでいるのは嫌でしょう?」

「ありがとう。だけど僕は今のままで十分なんだ。半分だけどね」

半身の男はなんだか満ち足りた気分になって眠りについた。





ーー男が目を覚ますと、隣で半分になった少女がねむっていた。男は冷たい街を後にした。


#20

女装

「ねぇ、珠里ってそういうの、好きなの?」と、後ろから声をかけられて振り返る。手はシフォンのワンピースの裾を握っている。
「好きって言うか、うまく体型をごまかせるから」と笑って理沙に言う。
「でも、珠里って体系を隠さないといけない?」と、理沙が伸ばしてきた手をさりげなくかわす。
「大学入ってから、運動不足で結構ヤバいんだって」
「隠したら余計にヤバくなるって言うじゃん。ちょっと出してみたら?」
苦笑いを浮かべる自分に、理沙が何気なく言い残して別の服を見に行った。

「露出したら、マジヤバいって……」
理沙との買い物から帰って、開口一番に呟いたのはそれだった。俺、男だから。露出する服なんて着たら、一発で男だってばれるから。と思うと、高校の時はよくばれなかったな、と不思議に思う。
別に好きで女装をしているわけではない。高校の時は、それなりに事情があって女装していただけで、高校を卒業するのと同時に女装からも卒業できるのだと思っていた。
それが、どういうわけか今もまだ続行されていることに溜め息をつくしかない。
玄関から脱衣所に直行して、着ていたものを全て脱ぎ捨てる。ウィッグを外すと、頭が随分と軽く涼しくなる。
洗面台からクレンジングオイルをひったくり、風呂場で化粧と匂いを洗い流す。
さっぱりして出てきたはずなのに、脱衣所に散乱した服を見て、再び気分が重くなる。
先程まで着ていたシフォンのブラウスやストッキングを洗濯ネットに入れて、洗濯機に入れる。自分の服を洗うのに、洗濯ネットが必要とは驚きだ。
洗濯機のスタートボタンを押して、着替えるためクローゼットを開ける。
正直、本当はそういう趣味があるのではないか、と疑ってしまいたくなるクローゼット。高校生の間は「制服」という便利なものがあって、それなりになんとかなっていたけれど、さすがに大学生になると「制服」なるものはなくて、自力でどうにかするしかなくなった。
1着、2着で何とかなるかと思っていたら、意外と何ともならないという事実にも出くわして、思いの他増えてしまっている。
「もういい加減、理沙のことを無理矢理にでも自分のモノにしてしまうか、きっぱり諦めてくれれば処分できるんだけど」
と、ひとりごちってクローゼットの中の衣装ケースから着替えを取り出す。
「いつまでこんなこと、続くんだ?」
見たくない現実から目を背けるように、俺はクローゼットの扉を閉めた。


#21

家のするめ

(この作品は削除されました)


#22

反論

 時間虫は、時間を食べます。
 アリクイがアリを食べるように、時間虫は時間を食べるのです。
 時間虫がまだ何も食べることを知らない虫だったとき、時間と、みかんと、警官のどれかを選べとその人に言われました。何も食べないということは、この世界に存在しないことと同じなので、どうしても選んで食べろとその人は言うのです。
 その人というのは神様のことですが、もし警官を選んでいたら警官を食べなければならないわけですから、ずいぶん無茶な話なのです。しかし、警官が増えて街中にあふれてしまったらきっとみんな息が詰まってしまいますし、警官が増えたからといって街が平和になるわけでもないでしょう。むしろ数が増えすぎたせいでやる仕事がなくなった警官たちが、本来の目的や使命感を失って犯罪に走らないとも限りません。みんなから邪魔にされ、おまけに目的や使命感まで失ってしまったら誰だって絶望してしまいます。ですので増えすぎないようにそれを食べなければならないという言う理屈は分かるのですが、時間虫はまだ何も食べることを知らない虫だったので、いったいどれを選べばいいのか分からないのです。

「じゃあみかんにしろ」と、その人は言いました。
 でも、みかんは他に食べる人がいるじゃないですかと時間虫は反論しました。
「むむ、じゃあ警官にしろ」
 でも、警官に採用する人数を制限すればいいじゃないですか。
「むむむ、じゃあ時間を食え。時間は誰かが食べるしかないのだぞ」
 でも、でも。
「さあ、おいしいから一口食べてごらん」

 時間虫が最初に食べたのはスプーン1杯の時間でした。これで百年分です。
 ボトル1本が1万年分で、タンクにはそのボトルを1万本集めた量が入っています。さらにそのタンクは、コンクリートで整地された広大な敷地に1万基ならんでいます。
 時間虫の目には、その景色が巨人の墓場のように見えました。しかしタンクの表面には何も書かれていないので、きっとお墓参りにきた人は目当ての墓を見つけられないでしょう。そんなことを考えていたら、時間虫は悲しくなりました。

「それでも愛はあったんだよ」と、死に絶えた巨人は言います。
 でも、愛と言えば何でも許されるのですかと時間虫は反論します。
「われわれはこんな悲しいものしか残せなかったけど、そこに愛があったことは嘘じゃない」
 でも、僕はそれを食べなきゃならないんです。
 あなたたちの愛なんて、うんざりだ。


編集: 短編