# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 埋め干し | 溜息山王 | 993 |
2 | 伸びーる、伸びーる | 前田沙耶子 | 995 |
3 | 馬頭 | 藤崎 | 323 |
4 | 古の都 | kadotomo | 1000 |
5 | 昨日見た夢 | kei | 889 |
6 | 卓くんとの再会 | 三浦 | 906 |
7 | なぜかフィレンチェ | 池田 瑛 | 999 |
8 | 私 | 高田千里 | 353 |
9 | 女の子は泣きながらドーナッツを食べる | なゆら | 894 |
10 | いつも大変お世話になっております。 | テックスロー | 988 |
11 | 銀座・仁坐・陽座 | Gene Yosh (吉田 仁) | 1000 |
12 | 草を食べる社員たち | 白熊 | 1000 |
13 | 主人公と仙人 | たなかなつみ | 850 |
14 | 息子の背中 | サクラ | 448 |
15 | 平日プラネタリウム | 岩西 健治 | 997 |
16 | 机上の空談 | 田ん穂 | 994 |
17 | 街 | かんざしトイレ | 1000 |
18 | ホットパンツ | わがまま娘 | 981 |
19 | キリマンジャロの雪 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
20 | 眠れる森の美女 | 笹木杏余 | 983 |
21 | 白 | qbc | 1000 |
診察室から表情の重い数人が出てきた。むしろ追い出されたと言うべきだろうか。八十歳を超える高齢で、植物状態のため常に点滴を欠かせない患者の家族は、こうして毎日の如く病院に通っては医者に哀願している。長く入院すればその分の金が入る構造のため、医者も、会話も食事も出来ない伽藍の命を必死で延長するのだ。
私には、不動の蛋白塊の心拍を、多額の医療費を払ってまで持続させんとする家族が非常に不気味であった。そして、家族の濫費を悠々と手中に収めては蛋白塊に透明液を惜しみなく注ぎ込む医師が、堪らなく厭わしい存在に思えた。ナースステーションで昼食のコンビニのお握りを貪りながら、私はしばしばこのようなことを考え、眉間に小皺を寄せた。
緊急呼出のブザーがなったのは、ちょうど南高梅のお握りの二口目を口に含んだ瞬間であった。ステーションには私以外のナースが不在であった為、私が出向く他無かった。機械的に整形された白米から、痛ましく紅い梅が顔を覗かせていた。
液晶に表示された病室の番号を追って、わざとらしく小走りをした。突然の呼出に、唾液腺も驚きを隠せず、舌根に蔓延るアミラーゼが不愉快だった。病室の前で立ち止まり、掲示された名札を一瞥すると私は一抹の安堵を感じた。醜い家族に往生を邪魔されてきた例の老人だった。私は背後に気を遣い、黙って病室に入った。老人は、目を引ん剝いて緊急呼出のボタンにしがみ付いていた。来院してから一度として動くことのなかった老人の敏活な姿に、思わず動揺した。傍若無人な家族と医師の所為で、安静な死をも奪われた彼の、余命を振り絞った反抗にしか思えなかった。私は心から同情した。そして、心を落ち着けると、静かに口に接着された酸素マスクを剥ぎ取った。老人は二度ほど咽た後に柔和な表情で眠りについた。同期して、心電図も直線を描き始めた。
僅かな間を置いて、緊急のブザーが喧しく鳴り響いた。ぞろぞろと看護師や医師が急いで来た。自分の責任の範疇外で起きた死に群がる様は野次馬のそれと寸分も違わない。遅れて主治医が部屋に着くと、少し落胆したような表情を見せた。それは余りに滑稽で、私は思わず緩みかけた表情筋を決死の思いで押さえ付けた。間もなく遺体の始末などの雑用を担当の者がそそくさと行い始めた。
私はステーションに戻り、持ち場に帰った。米に埋もれた梅肉が、尚も蛍光灯の光を反射している。
伸びーる、伸びーる、豆苗が。5センチ程だったのが今や出窓の上に届きそうな高さ。窓辺とは言え日当たりも悪く換気も水換えもろくにせず、そんな環境でもすくすくと育つ、豆苗。
休職期間に入って2ヶ月が過ぎんとしている。どうやら社会人としての才能に乏しい私は入社1年足らずであっという間に鬱病に。家とコンビニ、定期的に病院を往復する日々である。そんな中、気まぐれに思い立って自炊した時に使った豆苗。根本を水に漬けておくと再収穫できると知り、タッパーに入れてみた。みるみるうちに伸びてゆき、今や食べるのが勿体無いような、立派な観葉植物へと進化した。
ベッドに寝転びながらぼんやりと観察。雑誌や空のペットボトル等が散乱する出窓で、一際異彩を放っている。圧倒的な存在感。昔沖縄旅行に行った際に見たガジュマルという大きな木を思い出す。しかし本当に不思議だ。最後に水を換えたのはいつだっけ。カラカラに干からびていてもおかしくないはずなのに。私はテレビを消して体を窓側に向け、真剣に豆苗を見つめる。
その時覚えた不思議な違和感。伸びている。茎と葉がにゅるにゅる伸びている。今。あれよあれよと言う間に出窓を乗り越え、天井の辺りまで。わあ、凄いぞ。大発見だ。この現象を調査して論文にして発表すれば、もう働く必要もないぞ。
電灯が覆われ部屋が暗くなった。さながら鬱蒼と草木生い茂るジャングル。冷蔵庫、テーブル、テレビ、全てが覆い尽くされて、物という物が竜巻のように絡め取られる。そしてついにその手がベッドまで伸びてきた、これは大変だ。毛布が吸い込まれていく。枕を掠め取られそうになり必死の抵抗。も虚しく、私は体ごと尚も成長を続ける豆苗に吸い込まれ……。
しゃく、と顔のすぐ横にある葉をひと噛みすると、その途端に豆苗は動きを止めた。む。美味い。しゃくしゃくしゃく。食べ進めていくとテーブルに置きっぱなしになっていたマヨネーズが顔を出したので撒き散らして、食べる、食べる。ああ、美味い。そういえば昨日から何も口にしていなかったのだ。しゃくしゃくしゃくしゃく、ついでに物や家具もばりばりがりがり。電灯も、テレビも、カーテンも。
やっとお腹がいっぱいになった頃、部屋はベッドと空のマヨネーズの容器だけになっていた。食べちゃった。全部食べちゃった。満腹で眠くなってくる。ああでも、毛布も食べちゃった。
私は仕方なく部屋を出て、数日ぶりに外へ。
その奇怪で妙に艶やかな生き物が、その鍛え上げられた臀部の筋肉が、その黒曜石にも似た暗黒の眼球が、その穢れ無き処女のような鬣が。
馬たちの乱雑なその走り方に親指は悲鳴を上げている。
せめて細長い筒状の檻が牧場であればと思う。
私の仕事は日に数万頭の馬が走り抜けるその頭を数える事だ。
走り抜ける物の数を数える為に造られた特殊な装置を駆使し、私はその装置に設置されたボタンを、馬の頭と同数押し続ける。
皆、私を変人扱いする。それもそうだろう。この仕事を始めて三年になる。
私は当初から動物が嫌いだし、馬などまったく見たくもない。変人扱いも出来ればされたくない。
だから私はその特殊な装置を思い切り馬に投げてつけておならをしてやるのが最終的な野望であり夢なのである。
誰もが承知しているであろう『清水の舞台から飛び降りる』との言葉
京都の清水寺にある『清水の舞台』の上にいる
「ここ来たらいつも思うねんけど、そんな高うないね」と彼女が笑う
俺は青々と生い茂っている楓の葉を見下ろしながら
「旦那さんとも来たことあるん?」と質問してみた
「旦那とは来てへん」
木製の柵から少し身を乗り出しながらの返答だった
「行こか」
伸せば届く華奢な掌に触れる事は許されないから、並んで歩いても少し距離がある
「ホンマ晴れ男やね」
雨雲の狭間から挿し込む光を仰ぎ見ながらの言葉
「俺が気ぃ抜くと雨降るねん」
そう言うと彼女は不思議そうな顔をして笑い出す
「そんなん?毎日気ぃ張ってなあかんやん。大変やな」
『笑顔が似合う』この言葉は彼女の為にある
そう確信した矢先に「次は雨の日に会おか」と再び笑顔を向ける
「下から見る舞台もええね」
「昔はホンマに人が飛び降りてたみたいやな」
俺は歴史あるこの地を感慨深く見回しながら
華奢な掌を握ってみた。少し驚いた様子だったが握り返してくれた
産寧坂へと足を進めていき
彼女は京土産の雑貨屋さんの前で足を止めた
俺は中へ入るように促し外で待つ
坂の途中から見上げる三重塔は風情がある
「奥さんとはなんで別れたん?」
戻ってくると核心を付く質問をして来る
「ゴメンなワケ云われへん」
彼女は「そうか」と呟いた
「娘さんとも会われへんの? 」
俺は静かに頷き「娘の事は、可愛いいんやけど…な」
「うちの息子と年、変わらへんねんね」
「4月で五年生になる」
「そうか」
静寂な時が流れ 坂も終わり掛けの頃
「これ貰ってもらえる?」と、俯き加減の彼女から手渡される
「明日お雛さんやし。娘さんと連絡取れたら渡してあげて 」
包み紙に先程の土産屋の名前が記されている
「何これ? 」
「ミニお雛さんセット。可愛かったし買ってしもた」
15cm位の四角い品物を手にすると、何故か急に胸が締め付けられた
「ごめんな。娘にも連絡出来ひんねん」
消え入りそうな声で発っすると
彼女は泣きそうな表情を見せ「ごめん。要らん事してしもた」
と小さい声で謝られた
その表情を見ると今迄取り繕ってきた娘に対しての感情が
溢れ出し胸が押し潰され涙が出た
家に着くと彼女からのSNSに気づく
先程の京土産の画像だった
『娘さんとの写真待ってるしね。頑張りや!』との言葉を添えて
「15年前と全然変わらんな」
俺は苦笑いをしながら
『雨の降る日、待ってるし。元気でな』と返信をした
彼はドラッグストアにいた。ドラッグストアのはずなのにそこはスーパーのようだった。彼は店の中で服を脱ぎ始めた。というのは、周りの人間がみな自分と同じようなパーカーを着ていたからだった。別に、彼にあまのじゃくだという自覚はなかった。みんなと同じ制服を着ていてもとくに不満はなかった。けどなぜかその時はみんなが自分と同じような服装をしていることがひどく気に入らなかった。彼は上半身裸で店内をうろつき始めた。一人の老人とその孫らしき男の子が、彼の方を見た。けど彼らは全然、彼が上半身裸だということを不思議に思わなっかった。
しばらくして、彼はAを見つけた。Aというのは彼と同じ学校に通っているクラスメイトだ。おしとやかな才女という感じで、彼女に興味を持つ男も多くいた。彼はその彼女を見た瞬間に、これはまずいと思った。彼は自分では認めたくなかったが、一人の男として、彼女に興味があった。こんな恰好を見られるのはまずい。どこかに隠れなければ。そう思った彼は商品棚の隅に身を隠した。だがばれるのも時間の問題だ。そう焦っていた時、彼の元にパーカーがあることに気づいた。それは誰が着ていてもおかしくない、没個性的な黒いパーカーだった。彼は慌ててそれを着て、急いで店の外に出ようとした。
よし、彼女には見つからないだろう。そう思って店の自動ドアまで来たとき、彼はMと偶然顔を合わせてしまった。Mもまた、彼のクラスメイトの男だった。彼はMが嫌いではなかったが、Mの気弱で臆病なところを見ると、彼はとてもイライラした。しかし彼もまた臆病な人間であった。彼は自分のそんなところが嫌いだった。だからMを見ると、自分の情けなさというものを見せつけられているようで、それがとても嫌だった。Mは彼に気づくと、少し気まずそうに目を伏せ、何も言わずに店に入っていった。Mも、彼と似たような無彩色のパーカーを着ていた。
彼は店から少し離れた駐車場にいた。彼の気持ちは暗かった。憤りと自責、少しの安堵が絶えず渦巻いていた。彼はその気持ちにどう向き合えばいいのか分からず、ただしんしんと雪が降る中で一人立ち尽くしていた。
小学五年生の二学期から卒業するまで卓くんが好きだった。卓くんは私と一緒に図書委員をしていて、ミヒャエル・エンデやハリー・ポッターを読んでいた私に江戸川乱歩の少年探偵団を薦めてくれた。それが一学期で、二学期から卓くんは私のことを無視するようになった。六年生になって卓くんと私は学級委員に選ばれ、すると卓くんはまた私と話すようになった。どうして無視したの、とは聞けなかった。そして卓くんは卒業式の翌日に他県に引っ越してしまった。
あいつ死んだよ、と田中くんは言った。高校三年の三学期にバイク事故で亡くなっていた。遅刻組の原ちゃんとみよちんが到着して田中くんは離れていった。同窓会の帰り、誰もいない日曜の夜明けの道に陽炎のように歪む黒い渦が口を開けていた。これに入ると時間旅行できる。中学一年の一学期以来だ。私は卓くんのことを考えて渦の中に入った。
真っ黒でゴムのような水中と地面のない真っ白な空を抜けて私は自分が通った小学校の正門を目の前にしていた。探すと渦は正門の右側にあった。私は上着とマフラーを脱いで校内に入った。すれ違う子供たちにこちらから笑顔で挨拶する。校庭に回ると時計が三時を指しているのが見えた。事務職員に弟を探すと断って校舎に上がると図書室に向かった。理科室を過ぎた辺りで早川か、と声をかけられた。振り返ると理科室から体を出した男が神谷卓だよと自分を指して言った。理科室に入り卓くんが扉を閉めるのを待って、今何歳と聞いた。二十五と卓くんは言った。年上だ。そうか、と卓くんは悲しそうに笑って、早川に助けてもらったんだ、と言った。そしてこのまま自分と未来に帰ってほしいと言った。私は先に行く卓くんのあとを歩いた。どうして無視したの、と聞くと、卓くんは前を歩いたまま、好きだったんじゃないかなと言った。正門の渦の前で、ここでお別れだと言われた。同じ時代にはたぶん着かないと思う。長生きしろよ、と卓くんは言った。私は笑って、手を振って渦の中に入った。
あいつ死んだよ、と田中くんは言った。高校三年の三学期にバイク事故で亡くなった。
同窓会の帰り、誰もいない日曜の夜明けの道には何も変わったところはなかった。
私の趣味は、日記を付けることと、旅行。今年度は仕事ばっかりだった、と年度末に日記を読み返しながら振り返っていた。ちなみに、日記は、母親の、「独身の時は日記を付けなさい。恋に惑わされないように。でも結婚したら日記はやめなさい。旦那の文句しか書かないから」という躾だ。
自分らしく一人旅に出ようと思った。行き先はオーストラリア。ずっとエアーズロックに行ってみたかった。年度末に、余った有給を消化するようで少し引け目を感じたけれど、部署の営業成績は達成していたので、問題なく休暇を貰えた。
土日を入れて、9日間の休暇とツアー。空港の受付カウンターは団体旅行客で長蛇の列。時間にも余裕がありすぎたので、先に、暫く食べれない日本食でも食べようかとトランクを引いて空港を歩く。結局は、比較的空いていた豚カツ屋に入った。相席。私と同じくらいの年齢の男だった。席に通されたのが同時だった。トランクを預けていない者同士ということなのか、4名席に2人で座った。私のヒレと彼のロースが運ばれてきたのは同時だったが、彼は自分のパスポートを探し続けている。
「胸ポケットにあるのは?」と私は諦めて口を開いた。
「あ、ここにあったか。ありがとうございます」と男は言った。そして暫くの沈黙とキャベツお代わりの後、「どちらへご旅行ですか?」と男が尋ねた。
「オーストラリアです」と私が答えると「私はイタリアです。行き先、違いますね」と男は言った。少し残念そうだった。食事で相席になったのを何かの縁であると勘違いしたのだろうか。同じ行先の確率など低いだろうに。
「よかったら、一緒にイタリアに行きませんか?」
私の隣には赤いトランク。この空港でトランクを持って移動しながら、チケットを購入していない者がいるだろうか。国際線の空席待ち? 聞いた事も無い。
「チケットとか滞在先なら心配しなくてもいいです」と男は言い出した。
「せっかくですが、私の行き先は決まってますので」
「一目惚れしました。チャンスを下さい」
箸を持ったまま両手を合わせて、仏像を拝んでいるような男、そして状況についていけない私。
「もし、まだ私の乗る飛行機に空席があって、それを買うことが出来たら、私と一緒にイタリアに行ってください」と男は言った。そして、私は、旅とは冒険であるという言葉を思い出した。
日記の習慣を止めることになった。日記を読み返し、その冒険を懐かしく思う。
私はお嫁さんになりたかった
私は小説家になりたかった
私は頭がよくなりたかった
私は優しい人になりたかった
私は、私は。
どれにもなれていない気がする
それは、私の人生と胸を張って言えるのだろうか
教えてください、私はどうすればいいのですか、どうしたら自分らしくある事ができるというのですか。どうしたら夢が叶えれるのですか。この現状から、どうか助けてください
目の前の、自分にすがりつく少女が泣きわめく
自分の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たい色をしていた
「誰にも助けることなんて出来ないって、あなたはわかっているじゃあないの」
少女は恨みがましく私をねめつける
「あなたがどうにかするしか、ないんだよ」
少女はただ私に視線を送り続ける
恨みがましく、自分を睨み続ける
「自分にすがって何が悪いの」
「自問自答に意味はないんだよ」
ドーナッツがなくなったので、涙を拭いて家を出る。顔は少々荒れているが、かまわんよ、と彼女は胸を張る。女が悲しむ理由など星の数ほどある。
「いらっしゃませ、店内でお召し上がりですか?」
「持ち帰ります」
「かしこまりました、ご一緒に飲み物は?」
「珈琲を」
「アイス、ホットどちらにしましょうか」
「ホットで」
「ホットだとだいたい10分でさめてしまいます」
「大丈夫です、と彼女は答えるが家まで早くても20分はかかるだろう」
「20分かかるんですか?」
「ああ、いえ、さめてもいいんです、ほのかにあたたかければ」
「かしこまりました、950円です。店員はおそらくこの客の女はひとりでドーナッツを食べながら泣くのだろうなと想像する、すでに顔が腫れているし、化粧もあまい、この種の女は本能的にドーナッツをむさぼることを彼は知っている」
「あたし、むさぼりません、と彼女は反論するが確実にむさぼっては泣き、むさぼっては泣き、を繰り返しているのだからその見立ては当たっている。正解。あたしはドーナッツをむさぼりながら泣くのよ悪い?」
「悪くはありません、が身体に良くありませんな、と紳士的な態度に出た店員はすでに異性として客を見ている。危険である。店員としての役割を演じることがお前のアイデンティティだろうが、主な人物としてしゃしゃり出るべきではない」
「けれど、昨今の映画事情よ、何でもない主人公がなんでもない日常を送る映画が高い評価を得ることもあるじゃない」
「それはね、元々実力のある人しかできない技であって、見よう見まねのぽっと出がまねしたらやけどするぞ」
「この場合のやけどは、熱による炎症ではなく、概念としてのやけどね、すいません、10000円で」
「9050円のお返しです、ありがとうございました、胸、おっきいですね」
「よかった、正直それだけが自慢です」
「店員は微笑み頭を下げる、いつもより少し深く」
「彼女はドーナッツと珈琲の袋を取り店を出る、2月の空は低く唸っている」
「ドーナッツ袋弾んで走る街の風景すべて置いてきぼりよ」
「やっぱ店内で食べてきます」
「踊りませんか?」
「踊りません」
「了解、空いているお席にどうぞ」
魂を売り飛ばし、ブラウスを手に入れた。純白のブラウスだった。もう引き返せないな、と思った。近所の洋品店で手に入れた。袋詰めしてもらったブラウスの紙袋を提げ、最寄りの駅から電車に乗った。目的の駅に着くとトイレで着替えた。タグは歯で噛み切り、来ていた服は紙袋に入れてトイレの個室に置いてきた。
改札を出ると早速声をかけるものがあった。応対すると、そのまま車に乗るように促された。白い2モデル位前の軽自動車だった。白色が雨で汚れていた。中も気のきいた装飾などなく、灰色を基調とした、業務用のような車だった。とてもいい天気だった。
「どんな気分ですか」
5月中旬。開け放った窓からは涼しい草の匂いがした。
「草の匂いがして、いい気持です」
と感じたままの回答をした。
こういった回答を求められているのではないと分かっていたが、こういった回答で済むのならいいなと思った。こういったことで生きていけるのならいいなとどこかでまだ思っていた。緑の景色の中で風に吹かれていたいと思っていた。しかしそうもいっていられなかった。
車は高層ビルの前で止まる。間もなく人生で初めての労働が始まる。彼女は世界で最後のニートだった。労働のハードルはどんどん下がり、自分らしい働き方が礼賛され始めた。人々は金を使いたくて仕方なかったし、金を稼ぎたくて仕方なかった。ニートはその中で行き場を失った。やりがいや自己実現が手を伸ばせばすぐのところに近づいていた。あらゆる思いやりやつながり、絆が交換可能、視覚化可能なものになって、それぞれに価値がつけられ、労働をしないことのほうが難しくなった。
52階でエレベーターが止まった。彼女はフロアの真ん中で一つ置かれた机についた。電話が鳴った。彼女は手を伸ばさない。パソコンの電源はつけっ放しになっており、彼女のメールアドレスが既に設定されていた。しばらくして固く握って膝に置いた手をやっとキーボードに乗せた。
「いつも大変お世話になっております。」たたき始めると止まらなかった。「何卒よろしくお願いいたします。」で結んだメールのあて先は彼女の全く知らないものだった。それが何十、何百、何千もあった。送信ボタンを押すときには夕暮れが迫っていた。部屋の四隅、机の前に仕掛けられたカメラも、気にならなくなっていた。稼いだお金で、次買うブラウスは花柄のものにしようと思った。
今回はお年を召した紳士と淑女のお話をしましょう。紳士は夜な夜な飲食店の入る様々なビルを賃貸ししているビルのオーナーであります。ご自身の名前の頭文字を付けたり、花の名前、イニシャル、屋号などに何号ビルとしている建物が多くございます。大家さんと店子の関係は毎年契約を交わす関係から、数十年同じ場所でクラブや飲食店を経営されている方々が様々で、家賃を年間契約し、造作をある程度の年月が経過すると、改装などを行いますが、その業者の選択、店内の調度品のレンタル料などとすべて大家に収入が上がる仕組みを作っているオーナーが多いようです。クラブ経営者には女性をホステスとして働かしている以上、痴情のもつれから色恋、男女関係から女同士の問題が相絡まって警察沙汰になるケースも、軽犯罪で警官が駆けつけて消沈する場合もあれば、傷害事件などに発展するkともちらほら、そこで管轄は築地警察署の刑事さん登場で、銀座のデカが大家さんの事務所に来訪され、事情を聴く。そこで全く下々の世界からかけ離れた、夢と幻想の世界が広がるオーナーの事務所で、垣間見る別世界で、あこがれる気持ちが先に立ち、数回訪問するうちに、立派な刑事さんたちが、オーナーに、ボデイガードとして雇ってもらえないかと陳情を受けるようです。そんな場合、定年まで勤め上げてからでも遅くないと、よく考えてからにしなさいと諭して、帰らせるとのこと。何とも公務員さんはお気楽な様子で誰のために命を懸けて働くのか疑問であります。
華やかな場所には様々な人種が集まりますが、近寄ってくる人々をどううまく使うかが、銀座の様々な職業に関係して、ビジネスチャンスが増えるのではないかと考えます。もう一人の淑女はお店のオーナーであります。こちらは若く銀座の娘になって、チイママを任され、大ママから譲りうけるまで十数年、気に入られるまで、尽くして尽くして尽くし抜く、そのころには大ママから引き継ぐべく、資産も人脈、客筋も十分整っての継承となる。これから命、体力の続くまで4−50年店のオーナーとして続けている淑女は7−80歳を迎え、それに続く、淑女たちに店が、継承されるのである。
50数年続いた店が昨年閉店し、こじんまりとしたバーのオーナーとして、今までの店の娘たちやアフターを一緒するお客の閉店時間以降の朝までの憩いの場所として、ひっそりとオープンしている淑女の世界が広がっているのです。
抽選で髭剃りシェーバーが当たった。寒いのでストーブの前に座って髭を剃る。電源を押すと液晶に「Co」という文字が表示された。一通り剃り終えると、広大な大地のユーカリの木にしがみ付いていた。
陽が沈み、昼とは打って変わって寒くなるのを覚悟した時に僕は自分の部屋に戻っていた。時計を見ると、針は九時半を指していた。髭を剃った時からちょうど十二時間が経っていた。
僕の不思議なコアラ生活が始まった。毎回の場所は同じでなく、オーストラリア以外であったり、日本の動物園であったりした。
木曜日は出勤時間が早かった。八時に家を出る。シェーバーの電源を押すが、液晶に「Co」の文字が表示されない。髭を剃り終えたが、ストーブの前に座ったままだった。仕様がなくスーツに着替えて会社に行った。会社の人達は別段何も変わりない様子だった。コアラの間も僕は会社で働いていたらしい。
家に帰って、パソコンで「シェーバー コアラ」と検索した。理由がわかった。日本の朝七時にあたるグリニッジ標準時の二十二時は、日本の会社員が一斉に髭を剃り始める「コアララッシュ」の時間帯で、世界中の人々から忌み嫌われていた。一斉に日本人がコアラに押しかけるため、空いたコアラが足りないと、シェーバーが「コアラモード」にならない。
僕がコアラの間、僕はどうしているのか気になって、髭を剃る前にビデオカメラをセットした。この日は自然保護区のコアラになった。
部屋に戻って、録画した映像を確認すると、髭を剃り終えた僕は奇声を上げて体を激しく揺らし始めた。相当にストレスが溜まっているようで、頭を抱えたまま動かなくなると、嗚咽のようなものが聞こえてきた。観念したように支度を終えて部屋を出ていった。
次の日から僕はせめてもと、出かける支度を全て済ませてから、ユーカリの葉を横に置いて髭を剃ることにした。
コアラ情報サイトで、近く国内の動物園でコアラの赤ちゃんが生まれることがニュースになった。出産の直後、世界中のシェーバーで一つだけ「ECo」の文字が表示される。「エターナル:コアラモード」と呼ばれるもので、世界中の人々がその一枠を狙っていた。
すぐ下のニュースではコアラの大群がオーストラリアから夜の海を渡って日本に押し寄せている様子を伝えていた。国内の動物園からも逃走し、街灯を壊して暴れ回っていた。僕の部屋もドアの開くおくぁwせdraftyふじこlp
右に行けば濁流ほとばしる淵、左に行けば竜巻荒れ狂う吹き溜まり。進みたい方向へ進めばよい。岐路に佇む仙人の言葉に、主人公は、いいえ、と首を振った。私は中央を進みたい。主人公は言った。濁流に呑み込まれることなく、竜巻に巻き込まれることもない、中央を。よし、と仙人は言った。なので主人公は真っ直ぐ進んだ。
目の前に立っているのはそそり立つ崖だった。出っ張りを掴んで身体を持ち上げようとするが、それは脆く、手をかけると同時に崩れてしまう。
今ならまだ間に合う、と仙人は言った。右に行けば清流のさやぐ小川、左に行けば清風のそよぐ草原。けれども、主人公は首を振った。私は中央を進みたい。
道具は何もなかった。足場になるものさえ何ひとつ。けれども主人公は進んだ。崖を掘り、崩れる土砂に流され、流砂の上に筏を組んでは壊し、前へ後ろへと進み、さ迷った。
今ならまだ間に合う、と仙人は言った。右に行けば冷水あふれる泉、左に行けば薫風匂い立つ野原。けれども、主人公は首を振った。私は中央を進みたい。
季節がめぐり、歳月が流れた。主人公は脆い崖を崩しながら歩を進め、やがて、その力を失った。細かく崩れる土に指をかけながら、主人公は惑う。違ったのかもしれない。中央を選ぶべきではなかったのかもしれない。すべての苦労は徒労だったのかもしれない。
そう思った瞬間、主人公は前に出る足を失う。土を掻く手を失う。周囲を見回す眼を、耳を失う。土砂が上から降りしきり、主人公は身動きがとれないままに呑まれてしまう。その上を小川が流れる。風が吹き渡る。
春の命が芽吹き広がる。
仙人が、ふっ、とひと吹きすると、春花の花弁が風のなかに散り水の上に落ちる。あとには何も残らない。
主人公は、もういない。
やあ、向こうからまたしても旅人が現れた。仙人は腕をひと振りし、淵と崖と吹き溜まりを再現する。物語はまだ端緒にさえ届かない。仙人はただ与えられた役をこなし、物語の萌芽を待つだけの任務を続け、幾たびも新たな主人公と対峙し、問答を繰り返すのみ。
「なにも、面白いことなんかない。」
中学一年生の息子は、そう言って本を読み始めた。
子供の貧困なんてことが新聞の片隅に書かれているが、まさしく私の家庭はそれである。
今の言葉でいえば「シングルマザー」
昔の言葉でいえば「やもめ」
世間様なんて、いつの時代にも冷たく厳しいものです。
本の世界にと逃げ込んでいる息子の背中に、別れた夫の背中を思い浮かべて、不快な気持ちにとなった。
はっきりと言って、私は息子を愛してはいない。
なんべく早く、部屋を出ていって欲しいと思っている。
1DKのマンションでの生活は、不幸と貧乏のつづれおりであった。
なにも解決せぬまま時間が流れて、親子の関係も変わり果てていき、そして他人にとなれたなら。
私は母親としてよりも、一人の女として終わりたいと思う。
例え子供を育てていても、子供を愛していない親もいるのだ。
息子の未来の事などは、考えたこともない。
しかし本を読む息子の背中を見るたび、粛々とした気持ちにとなってしまう。
あんがいに息子は、大物なのだろうかと、愚かな母親の勘違いの音ですね。
光る矢印が非常口の位置を指示し、やがて照明が落とされると人工の星は不鮮明な光を放ってわたしの前に現れた。
北斗七星のひしゃくのカーブの延長線上にある春の大三角が、底の抜けた闇の中で不確かに漂い続けている。不鮮明な光り方は視力の合わない眼鏡のせいなのか、遺跡から出土したプラネタリウムの設備のせいなのかがわたしには分からない。闇の中で遠近感が思うように調節できないのは、正常なことなのか、それともわたしに訪れた異常のせいなのか。わたしは闇の中で繰り返し交互に目を閉じた。ドームの内側に張り付いているはずの星は、遠近感を失ったわたしの目には手を延ばせば届く距離にも見えたし、実際の星より遥か遠い距離にも見えた。
わたしたちの住む宇宙の中には銀河と言われる星の集まりがそれこそ星の数ほどあります。銀河のひとつ、天の川銀河にわたしたちの太陽系があり、太陽系の中にはわたしたちの地球があります。地球は陸地と海とでできています。地球の様々な場所には様々な生物が活動しています。わたしは日本という一億二〇〇〇万人以上の人の住む国にいて、愛知という七四〇万人以上の人の住む県にいて、一宮という三八万人以上の人の住む市にいます。わたしは今ちっぽけなことを考えていました。わたしは先々月いっぱいで仕事を辞めました。今のわたしは無職です。ろくな就職活動もしていません。わたしたちの住む宇宙の外にはこのような宇宙がまだまだたくさんあります。けれどこれは仮説です。人間にはそれを見ることができないからです。
紙芝居のようなアニメーションはこの世界が何からできているのかをわたしに説いていた。太陽の周りを回る地球を俯瞰で、そして、太陽系を離れ銀河系へと広がっていく映像。さらには、銀河を離れ、別の銀河へと移動して、そんな宇宙が本当はいくつもいくつもあるのだと、わたしには決して見ることのできない果ての世界を想像していく。わたしは光より速いものを見つけた。想像のスピードは速い。これでノーベル賞はわたしのものになり、この一瞬でわたしは宇宙の全部を知り尽くした気分になる。やがて、静かに目を閉じる。
目を開けると体が動かなかった。体と心が一瞬ずれて再起動を繰り返す。こんなときコンピュータなら簡単なのに。
四十五分の上映時間はあっという間に過ぎていった。わたしは係員に見送られ外に出た。寒さが急激に増した夕刻には誰もいない。
僕の中学には、数学科室なるものがあった。どうやら視聴覚室や音楽科室などと同じ類の代物らしい。大抵そんなものには、映像関連の媒体があったり、値段の馬鹿高い楽器が置いてあったりと一定の役割が付与されているものだ。
だが、この数学科室には何もない。強いて言うならば、黒板に机椅子といった最低限の構成物に、古代数学者の有り難さげな名言が、壁という壁に張り巡らされているだけ。わざわざこんな教室作る必要があったのか。何の用途があるのか。案外闇めいた部分である。
そんな数学科室は全学年の生徒が扱うためか、落書きの量が尋常じゃない。学生特有の汚い下ネタ、〜参上と言う謎の自己紹介…。呆れる位内容が多岐に渡っていた。そのせいか僕が机を汚しても何の問題もない様に感じた。集団心理とは恐ろしい物だ。
とは言ったものの、別に書きたいことも無かった。真っ当に落書きをせずに授業を受けるという発想も無かった。結局、偶然目に留まった
「授業だるすぎ」
という女子特有の丸っこい字の稚拙な書き込みに対し、
「同感、デブハゲ教師辞めちまえ」
と続いてみた。人のことを稚拙という割に、なんて幼いコメントだろう。そして授業を終え、僕は用途不明な空間から脱出した。
翌週。再び僕は数学科室に舞い戻ってきた。定位置に座り、まず黒板に見向きもせず机に視線を向ける。まさかだ。先日の僕のコメントに対し、
「わかるわ、教え方下手くそすぎ」
と綴られていた。この言われよう、先生も涙目であろう。でも、そんなのはどうでも良かった。見ず知らずの人と会話が繋がった。その事実に僕はある種の興奮を覚えていた。そして高揚感のままにペンを走らせる。
「本当にな。受験期なのにあんなんが教師で大丈夫なのか?」
そもそも授業を聞いてないだろ、というツッコミは控えてくれ。それは僕が一番分かっていることだ。まあともかく、こうして誰かと話すのは中々気分の良いものだった。顔を見ないから、相手を知らないから話し易いこともある。匿名の利点だ。まだ2回しか会話を交していないものの、僕は彼氏彼女の様な間柄になったと錯覚していた。
が、それも長くは続かない。教師共は割と僕らを見ているものらしく、落書きの件がばれ、呼び出された。こっぴどく叱られた。当然の報いだろう。
そして僕の悲しい筆談は終わりを告げた。短い様で本当に短かった。これは後から知った話だが、あの相手は男だったらしい。クソが。
電車の席を立つとき、落し物はしていないか振り返った。二人掛けの席で隣に座っていた女と目があった。長い髪を無造作に垂らしていて、その間からのぞく目は、鋭くはないはずなのにぞっとした。
駅からの道は寂しい方へと向かい、街灯はまばらになっていく。大人になってからはお化けを信じるわけでもなし、暗い道など怖くもなんともなかったのに、ここ数カ月は理由もなく恐怖感がわいてくる。臆病風というのだろうか。びくついている自分がおかしくもある。しかし、闇の中からふいに人が現れてすれ違うときなど、心臓が飛び上がるほどに慌てふためき、そいつが独り言でもしゃべろうものなら、駈けだそうとしてそれでも足が反応しないなどということも一度や二度ではない。何事もなかったかのような顔をしてゆっくりと辺りを見まわしたりするのだが、びっくりしたことは相手にはまるわかりであろう。
安アパートの外階段は歩くとそれなりに音がする。ドアの鍵をあけるときも部屋のなかに人の気配を感じたような気がして身構える。もちろん誰もいない。心が弱くなっているのだろうか。でももしどこかの誰かが本気でこの部屋にひそんでやろうと考えたとしたら、それを阻止することが果たして可能なのだろうか。
トイレのふたを開けたら人の首がのぞいていたとしたら、ものすごく嫌だし怖いだろうと思う。しかしトイレのなかにずっとひそんでいた相手のほうがよっぽど嫌だし怖いのではないだろうか。このことがたびたび頭に浮かぶ。思わず考えてしまうのではない。フレーズとして頭に浮かぶのだ。中毒性のある音楽の歌詞のように。ふとした瞬間にそのことが頭に浮かぶのだ。これはいったい何なのだろうか。トイレのふたを開けたら、そこには生首がある! トイレのふたを開けたら。
当然のように夜中にトイレに行くのがおっくうになる。風呂に入るのもおっくうになる。髪を洗っているときにあなたの背後では、などという与太話も当然のように記憶の隅からひっぱり出してきてしまう。髪を洗っているときには当然のように背後に気配を感じる。何かがいる。当然である。
この街に初めてやってきたとき、この街はこういう街だとどこか必死に把握しようとしていた気がする。だけど、こうだと理解したそばからそれは、次々と崩れ去っていく。新しいものも生まれているみたいだけれどそこにはもう確信がなく、それをまた覚えるのはひどくおっくうである。
朝ごはんを食べ終えて、洗い物をしているキミを見て、気がついた。
まただ。それ、気に入ったの?
暑いのはわかる。だけど、人目につかないところだけで穿いてくれないかな……。
今まで歯磨きをしていたんだけど、とにかく何か言わないと、と思って急いで洗顔までを終わらせる。
「ユーコ」
洗い物をするキミの後ろから抱きしめて、キミの耳元にキスをする。
「だ〜、もう、何?」
作業中に邪魔されるのを嫌がるキミは、とことん嫌そうな顔でボクを睨む。
「これ」と言いならが、ボクはホットパンツから伸びるキミの太ももをさする。
「ちょ、何するの?!」
キミが慌てて身をよじる。
「これ、もうボクの前では穿かないで、って言ったじゃない」
もう、とうんざりした顔でキミを見たら、「だって、暑いんだもん」とキミが言った。
それは、わかるんだけど。ほら、ボクのほうも熱くなっちゃうから……。
「ゆっくりしていたら、アッ君遅刻しちゃうよ」
キミがそう言い放って、洗い物にもどった。
ほんの数分だけだったのに、ボクのほうは完全に熱くなっていた。どうしてくれる?
スーツに着替えて、とにかくキミに会わないようにと思って、急いで家を出ようとする。だって、次キミのあんな姿見たら、た
だじゃすまない気がするんだ。
「じゃ、行ってくるから」
キミの見送りがないように急いで靴を履いていると、後ろから「アッ君、お弁当」と言ってキミがお弁当を持ってきた。お弁当
のこと、すっかり忘れてた。
「ありがとう」と言ってキミを見たら、やっぱりキミの足が見えて……。思わず差し出されたお弁当じゃなくて、キミの体を引
き寄せてた。
「アッ君?」
土間と上がり框の分だけ、いつもよりキミの瞳が近くて、キミの大きな瞳にドキリとする。
「今日、休んじゃおうかな」
ボクがそう言って笑うと、キミが「え?」って驚いたような顔でボクを見上げる。
「だって」ボクはキミの唇に自分の唇を重ねた。
今日は、もう我慢の限界だからって、キミの耳元で囁いたら「はぁ〜?」ってキミが顔をしかめた。
「わけわかんないこと言ってないで、行ってらっしゃい!!」
と、キミはボクの腕の中から力づくで出て行く。
「早く行かないと、遅刻するよ」キミがブッスとした顔で言う。
仕方がない。ボクは「いってきます」とキミにキスをして家を出る。
「会社に着くまで、ちゃんと熱が冷めてくれるといいけど……」
今日も1日暑い日になりそうだ。
朝の6時にベルが鳴り、瞼をこすりながらドアを開けるとアンがミルク入り珈琲のカップを持って立っている。蔭山はいつものように「おはよう、アン」と微笑む。厚かましいネトネトした視線にならないよう、蔭山は自制してアンをみつめる。しかし蔭山の自意識はアンの澄みきった瞳とその笑顔によって打ち消される。
アンは珈琲カップをテーブルにおくと、ベージュのスプリングコートをするするっと脱いで檸檬色のワンピース一枚になる。そして自分から蔭山の手をとってベッドへ誘導していく。蔭山はうつむけに押し倒され、アンが馬乗りの形となり、こうして月に一度のホテルマッサージの時間がはじまる。
大富豪だったら……蔭山は考えたことがあった。3時間ごとにヴェガスのショーガールたちが交互にやってきて自分の相手をしてくれる生活が可能であろう。富豪だったら、毎日別の相手と……。並の金持ちだったら、普通の金持ちなら……だが俺は普通の勤め人だから毎時間も毎日も毎週も無理だ。だけど月に一度なら俺にも可能じゃないだろうか。
そんな発想で蔭山は月に一度シティホテルに連泊することにした。リゾートホテルには手が届かないので、わりと良いホテルで妥協した。そしてコールガールを呼びたかったがそれも予算がたりなかったのでオイルマッサージへ妥協した。妥協こそ我が人生。それが2年前のことである。
蔭山は3つルールを決めた。ひとつ、私生活を探らない。ひとつ、慾望を前面にあらわさない。ひとつ、笑顔を絶やさない。最初の6ヶ月、アンはいわゆる派遣されたセラピストとしてするべきことをした。笑顔も愛嬌も予定されたものであった。蔭山の情慾は高まるばかりで、アンもそのことには気づいているがそこは互いの境界線からでることはなかった。
はじめの数ヶ月は、マッサージは60分でおわっていたものだったが、今ではアンの無料サービスとして180分が追加されている。最初の60分、蔭山の背中は海となり、アンの指が波となって蔭山の背中をはっていく。蔭山は目をとじて自分が青くまばゆい水面となっている時間を堪能する。慾情とは下半身だけではないことを男はなかなか気づけない。蔭山はアンに感謝する。
そうして240分の時間がおわる。蔭山の慾望は発散されることはない。なぜなら風俗ではなくマッサージであるから。アンと蔭山は互いが興奮の絶頂寸前にいることを知ったまま次の来月を楽しみに別れる。
世界が違う、そう思った。彼を見たのは四年前の夏。
私は男勝りな性格で、クラスの女子たちの肌の白さに驚いたものだ。そう、男子に勝るほど、私は黒かった。それでも気にならなかった。
ある日、友達とサッカーをしていて、遠くへ飛んだボールを求め、いつの間にか知らない庭まで来ていた。それに気付いた瞬間。
その家から音楽が聞こえてきた。興味も無く、通信簿に「もっとがんばりましょう」と記されていた私を何故かその旋律は離さなかった。当初の目的は忘れていた。
何十分ぼうっとしていたのか。不意に私の足に何かが触れた。我に返ると足元には、くすんで泥に塗れた私たちのボールがあった。それが転がって来た方向に彼は居た。
涼しげな目元をして微笑みながらこちらを見ていた男子。私がボールを手に取るのを確認すると、そのまま庭を出て無言で去った。
私はしばらく立ち尽くしていた。衝撃だった。彼の整った顔立ち、白い肌、そして何より清浄だった。澄み切っていて、とても綺麗だった。
次の日、そこはバレエ教室だと分かった。夜になるまで待っていたが、彼は現れなかった。
私は外で遊ばなくなった。時々思い出したようにバレエ教室の近くへ行って、彼をもう一度見ようと外に出たので、両親は気付かなかっただろう。
その後、あの日の曲がチャイコフスキーの『眠れる森の美女』だと知った。彼もこの曲を踊っているのだろうか。そう考えるだけで頭が胸が熱くなった。
しかし、最初の予感通り、それから二度と彼に会うことは無かった。今から思えば、そこに通えば良かったのかもしれない。だが、私は無意識に感じ取っていたのだ。その空間を汚してはいけないと。
もうすぐ私は中学生になる。肌が白くなってきた私に両親は驚いていた。彼らは何も知らない。バレエ教室付近には最近行っていない。もう行く必要も無い。何せ私と彼では世界が違う。
いつか考えたことがあった。私がオーロラ姫だったならと。架空の女に嫉妬を覚えたのだ。何と馬鹿馬鹿しい。しかし、私は出来ることなら彼の踊りが見たかった。彼に、あの涼しげな目元で見つめてもらいたかった。彼に、キスをしてほしかった。
目を瞑る。ここは森ではない。私は美女ではない。王子がやって来るのも最早待ってはいない。それでも心の中で『眠れる森の美女』を流して、彼のことを少しだけ思い出しながら、私は眠りについた。