第164期 #16

せめて無害な細胞に結ばれて

純粋過ぎる静寂を、一滴一滴打ち砕く。塩酸が閃光を放つと、悠然と眠る水酸化ナトリウム水溶液の水面に、卑屈なほど正確な波紋が誕生する。ツマミを回す。白い磁石が、透明の世界でのたうち回って、波紋が跡形もなくなる。!。紅を誇示していた指示薬は、きまり悪そうに虚空に溶ける。毒と毒が宥めあい、無害な塩水に結ばれる。
目盛りの無い数を目分量で読んでおきながら、有効数字の扱いには厳密なのが、どことなく矛盾めいているようで、私は化学実験が好きだった。先生が矛盾でないことを説明してくれた日の夜に父親に聞いたら、人間の目の解像度がどうこう言ったが、その時僕の視力は0.07。
眼鏡を掛けると必ず視界が歪む。眼鏡の縁が視野に二つの領域を作り、外側は蒙昧の世界。視野の限界に辛うじてしがみつく、意識裡にしか見えない領域を、眼鏡は現実主義的に切り捨てる。眼鏡を外せば、色の世界が閉じて、内なる世界が開く。この感動は視力1.0のA君には知り得ない。そろそろ眠くなってきた、と眼鏡を外すと、睡眠を妨害する煽動的な極彩色が希釈される。
眠りの感覚は、意識したらすぐ消える。草むらから顔を出した安眠に、必死で気付かぬ振りをするのが寝入りという営為だ。今はこの工程は飲酒で省略できる。!。扉を叩く音が聞こえた。
当然ここでA君が現れないと道理に適わないので、目の前にいる彼にA君と名前を付ける。当然このAは、英語でもロシア語でもギリシャ語でもなく、日本語のAである。英国人に"最初の文字"は何かと尋ねれば全員がAと答えるだろうが、日本語における最初の文字は「あ」或いは「い」である。Aは、言わば平仮名・片仮名に次いで"三番目の最初"でしかない。さてここでAが私に退出を願い出るのは、私が教育実習者の身で勝手に化学薬品を扱ったという事実からしても、非常に理にかなっている。教師とは正当な厭世である。自分の人生を次世代の育成に捧げる犠牲は計り知れず、諦念にも似る献身には尊ぶべき武士の滅私奉公の精神が垣間見えるのだ。以上を口走った結果、数日の余暇が生まれたので、今この日記を書いている。つまり、これから私は1.20×10^2円で梅田の眼科へ行きコンタクトレンズを買うことで全てを終わらせねばならない。透明の円盤が、あなたの角膜と同化して、容赦なく屈折率を戻す!戻る戻る!私は今あいうえおのあとなり、酒も毒も知らない、たった1モルの受精卵に戻る!



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