第163期 #8

花粉症

私は、花粉症を信じない。根も葉もない脅威を過激に騒ぐ大衆によって、目鼻の粘膜という端から繊細な器官が煽られた結果に過ぎない。一種のオカルトに違いない。

三月、快晴。杉並区の或るカフェで安いコーヒーを飲んでいる私の右隣に若い女が座ってきた。コーヒーも飲まずに呆けている。女が呼吸する度に、小顔に対して大きすぎる不織布のマスクが膨張と収縮とを繰り返している。マスクが萎むと蒸れの所為で女の太い唇が露骨に透けて、膨らむとマスクの内側に付着した口紅が唇の余韻のように微かに見える。この繰り返しが面白くて暫く我を忘れて見入っていると、女が話し掛けてきた。
「何なの?」
「あのね君、マスクって面白いと思わないかい?君が息を吸った時、マスクは萎むよね、でも君の肺は同時に膨らんでいる!逆も然り、ヴァイス・ヴァーサだよ!あは!これってすっごく面白いと思わない?だって肺の活動なんていう目に見えないものが、一枚布切れを貼り付けるだけで一目瞭然なんだよ!君みたいにね!あはは!ところでどうして着けているのかい、マスク?」
「花粉症よ。決まってるでしょ。」
女は漸くコーヒーを飲もうと、マスクを顎の下に引き擦り下ろした。瞬間、気付いたのだが、女は決して小顔ではなく寧ろ顔は大型で器量が悪かった。大きすぎるマスクは、尖った顎の骨を隠すと同時に錯視を演出していたのだ。
「決まってる?花粉症なんてものは存在しないよ!断言するさ!そんなのは神話、花粉神話だよ!まあ君は随分と器量が悪いから、そんな宗教じみた潮流に便乗してマスクで顔を隠そうとする気持ちも分からなくはないがねえ!図星だろう?秘すれば花、かね?花粉だけにね!あっはっは!」
「貴方は独身ね」
「ええ!」
「人の鼻に迷い込んだ花粉と同じよ。一生雌花には辿り着けない」
「あは!今度はメルヘンと来たか!花粉神話論者は末恐ろしいな!そもそも花粉は精子だろう!私は精子ではないぞ!精子の大量生産なら杉並みにしているがな!あはは!」
「貴方は一体どこに迷い込んだのかしら」
女はマスクの紐を耳から外すと無造作に机に置いたまま帰って行った。

さて、私も続いて店を出たわけだが、不意に鼻の奥から不愉快が堰を切って湧出する感覚。大きなくしゃみが出ると間髪入れずに溢れだす鼻水。くしゃみ、二発、三発。紙の類一切有らず、急いで店に戻りトイレで応急処置。机にまだ残っていたマスクを装着し家路へ。



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