第163期 #7

ハラスメント

 俺の視界が先だった。そこに入ってきたのだ。可愛くないのに自意識は高い、胸だけが自慢ですといった女の腋が。休日をつぶして社員全員で行くバス旅行のことだった。休憩に停まったPAで、月曜からの仕事の憂鬱をもてあそびながら暇をつぶしていた。俺の座席は後ろから二番目で、ぼうっとフォーカスを合わせたのが運転席から数えて三列目くらいの中空だった。そこに思いっきり腕を伸ばした女の腋が偶然視界に飛び込んできたのだ。
ハッとして腕を組み、腋を押さえて敵意ある目で見られて、まずいことになったと思った。茶化すには距離が遠すぎた。女の刺すような被害者の目は痛いほど俺に突き刺さった。それでお互いの立場が決まってしまった。ぼうっとしていたのは確かだが、本能ははっきりしていた。俺の網膜にはムダ毛処理を施した、つるんとしたきれいな腋がはっきりと捉えられていた。それだけなら俺は単なるセクハラ野郎で終わるはずだった。相応の誹りを受け、陰口を叩かれれば済むはずだった。だがまずいことに俺はその腋に虚無を見つけてしまった。刺青やペイントではない、剃り残しの腋毛でももちろんない、本物の虚無がそこにあった。組んだ女の腕の間でご自慢の胸が盛り上がる。

旅館の売りだという炭酸泉から上るころには大広間に人数分の配膳がされており、部長のあいさつで宴会が始まった。冷めた煮魚をつつきながら新入社員の余興を見ていると、あの女がいつの間にか俺のそばにいた。女は隣の席に座り、「お疲れさまでーす」と笑いながらビールを俺のグラスに注ぐ。その声は少し酔っていて、媚びるような色っぽさがあった。何かを取り繕うような声色にも聞こえるのは、俺がこの女の虚無がどこにあるかを知ってしまっているからだ。浴衣の袖の奥のほう、ビールを持つ腕でぴったり閉じられているその向こう。注がれたビールを口に運び、一口、大きく吸い込むと、唐突に女の視線の焦点が俺の喉仏に合っていることに気付く。本当にまずいことになった。彼女は俺の喉仏の動く瞬間を待っている。そこに俺の虚無があることを分かりかけている。その目は昼間の敵意に加え、明らかな期待の色が見えた。俺は喉を細くし、ビールの流れ込む量を絞るが、喉仏。顎をさらに上げ、女の表情は全く見えなくなったが、女の期待は熱となって俺の喉を焦がし始める。飲み下せずに行き場を失ったビールが舌の上で苦みを増していく。



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