第163期 #2

黒の宣告

 朝起きると右腕がやけに痺れていた。見ると少し青黒く変色している。気味が悪い。昨日就寝する前にどこかにぶつけたのか、と思ったが、それでは痺れの説明はつかない。
 もしや、何かの重病の前触れではないか、と思った。それならまずは医者に見せたほうが良いことに間違いはなかったので、急いで外出する準備をした。露出を防ぐため長袖の服を着るとき、何度か青黒い腕に袖を引っ掛けたが、不思議と痛みは感じなかった。
 病院の受付には、ただ右腕が痛む、とだけ言っておいた。
 午前の9時30分だというのに、大病院の待合所は年寄りで溢れかえっていた。幸い向かう途中右腕を誰かにぶつけたりはしなかったが、起床時より痛みを感じる。骨の内側から響くような、筋肉が内側からほぐされ、繊維の一本一本が千切られていくような痛みが腕に響く。いよいよ症状が出たのか、と実感し始めたところで、何の変化もない左手に握られた券と同じ番号が案内板に映った。
 やっとか、と腰を上げると、さらに強い痛みが右腕を襲った。思わず声を上げそうになる。もしや、右腕をもがれたのでは、と錯覚したが、それは当然のようにぶら下がっていた。
 本当にこの痛みは何なのか。謎の症状に脳まで痺れそうになる。とりあえず早く診察室に向かわなければ、と歩を進める。その瞬間、隣の通路から歩いてきた爺の右肩と、もうとっくにどす黒くなっていた右腕が接触した。思わず瞼を思い切り閉じた。
 叫び声が、白く殺風景な待合室に響く。
 
 目を開けると、先程接触した爺が床で転げまわっている。
 右腕に痛みは、ない。
 爺が暴れ、衣服から覗いた右腕を見ると、どす黒い。
 私は痺れていた脳でひとつの仮説を立てた。その刹那、私は病院を駆け抜けていた。腕を振る。足を動かす。ちらちらと見える右腕には、何の痕跡も無かった。

 病院から2kmは離れている公園のベンチに腰をかける。あれから必死に10分以上走った。これ以上腕も、足も、動かないというほどに。普段走らないからか、久しぶりに走った脚にほんのり痺れを感じた。
 申し訳ない、などという感情がまったく湧き出てこなかった。出てきたのは、激痛から解放された幸福感だけであった。爺の生死などはどうでも良い。今私が生きているだけで幸福なのだった。

「ありがとう見知らぬ爺! 私は解放された! 見ろ! この何の痕跡も無い健康そのものの右腕を! 脚もこのと・・」
 背筋が凍った。



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