第163期 #11
妻と最後に会話をしたのはいつだったか。確か先々月に一言二言のやり取りをした記憶があるが、定かではない。
妻はピアニストだ。彼女の奏でる音楽は人を魅了する。譜面に書かれた記号から、個性的、独創的と賞讃される音を生み出す。ただ、自らの声帯を使って音を発することがあまり好きではないようであった。
そういう僕は物書きで、言葉を書き記したり、パソコンに打ち込んでいくことは流暢だが、話すとなるとからっきしだめだった。会話文が下手くそだ、とよく批評されるがご指摘の通りであると思う。書いている人間がそもそも会話が苦手なのだ。
妻と最後に会話をしたのはいつだったか。僕は食卓にマックを持ち込み、『短編』というサイトに投稿する千文字小説を書こうとしていたが、着想が浮かばず行き詰っていた。妻は、糠漬けのキュウリを台所で切っている。包丁とまな板が奏でる音は、ピアノの音色とは程遠いほど不格好だった。
トン・ト・トン・ト・トン ト・ト・ト トン・ト ト・ト トン・トン・ト・トン・ト ト・トン・ト・トン・トン
指先を大事にしなければならない職業であるにも関わらず料理をしてくれることに僕は深く感謝をしている。それについて感謝を言葉で表したことはないけれど。
執筆に行き詰った気晴らしに、彼女の作りだすリズムをパソコンに打ち込んでいく。そして、その音は一定の周期というか塊を持っていることに気が付いた。一定の塊をパソコンに打ち込んでしまえば、あとはコピー&ペーストで済んでしまう。ロンドの主題だけを繰り返しピアノで弾いているようだった。
それは、モールス信号だった。言葉だった。僕は、彼女が右手の人差し指だけで、机をトントンと叩く癖を思い出した。あれは、ピアノを弾くイメトレだとばかり思っていた。違った。
朝食が運ばれてきた。僕は、朝食を食べながら携帯のマナーモードを解除した。ボタンを押す。『あ』を押すと「ピ」の音が。『か』を押すと「ポ」の音がでる。僕は、『あ』のボタンを3回。『ま』のボタンを1回。そしてまた『あ』のボタンは2回押した。「ピピピ、ボッ、ポポ」。「うまい」。
妻は机を指先で叩いた。そのリズムを僕はパソコンに注意深く打ち込む。妻は、「ありがとう」と言っていた。
妻との久しぶりの会話だった。
「トン・ト・ト・トン」
「ピッピィ、ポポポポポ、パパパ」
我が家は、音で満ちている。そして、言葉で満ちている。