第162期 #7

なぜかフィレンチェ

 私の趣味は、日記を付けることと、旅行。今年度は仕事ばっかりだった、と年度末に日記を読み返しながら振り返っていた。ちなみに、日記は、母親の、「独身の時は日記を付けなさい。恋に惑わされないように。でも結婚したら日記はやめなさい。旦那の文句しか書かないから」という躾だ。

 自分らしく一人旅に出ようと思った。行き先はオーストラリア。ずっとエアーズロックに行ってみたかった。年度末に、余った有給を消化するようで少し引け目を感じたけれど、部署の営業成績は達成していたので、問題なく休暇を貰えた。

 土日を入れて、9日間の休暇とツアー。空港の受付カウンターは団体旅行客で長蛇の列。時間にも余裕がありすぎたので、先に、暫く食べれない日本食でも食べようかとトランクを引いて空港を歩く。結局は、比較的空いていた豚カツ屋に入った。相席。私と同じくらいの年齢の男だった。席に通されたのが同時だった。トランクを預けていない者同士ということなのか、4名席に2人で座った。私のヒレと彼のロースが運ばれてきたのは同時だったが、彼は自分のパスポートを探し続けている。
「胸ポケットにあるのは?」と私は諦めて口を開いた。
「あ、ここにあったか。ありがとうございます」と男は言った。そして暫くの沈黙とキャベツお代わりの後、「どちらへご旅行ですか?」と男が尋ねた。
「オーストラリアです」と私が答えると「私はイタリアです。行き先、違いますね」と男は言った。少し残念そうだった。食事で相席になったのを何かの縁であると勘違いしたのだろうか。同じ行先の確率など低いだろうに。
「よかったら、一緒にイタリアに行きませんか?」
 私の隣には赤いトランク。この空港でトランクを持って移動しながら、チケットを購入していない者がいるだろうか。国際線の空席待ち? 聞いた事も無い。
「チケットとか滞在先なら心配しなくてもいいです」と男は言い出した。
「せっかくですが、私の行き先は決まってますので」
「一目惚れしました。チャンスを下さい」
 箸を持ったまま両手を合わせて、仏像を拝んでいるような男、そして状況についていけない私。
「もし、まだ私の乗る飛行機に空席があって、それを買うことが出来たら、私と一緒にイタリアに行ってください」と男は言った。そして、私は、旅とは冒険であるという言葉を思い出した。

 日記の習慣を止めることになった。日記を読み返し、その冒険を懐かしく思う。



Copyright © 2016 池田 瑛 / 編集: 短編