第162期 #20

眠れる森の美女

 世界が違う、そう思った。彼を見たのは四年前の夏。
 私は男勝りな性格で、クラスの女子たちの肌の白さに驚いたものだ。そう、男子に勝るほど、私は黒かった。それでも気にならなかった。
 ある日、友達とサッカーをしていて、遠くへ飛んだボールを求め、いつの間にか知らない庭まで来ていた。それに気付いた瞬間。
 その家から音楽が聞こえてきた。興味も無く、通信簿に「もっとがんばりましょう」と記されていた私を何故かその旋律は離さなかった。当初の目的は忘れていた。
 何十分ぼうっとしていたのか。不意に私の足に何かが触れた。我に返ると足元には、くすんで泥に塗れた私たちのボールがあった。それが転がって来た方向に彼は居た。
 涼しげな目元をして微笑みながらこちらを見ていた男子。私がボールを手に取るのを確認すると、そのまま庭を出て無言で去った。
 私はしばらく立ち尽くしていた。衝撃だった。彼の整った顔立ち、白い肌、そして何より清浄だった。澄み切っていて、とても綺麗だった。
 次の日、そこはバレエ教室だと分かった。夜になるまで待っていたが、彼は現れなかった。
 私は外で遊ばなくなった。時々思い出したようにバレエ教室の近くへ行って、彼をもう一度見ようと外に出たので、両親は気付かなかっただろう。
 その後、あの日の曲がチャイコフスキーの『眠れる森の美女』だと知った。彼もこの曲を踊っているのだろうか。そう考えるだけで頭が胸が熱くなった。
 しかし、最初の予感通り、それから二度と彼に会うことは無かった。今から思えば、そこに通えば良かったのかもしれない。だが、私は無意識に感じ取っていたのだ。その空間を汚してはいけないと。
 もうすぐ私は中学生になる。肌が白くなってきた私に両親は驚いていた。彼らは何も知らない。バレエ教室付近には最近行っていない。もう行く必要も無い。何せ私と彼では世界が違う。
 いつか考えたことがあった。私がオーロラ姫だったならと。架空の女に嫉妬を覚えたのだ。何と馬鹿馬鹿しい。しかし、私は出来ることなら彼の踊りが見たかった。彼に、あの涼しげな目元で見つめてもらいたかった。彼に、キスをしてほしかった。
 目を瞑る。ここは森ではない。私は美女ではない。王子がやって来るのも最早待ってはいない。それでも心の中で『眠れる森の美女』を流して、彼のことを少しだけ思い出しながら、私は眠りについた。



Copyright © 2016 笹木杏余 / 編集: 短編