第162期 #19

キリマンジャロの雪

朝の6時にベルが鳴り、瞼をこすりながらドアを開けるとアンがミルク入り珈琲のカップを持って立っている。蔭山はいつものように「おはよう、アン」と微笑む。厚かましいネトネトした視線にならないよう、蔭山は自制してアンをみつめる。しかし蔭山の自意識はアンの澄みきった瞳とその笑顔によって打ち消される。

アンは珈琲カップをテーブルにおくと、ベージュのスプリングコートをするするっと脱いで檸檬色のワンピース一枚になる。そして自分から蔭山の手をとってベッドへ誘導していく。蔭山はうつむけに押し倒され、アンが馬乗りの形となり、こうして月に一度のホテルマッサージの時間がはじまる。

大富豪だったら……蔭山は考えたことがあった。3時間ごとにヴェガスのショーガールたちが交互にやってきて自分の相手をしてくれる生活が可能であろう。富豪だったら、毎日別の相手と……。並の金持ちだったら、普通の金持ちなら……だが俺は普通の勤め人だから毎時間も毎日も毎週も無理だ。だけど月に一度なら俺にも可能じゃないだろうか。

そんな発想で蔭山は月に一度シティホテルに連泊することにした。リゾートホテルには手が届かないので、わりと良いホテルで妥協した。そしてコールガールを呼びたかったがそれも予算がたりなかったのでオイルマッサージへ妥協した。妥協こそ我が人生。それが2年前のことである。

蔭山は3つルールを決めた。ひとつ、私生活を探らない。ひとつ、慾望を前面にあらわさない。ひとつ、笑顔を絶やさない。最初の6ヶ月、アンはいわゆる派遣されたセラピストとしてするべきことをした。笑顔も愛嬌も予定されたものであった。蔭山の情慾は高まるばかりで、アンもそのことには気づいているがそこは互いの境界線からでることはなかった。

はじめの数ヶ月は、マッサージは60分でおわっていたものだったが、今ではアンの無料サービスとして180分が追加されている。最初の60分、蔭山の背中は海となり、アンの指が波となって蔭山の背中をはっていく。蔭山は目をとじて自分が青くまばゆい水面となっている時間を堪能する。慾情とは下半身だけではないことを男はなかなか気づけない。蔭山はアンに感謝する。

そうして240分の時間がおわる。蔭山の慾望は発散されることはない。なぜなら風俗ではなくマッサージであるから。アンと蔭山は互いが興奮の絶頂寸前にいることを知ったまま次の来月を楽しみに別れる。



Copyright © 2016 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編