第162期 #17

 電車の席を立つとき、落し物はしていないか振り返った。二人掛けの席で隣に座っていた女と目があった。長い髪を無造作に垂らしていて、その間からのぞく目は、鋭くはないはずなのにぞっとした。
 駅からの道は寂しい方へと向かい、街灯はまばらになっていく。大人になってからはお化けを信じるわけでもなし、暗い道など怖くもなんともなかったのに、ここ数カ月は理由もなく恐怖感がわいてくる。臆病風というのだろうか。びくついている自分がおかしくもある。しかし、闇の中からふいに人が現れてすれ違うときなど、心臓が飛び上がるほどに慌てふためき、そいつが独り言でもしゃべろうものなら、駈けだそうとしてそれでも足が反応しないなどということも一度や二度ではない。何事もなかったかのような顔をしてゆっくりと辺りを見まわしたりするのだが、びっくりしたことは相手にはまるわかりであろう。
 安アパートの外階段は歩くとそれなりに音がする。ドアの鍵をあけるときも部屋のなかに人の気配を感じたような気がして身構える。もちろん誰もいない。心が弱くなっているのだろうか。でももしどこかの誰かが本気でこの部屋にひそんでやろうと考えたとしたら、それを阻止することが果たして可能なのだろうか。
 トイレのふたを開けたら人の首がのぞいていたとしたら、ものすごく嫌だし怖いだろうと思う。しかしトイレのなかにずっとひそんでいた相手のほうがよっぽど嫌だし怖いのではないだろうか。このことがたびたび頭に浮かぶ。思わず考えてしまうのではない。フレーズとして頭に浮かぶのだ。中毒性のある音楽の歌詞のように。ふとした瞬間にそのことが頭に浮かぶのだ。これはいったい何なのだろうか。トイレのふたを開けたら、そこには生首がある! トイレのふたを開けたら。
 当然のように夜中にトイレに行くのがおっくうになる。風呂に入るのもおっくうになる。髪を洗っているときにあなたの背後では、などという与太話も当然のように記憶の隅からひっぱり出してきてしまう。髪を洗っているときには当然のように背後に気配を感じる。何かがいる。当然である。
 この街に初めてやってきたとき、この街はこういう街だとどこか必死に把握しようとしていた気がする。だけど、こうだと理解したそばからそれは、次々と崩れ去っていく。新しいものも生まれているみたいだけれどそこにはもう確信がなく、それをまた覚えるのはひどくおっくうである。



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