第162期 #13

主人公と仙人

 右に行けば濁流ほとばしる淵、左に行けば竜巻荒れ狂う吹き溜まり。進みたい方向へ進めばよい。岐路に佇む仙人の言葉に、主人公は、いいえ、と首を振った。私は中央を進みたい。主人公は言った。濁流に呑み込まれることなく、竜巻に巻き込まれることもない、中央を。よし、と仙人は言った。なので主人公は真っ直ぐ進んだ。
 目の前に立っているのはそそり立つ崖だった。出っ張りを掴んで身体を持ち上げようとするが、それは脆く、手をかけると同時に崩れてしまう。
 今ならまだ間に合う、と仙人は言った。右に行けば清流のさやぐ小川、左に行けば清風のそよぐ草原。けれども、主人公は首を振った。私は中央を進みたい。
 道具は何もなかった。足場になるものさえ何ひとつ。けれども主人公は進んだ。崖を掘り、崩れる土砂に流され、流砂の上に筏を組んでは壊し、前へ後ろへと進み、さ迷った。
 今ならまだ間に合う、と仙人は言った。右に行けば冷水あふれる泉、左に行けば薫風匂い立つ野原。けれども、主人公は首を振った。私は中央を進みたい。
 季節がめぐり、歳月が流れた。主人公は脆い崖を崩しながら歩を進め、やがて、その力を失った。細かく崩れる土に指をかけながら、主人公は惑う。違ったのかもしれない。中央を選ぶべきではなかったのかもしれない。すべての苦労は徒労だったのかもしれない。
 そう思った瞬間、主人公は前に出る足を失う。土を掻く手を失う。周囲を見回す眼を、耳を失う。土砂が上から降りしきり、主人公は身動きがとれないままに呑まれてしまう。その上を小川が流れる。風が吹き渡る。
 春の命が芽吹き広がる。
 仙人が、ふっ、とひと吹きすると、春花の花弁が風のなかに散り水の上に落ちる。あとには何も残らない。
 主人公は、もういない。
 やあ、向こうからまたしても旅人が現れた。仙人は腕をひと振りし、淵と崖と吹き溜まりを再現する。物語はまだ端緒にさえ届かない。仙人はただ与えられた役をこなし、物語の萌芽を待つだけの任務を続け、幾たびも新たな主人公と対峙し、問答を繰り返すのみ。



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