第16期 #8

距離

 例えばテレビ。
「ボリュームあげてくれる?」彼女が言う。
「いいよ」
 例えば食事。
「ドレッシング、かけないほうが好きなんだ」と僕は言う。
「じゃあ器は別にしようか」
 彼女と暮らすようになって、ちょっとしたずれがあることに気づいた。
 一ヶ月も経つとはっきりしてきた。
 例えばまたテレビ。
「もっとボリュームあげてくれる?」
 妙に思ったのは、二人で並んで、テレビを見ていたから。禿げ男を演じる俳優が車をぶつけてきた相手に凄んでいる。聞こえないはずがない。
「なんで?」と僕は聞く。
「ちょっとね、薄い」
「薄い?」
「うん、ちょっと聞こえづらい」
 字幕の映画だ。迫力が足りないってことなら。ボリュームを上げる。急発進する車の音が派手に響いたのをいまでも覚えている。
 その頃から、彼女は口癖のように「薄い」と言うようになった。無表情でいることが多くて、悩みでもあるのか心配した。
 一方で僕は過敏になっていた。病的に。刺激だけでなく、感情の起伏も激しくなった。昼間は、花粉やら埃やらのアレルギーでまともに外を歩くことができない。テレビを見れば笑いっぱなしだった。
 なにか原因があったわけじゃない。彼女もそうだと言った。結局どちらの感覚も異常だった。食事を見れば明らかだ。
 そしてどういうわけか、お互いの変化は逆向きだった。
 僕達は悩んだ。問題を抱えていたわけではないし、他のことはうまくいっていた。彼女が僕の中のなにかを貪っていき、そのせいでどんどん弱っていくように感じた。
 彼女はどう感じたのだろう?
 とにかく互いが逆方向に走り出せば離れていく。そして変化の速度はかなり速かった。
 別れの日、夜の公園を歩きながら話をした。雪でも降りそうな寒さで、僕はコートを二枚着てマフラーを巻いていた。彼女は腕に薄手のコートをかけたまま。それが悲しくて、涙がぼろぼろ溢れた。
 時計の下で、言葉を探りあて、僕達は別れた。
 彼女の目尻にほんの少し、滲む程度の涙。目元にやった指先にそれを感じたのか、彼女は笑いたいような、なんだか複雑な顔をして、僕のほうを見て言った。
「よかった。涙が出て」
 ほんとうにそのとおり。
 めいっぱい離れてしまったけど、最後に触れることができた。
 あのときの僕には、それですべてが救われた思いだった。
 でも、彼女はどうだったろう?
 それから病気の僕達は、別々の方角に向かって歩き出した。



Copyright © 2003 林徳鎬 / 編集: 短編