第16期 #6

虚しい批評家

 僕は哀しい。それは僕が二回目に「ゴッホの音楽はいいよなあ」と呟いたときに、彼女が何も反応してくれなかったからだ。僕は彼女にむかって「バッハ」について自分なりの考えを語っているつもりだったのだが、あるときを境にバッハとゴッホを混同して使っていた。そのことに、彼女は気づいてくれてもよかったのに、「そうね、うん」と呟いたまま、彼女はイカをさばいている。
 何も僕はずっと「ゴッホの平均律パルティータはなあ」などと言っていたわけではない。ある瞬間混同したように、今度はある瞬間、その間違いに気づいたのだ。だから、僕が二回目に「ゴッホの音楽はいいよなあ」と呟いたのはある種の作為があったのである。
「あのさ」
 僕は彼女の肩に手を置いた。
「ちょっと、危ない」
 彼女はイカの内臓をとりだし、まるで外科医のように冷静にその臓物をゴミ袋へ捨てた。それからイカの皮を剥き、内側を水できれいに洗い、輪切りに切った。一連の作業が終るまで、彼女は僕をよせつけず、無視した。両手を石鹸で洗い、たおるできれいに拭きおわるとようやくこちらを振り向いて口を開いた。
「で、ゴッホがなんだって?」
「いや、僕が言っているのはバッハなんだ」
「バッハがどうしたの?」
「いや、バッハをゴッホって言ったのは一度は偶然で二度めは必然なんだ。作為的なんだよ」
「ふーん。そう。話はそれだけ?」
「それだけだよ。つまり、結局のところ音楽や絵を語るっていうのはこういうことなんだっていうのがわかったよ」
「今日はイカ料理でいい?」
「ああ。イカのトマトソースのパスタがいいな」
「わかったわ」



Copyright © 2003 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編